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森鴎外 舞姫(1890日) (2) 明治21年の裏切り [日記 (2023)]

舞姫
IMG_20230118_0001.jpg1886年、ドイツ時代の鷗外(右端)
 続きです。鴎外はなぜエリスを日本から追い返したのか?、エリスの後を追ってドイツに行かなかったのか?。
 鴎外は津和野藩の典医を務める家に生まれ、祖父、父は婿養子、鴎外・森林太郎は久々の跡継ぎとして誕生します(1862,文久2年)。9歳で四書五経をマスターする神童、つまり森家の期待の星。明治5年10歳の頃一家を挙げて上京、明治6年に12歳で東大医学部に入学し明治15年陸軍省に入省、明治17年に選ばれてドイツ留学と順風満帆。明治5年の一家を挙げての上京も森家再興のためであり、これを主導したのは神童・林太郎を擁する峰子ではないかと思います。『舞姫』に於いても、この母親は重要な位置を占めます。

(成績はいつも一番で)一人子の我を力になして世を渡るの心は慰みけらし
・某省に出仕して、故郷なるを都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり
・五十を踰(こえ)に別るゝをもさまで悲しとは思はず
・余は父の遺言を守り、の教に従ひ
・早く父を失ひての手に育てられし
・一はの自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふの死を報じたる書なりき。余はの書中の言をこゝに反覆するに堪へず

等など。鴎外は父親を「殺し」、豊太郎を母ひとり子ひとりの境遇に設定します。重要な点は、母と国家が一体化されていることです。官僚としての栄達(立身出世)が国家の繁栄と同義となり、家の再興、孝行に繋がります。エリスと同棲を始めて馘となった時点で、この立身出世→報国→孝行という連関が崩れてしまったわけです。

 母親の自筆の手紙と母親が亡くなったと云う親族の手紙が届きます。

余とエリスとの交際は、この時までは余所目に見るより清白なりき。

母親という「タガ」が外れたためか、豊太郎はエリスと「潔白でない関係」となります。同時に国家のタガも外れていますから、豊太郎はこのままエリスとやがて生まれてくる子供とドイツ暮らすことも出来たはずです。ところが、相沢と天方伯が登場し、豊太郎は帰国を決意します。

若しこの手にしも縋がらずば、本国をも失ひ、名誉を挽(ひ)きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。

 豊太郎はエリスを棄て、鴎外は結婚するためエリスを日本に連れ帰ります。森家の跡継ぎが青い眼の女性を連れ帰り、結婚すると云うのですから大騒ぎになります。森家はこぞってエリスとの結婚に反対し、その先鋒は母親・峰子だったと想像されます。鴎外も、「私」より家が優先される明治の倫理に従う他はなかったわけです。まして幼い頃から薫陶を受けた峰子の意向に逆らえなかったのです。進退極まった鴎外は、後を追うと嘘をついてエリスを帰国させる他なかったのです。

余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。

 親の教えを守り陸軍省のエリートコースを走ってきた鴎外は、ヨーロッパの自由の風当たってまことの我に目覚めます。豊太郎がエリスを棄てた様に、鴎外もエリスをドイツに追い返します。「近代的自我の覚醒と挫折」です。

七時に艀に皆乗り込んで、仏蘭西本船まで見送ったのです。 人の群の中に並んで立っている御兄い様(鴎外)の心中は知らず、どんな人にせよ、遠く来た若い女が、望みとちがって帰国するというのは、まことに気の毒と思われるのに、舷でハンカチイフを振って別れていったエリスの顔に、少しの憂いも見えなかったのは、不思議に思われるくらいだったと、帰りの汽車の中で語り合ったとの事でした。 (小金井喜美子『森鴎外の系譜』)

エリスは、見送りに来た鴎外の「ベルリンで待っている」という言葉を信じハンカチイフを振ったのです。このとき鴎外はドイツに行くことはないと自覚していたでしょう。鴎外は母・峰子が代表する「家」に破れたのです。エリスの振るハンカチの白さは、生涯にわたって鴎外を苦しめたはずです。 この項お終い。

タグ:読書
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