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ゾルゲ・ファイル (2)  独ソ開戦(バルバロッサ作戦) [日記 (2023)]

ゾルゲ・ファイル 1941-1945――赤軍情報本部機密文書 (新資料が語るゾルゲ事件 1)  バルバロッサ作戦の第一報は、ドイツが東部国境に80師団展開を知らせる1940年12/28の電文でした。1941年5月に入ると侵攻は現実味を帯びてきます。

5月2日の電報
東京、1941年5/2
 私はドイツのオット大使および海軍武官と、独ソ関係について討議した。 オットは、ヒトラーはソ連を撃破し、ソ連欧州部を手中に収めて、ヨーロッパ全土を支配するための穀物と資源の基地にする決意だと述べた。・・・ソ連で農作物の種まきが終了する時である。種まきが済めば、対ソ戦はいつでも開始できドイツは穀物を収穫するだけでよい。・・・いつ何時、戦争が勃発してもおかしくない情勢にある。ヒトラーとドイツの将軍たちは、ソ連と開戦しても、対英戦の足かせには全くならないと確信している。
ドイツの将軍たちは赤軍の戦闘能力を極めて低く評価しており、交戦すれば、数週間で粉砕できるとみている。彼らは、独ソ国境地帯のソ連の防衛体制も、非常に脆弱と見なしている。・・・対ソ開戦が五月なのか、対英戦争終結後なのかは、ヒトラー自身によって決定される。一方で、個人的にはソ連との戦争に反対しているオット大使は、現在非常に懐疑的になっており、ウラッハ公に五月中にドイツに戻るよう勧告した。(p138)

本部長のグリコフは、スターリンに忖度して都合悪いところは抹消していますw。5/31、最新の情報を携えドイツから旧知(武官としてゾルゲ、オットの3人で日本軍の調査研究をしていた)のショル中佐が来日します。

クウラウゼンの改竄
東京、1941年6/1
 6月15日前後に独ソ戦が始まるという予想は、ショル中佐がベルリンから持ち込んだ情報にもっぱら基づいている。 ・・・オットはこの情報をベルリンから直接入手できず、ショルを通じて知ったと述べた。・・・ショルは、ドイツ軍が左翼から猛攻を加えれば、ソ連軍に最も強烈な一撃を加えることができると語った(p166)

具体的な日付が入るのは、この6/1の電文からです。ドイツのソ連侵攻の情報は、ゾルゲだけではなくヨーロッパの諜報員からも数多く入っていたようです。何故スターリンは迎撃準備をしなかったのか?。『ゾルゲ伝』によると、5、6月に侵攻されては迎撃準備が間に合わないため、スターリンは1939年の「独ソ不可侵条約」を信じ、時期をイギリス侵攻の後だと「信じたかった」わけです。グリコフ情報部本部長など取り巻きがその希望的観測に合わせた情報をスターリンに伝えていたというのです。
6/3の返電で「左翼」の意味を問い合わせて来ます。本書の「注」によると、クラウゼンがゾルゲの原稿を大幅に削って送信したために意味が通じなかったと解釈しています。ゾルゲはショル中佐とのやりとりを逮捕後にこう供述しています。

独ソ戦 は来る六月二十日に開始される予定で二、三日延期されることがあるかも知れぬが開戦の準 備は既に完了して居る。東部国境には独逸軍の師団が百七十乃至百九十個集中されて居り之等の師団は総て戦車を持って居るか、又は機甲化された師団である。独逸軍の攻撃は全線に亘って行はれ其の主力はモスコウとレーニングラードに向けられ後にウクライナに向けられる。(現代史資料1.p274)

6/22の侵攻日を的中させていますが、クラウゼンがこれを送信していたとしてもスターリンは信じなかったでしょう。ゾルゲの警告を、情報部は「貴下の情報の信頼性を疑う」と返電し、スターリンは「日本のちっぽけな工場や女郎屋で情報を仕入れているクソッタレ野郎」とこき下ろしたと言います(アイノ・クーシネン)。

開戦
 22日にバルバロッサ作戦が発令され迎撃準備をしていなかった赤軍は撃破されます。

1941年6/22
東京、同志インソン/ラムゼイへ
あなたに前回の情報を感謝する。6月27日にわれわれの部下との面会に行ってほしい。念のため、予備の面会日は六月二九日とする。場所と時間は前回の面会に準ずる。われわれの部下があなたに金を渡す。 次の郵便でまた金を送る。(p182)

文字通り「現金な話」です。東からドイツ、西から日本に攻められてはたまりませんから、日本の出方が気になり追っ付け電報が来ます、

1941年6/23
ラムゼイヘ、同志武官グシェンコ
ドイツが起こした対ソ戦争に関して日本政府のとる立場について情報を報告せよ。本部長

命令形ですw。グシェンコとは駐日ソ連大使館の武官(赤軍情報部)です。上海に伝書使を送ることが危険になり、1940年頃から文書と活動費の授受はソ連大使館を通じて行われるようになります。

東京、1941年6月26日
この困難な時代にも幸運がありますように。われわれ一同、ここで粘り強く仕事を遂行するつもりである。
松岡(外務大臣)はドイツのオット大使に、一定の期間を経て日本はソ連攻撃に踏み切るに違いないと言った。?
インソン? (p189)

この電報はスターリン、モロトフ、ベリヤ、ティモシェンコへ送付され、家防衛委員会の委員、国防人民委員、参謀総長へ報告されます。如何にソ連側が衝撃を受けたか想像されます。ゾルゲは開戦日を当てたのですから、今回の情報も信じざるを得ません。クレムリンは震え上がったわけです。

ゾルゲにしては文章が短く、単発的で、クラウゼンが元の原稿を大幅に縮小して打電したとみられる。この原稿のオリジナルは警 察押収文書の中に入っていない。暗号解読日が送信日から一週間もたっているのも疑問で、クラウゼンが送信を遅らせた可能性がある。(編者による注、p189)

クラウゼンは、何故ゾルゲの原稿を握り潰したり短く改変したり送信を遅らせたりしのか?。『ゾルゲ伝』では、独善的なゾルゲへの反発、共産主義(赤軍情報部)への不信、「クラウゼン商会」の成功などがあると言います。ゾルゲの逮捕に際し、モスクワ宛の電文の原稿が押収されています。9/14の日米交渉を巡る電文などはゾルゲの原稿の5%だそうです。

東京、1941年9月14日
赤軍参謀本部情報本部長へ
日米交渉は今後の進展により、一時的にせよ合意に達する可能性があることが分かった。交渉の内容はまだ明らかにされていない。 インソン(ゾルゲ)

本書の注では、

言葉足らずのこの短い電報は、 クラウゼン宅で押収された元の原稿の一節をピックアップしただけで、クラウゼンは全体の五%も送信していないことが分かった。 オリジナルは、「日本軍の対ソ参戦は、ソ連軍が西部へ大移動し、シベリヤで内政上の騒乱が起きた時だ」 「対ソ戦に参加しないのに、関東軍を大増強したことに、陸軍内で激しい議論が起きた」「日米交渉は、①日本が仏領インドシナに進出しない②日本は将来の三国同盟脱退を保証する ③ 米国は日本に大規模な経済的報償を与えるーーーなどの修正が加えられて合意する可能性がある」 「陸軍は、南進の準備不足、ソ連軍の強力な抵抗、国内経済危機などから、近衛首相に対米交渉をやらせてみることを決めた」など興味深い内容が含まれていた。(『現代史資料24?ゾルゲ事件4』、九九頁)(p299)

ゾルゲの原稿を「ドイツ統計年鑑」を使って暗号化し逆探知の危険のある長時間の無線送信は、クラウゼンに負担だったのでしょう。

タグ:ゾルゲ 読書
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