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積読 中村真一郎 王朝文学論 (2) (1971新潮社) [日記 (2024)]

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 紫式部は『竹取物語』を「物語の出で来はじめの祖」と書いているそうです。『竹取物語』に始まる平安文学を教科書的に並べると、

910年以前『竹取物語』物語
935年頃『土佐日記』紀貫之
 成立時期不明『伊勢物語』
974年以後『蜻蛉日記藤原道綱母  ーーーー
 1979年兼家右大臣                |
984年以前『宇津保物語』作者未詳     |
 986年寛和の変、一条天皇即位、兼家摂政 |
989年頃『落窪物語』作者未詳       |
 990年道隆関白、摂政          |
 999年彰子後宮入り           |
1000年頃『枕草子清少納言        |
1004年以後『和泉式部日記和泉式部      |
1008年頃『源氏物語紫式部        |
1010年以後『紫式部日記』紫式部        |
 1016年道長摂政宣下             |
 1028年道長没        ーーーーーーーーーー|
 1028年以後『栄華物語赤染衛門     
1057年頃『浜松中納言物語』菅原孝標女?  |
1059年以後『更級日記菅原孝標女     
1060年以前『夜の寝覚』菅原孝標女?    |
1080年頃『狭衣物語』六条斎院宣旨源頼国女
1120年頃『大鏡』作者未詳(男性)
1120年頃『今昔物語集』作者未詳、説話
 1167年平清盛太政大臣
1180年以前『とりかへばや物語』作者未詳 wikipedia「日本の中古文学史

 となり、多くは藤原兼家と 道隆、道兼 、道長三兄弟の時代に書かれています。『栄華物語』も道長をモデルとした物語で赤染衛門は彰子サロンの一員、菅原孝標女も『源氏』の強い影響下にあります。
 作者はいずれも中流貴族「受領階級」の娘。面白いのは、彼女たちが《藤原倫寧》という貴族に繋がること。藤原倫寧の娘が兼家の妾となって『蜻蛉日記』書きます。彼女の兄の妻の姉妹が清少納言。倫寧の娘のひとりが結婚相手・藤原為雅の弟の娘が為時と結婚して生まれたのが紫式部。更に、倫寧の娘のひとりが菅原孝標と結婚し、その間に生まれた娘が『更級日記』の作者。(p169)

藤原倫寧 →娘1:兼家と結婚(藤原道綱母
     →娘2:為雅と結婚、為雅の弟の娘が為時と結婚し生まれたのが紫式部
     →娘3:菅原孝標と結婚し生まれたのが 菅原孝標女
     →息子:妻の姉妹が清少納言

紫式部は娘婿の姪、清少納言は息子の嫁の姉妹で赤の他人。菅原孝標女はかろうじて孫。
 娘1が兼家と結婚したのは異例ですが、当時は一夫多妻ですから、結婚した言っても北の方ではなく「妾」です。『光る君へ』でも、まひろ(紫式部)は道長と結婚できません(妾は嫌だと言ってますw)、道長の正妻は左大臣の娘・源倫子です。廟堂に連なる上流貴族と受領止まりの中流貴族の間には、厳然たる身分の壁があったようです。彼女たちは受領階級間で結婚し、紫式部の夫は越前守、清少納言の夫も陸奥守という受領です。受領の娘たちは、上流貴族の娘に女房として仕え、そのサロンで美貌と知性で妍を競うわけです。それが彼女たちの身分上昇です。著者が「文学的動機の根柢に、成り上り根性、スノビスムを秘めている。彼らは最高の社会を、憧れと同時に恨めしさの感情をかくしながら、微細に観察する」と記す所以です。

 では何故この時代のサロン=帝の後宮で王宮文学が生まれたのか?。当時和歌は重要なコミュニケーションの手段であり、知性と教養を計る物差しであり、歌の上手い下手は恋や出世に大きく影響したわけです。道長は、娘彰子のために赤染衛門、紫式部、和泉式部、伊勢大輔など一流の歌人を家庭教師として集めます。後宮が栄え一条天皇が彰子の下に通う回数が増えれば、それだけ外戚となる確率が高くなるわけです。彼女たちは、『拾遺和歌集』など勅撰和歌集にも歌が採用され『中古三十六歌仙』『女房三十六歌仙』にも選ばれる歌の巧者、後宮に集まった才媛によって物語、随筆がノンフィクションの日記が書かれたわけです。

 もうひとつが「かな文字」、

仮名という、わが国独自の文字が作られ、それらがたちまち流通したのがこの時代である。しかも、男性たち、政治や学問に従事する者たちは、相変らず大陸から入ってきた漢字を学び、日用にも漢字を用いていた。政治の公用文も漢文なら政治家の日録も漢文で書かれた。したがって、仮名は女性の専用文字となった。
和歌は当時は、単なる芸術ではなく、日常の応答、挨拶にとっての必要品であったから 一応の教養人はだれでも、時に応じて作歌する訓練をしていたが、この和歌だけは、さすがに男性も仮名を用いて、書き記した。しかし、散文は――ふだん、自分たちの会話に使っている言葉を、そのまま文章に書き表わすという散文は、漢文では書けないから、仮名で書くことになるし、それゆえ、わが国の散文の創始者の名誉は、平安中期以後の宮廷女性たちに帰せられるということになる。

 かな文字と言う表現手段を得た彼女たちは、和歌に飽き足らず物語、日記にジャンルを移し、『源氏』『狭衣』 『寝覚』 『浜松中納言』というような物語類、また、『枕草子』 や 『蜻蛉日記』のような随筆、ノンフィクションが出来上ったわけです。現在の日本文なるものは、1000年前に宮廷の女性たちによって始められたものだと考えると、愉快です。

タグ:読書
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