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森鴎外 舞姫(1890日) (1) わたしが・棄てた・女 [日記 (2023)]

舞姫
 六草いちか『 すべてのナゾがこれで解けた!! 鷗外「舞姫」徹底解読』を読んだのですが、ひとつ疑問が残ります。鴎外は異国で「女を棄てる話」を何故小説に書いたのかです。改めて読み直してみました。

わたしが・棄てた・女
 『舞姫』は、明治21年ベルリン、太田豊太郎と踊子エリスの恋物語です。一言で言えば、豊太郎が困窮するエリスに父親の葬儀費用を出し、それが縁で同棲。大使館にバレて豊太郎は留学を打ち切られます。日本から来た友人の斡旋で大臣の通訳となり、帰国して役人に復帰するため妊娠したエリスを棄てる話です。『わたしが・棄てた・女』の明治版です。

 昔読んだ時、「文豪」鴎外は恋人を棄てその顛末を小説に仕立て上げたのか…ということでした。今回読んでもその感想は変わりません。良く言えば『舞姫』は懺悔あるいは言い訳の小説です。懺悔、言い訳でいいのですが、鴎外がズルイのは豊太郎を人事不省に陥らせ、帰国を相沢の口からエリスに伝えていることです。豊太郎の裏切りと共に、これは小説家・鴎外の裏切りに他なりません。裏切りを告げると云う際どい核心から逃げたわけです。豊太郎が人事不省から回復すると、エリスは狂女となっており、すべては解決しています。

余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を注ぎしは幾度ぞ。大臣に随ひて帰東の途に上りしときは、相沢と議りてエリスが母に微かなる生計を営むに足るほどの資本与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しし子の生まれむをりの事をも頼みおきぬ。

「微かなる生計を営むに足るほどの資本」とは今で言えば手切れ金。おまけに、泣き言が相沢に向けられます。

鳴呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。

相沢が豊太郎の帰国をエリスに告げなかったら別の道が開けたのか?(日本に連れて帰る?、鴎外が実際に取った手段はこれでした)。

裏切り
 鴎外は、1888年(明治21年)9月8日に帰国、後を追うように9月12日にエリスが来日します。家族に結婚を反対された鴎外は、後でドイツに行くからとエリスを追い返します。エリスは10月17日帰国、日本滞在はわずか1ヶ月。鴎外は結局ドイツを訪れることはなく、4か月後には親の勧める赤松登志子と結婚しています。
 1889年、親友・賀古鶴所(舞姫の相沢に相当する人物)が視察でベルリンを訪れ、鴎外の結婚をエリスに伝えた様です。賀古は10/2に帰国し、翌月『舞姫』が書き始められます。『舞姫』の「 我豊太郎(林太郎)ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」は、エリスが賀古に投げつけた言葉だと六草いちか氏は推測しています。

 ドイツから恋人が追いかけてきたというスキャンダルは鴎外の周囲で話題となります。鴎外は小説の形で決着を着けようとしたのでしょう。発表に先立ち、1889年暮に朗読会を催して事の顛末を家族に告白しています(小金井喜美子『森於莵に』)。鴎外は、小説として発表して周囲の理解を得る以上に、人として決着を着ける必要があったと思われます。但し弁解の余地はありませんから、美文で韜晦した懺悔、言い訳の物語となります。続きます

タグ:読書
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