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髙村薫 冷血(下) [日記(2012)]

冷血(下)
 上巻では、歯科医一家強盗殺人事件に至る被害者と加害者の数日間が描かれましたが、下巻第3章「個々の生、または死」では、合田雄一郎による犯人の取り調べと公判が描かれます。下巻は、普通のミステリが終わったところから始まります。

 事件は比較的単純です。「スタッフ募集。一気に稼げます。素人歓迎」という携帯サイトの求人広告で知り合った井上と戸田が、ATM強奪、コンビニ強盗をへて歯科医宅に押し入り、一家4人を殺して貴金属、キャッシュカードを奪う強盗殺人事件を起こします。事件直後に16箇所のATMで現金を引き出し、身元が割れて3ヶ月後逮捕に至りますが、ふたりはあっさり強盗殺人を認め一件落着。ところが、小説はここから始まります。
 事件の核心は、留守だと思って空き巣に入った歯科医宅で家人に出会い、居直り強盗となって4人を惨殺した動機と殺意の有無です。
 取り調べに、井上も戸田も空き巣の動機を金銭目的ではなく、気晴らしに何かやりたかったと言い、殺すことは考えていなかったと殺意を否認します。ふたりとも、金銭的に逼迫していたわけでもなく、1200万、ひとり当たり600万をATMから引き出したもののほとんど使わず、盗んだ800万相当の貴金属もコンビニのゴミ箱に捨てています。

 井上は、留守だと思った歯科医宅で邪魔が入ったので、黙らせるために、玄関をこじ開けた4kgの鉄棒でバットを振り回すように歯科医の頭を殴打。つづいて階下に降りてきた妻を脅してキャッシュカードの暗証番号を聴きだした上、鉄棒で頭を殴りつけます。さらに、ふたりに座布団を被せ鉄棒で2回、スイカ割りの様に鉄棒を振り下ろします。鉄棒を受け取った戸田は、眠っているふたりの子供を布団の上から鉄棒を振り下ろして殺害します。
 井上は、歯科医を殴ったのは考える前に体が動いていた為、歯科医の妻を殴ったのは、彼女が軽蔑の眼で見たからというものであり、座布団を被せてトドメをさしたことについては、もう一二発殴りたかった為だと供述します。
 戸田は、夫婦は井上がヤッのだから、子供はオレがヤルという奇妙な義務感で鉄棒を振り下ろしたということで、ふたりは殺すつもりは無かったと殺意を否認します。

 雄一郎はふたりの育った環境から事件に至る履歴、事件そのもののディテールをたどり、殺意の無い強盗殺人事件に分け入ることとなります。
 夫婦揃って薬物中毒の砂利採取業者の長男として生まれた井上、教師の両親を持ち、両親の過剰な期待からドロップアウトした戸田。ふたりは携帯サイトで知り合いわずか7日のうちに殺人事件の共犯者となります。このふたりの関係も謎なら、殺意も無いまま畑のキャベツを潰す様に(井上の供述)4人の人間の頭を潰し、ズサンな逃亡の末捕まったという犯罪そのものも謎。重さ4kgの鉄棒で何度も頭を殴ればどうなるかは明らかで、その結果に想像力が及ばない人物こそが謎。
 想像力の欠如した井上は、逮捕後、雄一郎の差し入れた『利根川図志』を読み耽り、戸田が逃亡中に観ていたレンタルビデオが、テオ・アンゲロプロスにイングマール・ベルイマンであることが明かされます。戸田は拘置所で広辞苑を1ページから読み、映画『パリ、テキサス』について雄一郎と文通し、雄一郎は井上にルナール『博物誌』、寺田寅彦、柳田国男の文庫本を差し入れると云う、刑事と殺人犯の奇妙な関係、ある意味連帯の関係が描かれます。いずれも作者が作り上げた『冷血』な犯罪者です。このふたりに向き合うことで雄一郎もまた、自分の心を覗き奥底に潜む『冷血』に向き合うこととなります。

 『冷血』はフィクションですから、作家なりの必然や解釈があってのことだと思うのですが、この井上と戸田の殺人の謎に明確な答えはありません。
 戸田は拘留中に病死し、井上は死刑判決を受けます。裁判と云うものが、人間の行動を類型化して量刑を決めるシステムであれば、殺意の無い歯科医師一家殺人事件は、ふたりにとっては、裁判の埒外にある行動だった云うことでしょう。
 
  『晴子情歌』辺りから路線変更した?髙村薫が、合田雄一郎を引っさげて再登場しました。髙村ファンとしては、満足の1冊です。

タグ:読書
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