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カミュ ペスト(宮崎嶺雄訳) [日記(2014)]

ペスト (新潮文庫)
 カミュなんて読むのはン十年ぶりです。学生時代に仏語の授業で「異邦人」を読まされて以来カミュは鬼門。たまたま百円で仕入れたので読んでみました(動機不純)。宮崎嶺雄訳の新潮社版(1969年)が未だ流通しているようで、読んだのはこれです。

【登場人物】
 ペストの発生したアルジェのオランで、閉鎖された街でペストと闘う人々の物語です。主な登場人物は、

リウー:主人公、医師。ペスト患者の治療に当たる。
タルー:正体不明の金利生活者、オランに住むようになって日が浅い。保険隊に参加しリウーを助ける。オランの惨状を手帳に書き留めている。
ランベール:オランを訪れた新聞記者。パリの恋人が心配で、オランから逃げ出そうとする。後、保険隊に加わる。
グラン:市役所の吏員、作家を目指している。保険隊に加わる。
コタール:自殺を図りグランに助けられる。密売等で警察に追われているが、ペスト騒ぎによって捜査が止まり喜んでいる。
パルヌー:神父。ペストを神がもたらした厄災だと考える。オトン神父の息子の死に立ち会い、宗教上の岐路に立たされる。
オトン:予審判事。ペストで息子を亡くし、リウーたちに協力する。

【ペスト】
 「ペスト」はファシズムのことだと言われます。例えば、ペストの猖獗とともにオラン市は埋葬場所にを事欠くようになり、死体を焼却し、終いには大きな穴を掘って生石灰とともに折り重なるように埋めます。これなどは、ナチの強制収容所、(ファシズムとは少し違いますが似たようなもの)カチンの森の虐殺を連想します。
 ファシズム=ペストと考えると、ペストの犠牲となった人々、生き延びた人々、ペストと戦った人々、逃げ出した人々、迎合した人々がいます。『ペスト』で描かれるのは、ペストの猛威と向き合うオランの市民の姿で、それはそのままナチスに占領されたフランス国民と二重写しになるのかも知れません。ランベールはペストから逃げようとし、小タールはペスト迎合したと考えてもいいでしょう。
 人間を暴力的に支配する脅威、あるいは災禍は、ウィルスでも政治でも、戦争でも何でもかまわないわけです。フクシマであってもいいかもしれません。その脅威に人はどう向き合い対処したかです。圧倒的な脅威の前で個々の人格と倫理が問われ、罪もない人々が次々にペストにかかって死ぬにもかかわらず、神は沈黙し、教会は手をこまねく他はなく、「宗教」もその存在意義が問われます。

【それぞれも事情】
 ネズミの大量死から始まったオラン市のペストは、やがて1日に百数十人の死者が出るまでに猛威を振るいます。この状況下で、リウーを始めとする医師たちは、治療はもちろん、行政にはたらきかけ患者を隔離しワクチンを製造し、ペストと正面から向き合います。
 そして、ランベール、グラン、タルーなどリウーを取り巻く人々が如何にこの災禍に向き合ったかが語られます。恋人をパリに残したランベールは、なんとかオランの街から逃げ出そうと逃亡を幇助する組織と接触します。市の吏員であるグランは、勤務時間外にボランティ組織の保険隊に参加してタルーを助け、タルーもこの保険隊に合流します。パルヌー神父は、ペストこそ神がオラン市民にもたらした厄災であり、今こそ信仰に戻るべき時だと説きます。警察に追われるコタールは、ペストによる全市の混乱は自分に与えられた猶予でありチャンスであると考えて、この厄災が続くことを望むというわけです。ペストという非常事態が続くと、ペストの流行もまた「日常」となって、生に対する渇望からか劇場や映画館が賑い、酒場は男たちで溢れかえります。

スペイン内戦に義勇軍として参加した過去を持つランベールは、ペストと闘うリウーたちをシニカルに見ています。彼は、観念(反ファシズム)のために死ぬヒロイズムはもううんざりだと言い、愛するものために生きかつ死にたいと言います。リウーは、医師や保険隊がペストに立ち向かう行為はヒロイズムなどではなく、「ペスト戦う唯一の方法は、誠実さ」だと説き、誠実さとは自分の義務を果たすことだと言います。
 そして、オラン市から逃げ出すことを考えていたランベールは、保険隊に参加します。ランベールは、ひとり逃げ出すことが、自分ひとり幸福になることが恥ずべきことであり、恋人を愛することの邪魔になると考え、ペストの悲惨を目の当たりにした自分は、もうよそ者ではなくオランの人間だと自覚して保険隊に加わったのです。

【オトン判事の息子】
 オトン判事の息子が発病します。少年は隔離病棟へ移されリウーの患者となり、長時間苦しんだ挙句に亡くなります。少年の死に、リウーは医師として立ち会い、パヌルー神父はボランティアとして立ち会います。
 パヌルー神父は、ペストは神のもたらした災禍だと教会説きましたが、罪も汚れもない少年に神が災禍をもたらす事実を前にして、その信仰が揺らぎます。パヌルー神父は、「すべてを信ずるか、さもなければすべてを否定するか」と問い、ぎりぎりのところで神を肯定しますが、リウーは、子供たちが無慈悲に死んでゆく世界を否定します。
 これは『カラマーゾフ』でイワンが論じた「(勝手に命名)神ちゃま論」です。イワンは、『おれは神を受け入れないわけじゃない、アリョーシャ、おれはたんにその入場券を、心からつつしんで神にお返しするだけなんだ。』と宗教を否定しました。本書でも、この問いが投げかけられますが、答えはありません。リウーの「自分の義務を果たす誠実さ」というのが、やや近いかも知れません。

【タルー】
 冒頭で、タルーはペストが流行る数週間前にオランに現れ、ホテルに棲みつくようになった正体不明の人間であることが語られています。その後リウーと出逢い、保険隊に参加します。タルーがペストにどう向き合ったのかが自らの口から語られます。
 タルーは、人は誰でも自分の中にペストを持っていると言います。そして、自分の中のペストを殺し、ペストの蔓延する中で生きていくためには、ペストの犠牲者の側に立つことが必要であるとし、そのためには犠牲者に「共感」することだと言います。「連帯」と言い換えてもいいかもしれません。
 リウーやランベール、パルヌー神父に比べると、分り辛い話しです。人間が、殺す側にも殺される側にもなりうるなら、タルーは弱者や殺される側に立ちたいということだと思います。その論理で、タルーは保険隊に参加しペストと向かい合ったわけです。
 
 久々に「文学」なるものを読みましたが、なかなか肩が凝ります。まず、物語に乗れない。カフカとともに「不条理」の文学と言われる小説家ですから、『ペスト』は、降って湧いたペストという厄災=不条理に人はどう対処したのか、ということが主題だと思います。人間VS.不条理の深淵を見せてくれるのかというと、(私の読み方が甘いのでしょうが)リウーの「誠実」、パヌルー神父の「それでも神の愛」、タルーの「共感」など、意外とヒューマニズムに満ちています。
 堅い訳なので入り込めませんでした。期間をおいてまた読んでみます。

タグ:読書
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