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嵐山光三郎 文人悪食 [日記(2014)]

文人悪食 (新潮文庫)
 漱石から三島由紀夫まで、37人の文人の食にまつわるエピソードを紹介しながら、その小説世界に切り込んだエッセーです。「食」という人間の最も根源的な欲望に根ざしたエピソードですから、意外なところで文士たちの作品の秘密に迫っています。エッセーですが気軽に読むと食あたりしそうです(笑。

【森鴎外】
 森鴎外の「饅頭茶漬」は面白かったです。鴎外は、饅頭をご飯に乗せて煎茶をかけて茶漬けで食べます。鴎外はドイツに留学して衛生学、細菌学を学び後に陸軍省医務局長となります。細菌がよほど怖かったのか、果物も生では食べず煮て食べるほどだったと言います。だから「饅頭茶漬」というわけでもないでしょうが、酒が苦手で甘いもの好き、かつ異常な細菌恐怖症という鴎外ですから、そりなりに理にかなっています。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺書を残したことは有名です。臨終の枕元には、親族と親友の賀古鶴所ら限られた人だけだったようで、多くの門下生に囲まれて臨終を迎えた漱石とは趣を異にします。著者は、

 この死にかたに関しても鴎外の衛生観念が強く作用している

とは少し考え過ぎだと思うのですが、饅頭茶漬からここへ持ってくる手並みはさすがです。

【島崎藤村】
 うまい料理を知っている人間のみが、まずい料理をまずそうに書くことができる。まずさのなかに、冷える悲しさがなければならない。

 と、まず藤村が書いた『夜明け前』の主人公の粗食について述べます。藤村の生家は素封家ですから、決して粗食で育ったわけではないでしょう。うまいものも食べているからこそ、小説の中ではまずい料理をまずそうに書いたと言いたいのでしょう。
 そう書いておいて、

藤村は料理をまずそうに書く達人であったが、それは恋愛をまずそうに書く達人でもあり、自分を嫌われ者にして売りつける寝業師なのである。

 話を藤村と姪の恋愛に持っていきます。
 そして、「藤村は粗食淫乱の人である」と決めつけます。藤村は、姪(兄の子)と肉体関係に陥って妊娠させ、『新生』という言い訳小説を書いてフランスに逃げます。有名な話です。著者は『若菜集』に「葡萄」というキーワードを見つけ、『新生』では姪との不倫に「葡萄酒」という隠語を用いていることに目をつけ、摘み取った葡萄(姪)を醸して芳醇な葡萄酒にすると云う発想に着目します。うまい料理(不倫)を知っていて、それをまずそうに書いた小説が『新生』なのだと言います。
 藤村の項に限らず、著者のアクロバティックな論理の飛躍とアフォリズムは、説得力があります。

 小説を読んでいて生唾を飲み込んだのが、池波正太郎の『剣客商売』に出てくる「根深汁」。池波の時代小説には、旬のものをシンプルに調理した実に旨そうな料理が次々に登場します。
 先日読んだ檀一雄『火宅の人』にも「テールスープ」など凝った料理が登場します。檀一雄は欧米に行っても、市場を覗き材料を買い込み下宿でコトコトグツグツ。この作家にとって、火宅(煩悩)とは女色ではなく美食ではなかったかと思えるほどです。

【池波正太郎】
 屋台のどんどん焼き、資生堂パーラーのチキンライス、果物屋のホットケーキなど、池波「少年」の食を語った後で、著者はこう書きます。

・・・どれにもじんわりと人情がしみている。・・・それらはいずれも料理に寄りそい抱きしめて、料理をひきたてている。料理は料理人が作るものだが食べるほうにだっていろいろの事情がある。・・・池波少年はたぐいまれな食いしん坊であったから、いっさいの事情を味つけとして「うまい、うまい」と食べてしまった。

食べる方の事情、事情を味付けにする、とは当然といえば当然です。「根深汁」は出てきませんでしたが、「文人」に寄り添った心温まるエッセーです。もっとも、当時健在であった池波正太郎の食について、「藤村は粗食淫乱の人である」みたいなことは書けません。もっとも、同時代人であった三島由紀夫については、「自決」の後だったということもあってか、「店通ではあったが料理通ではなかった」とにべもありません。

 「料理は食べる方の事情」について、永井荷風の項でこう書いています、

味は料理じたいの味ではなく、その味が置かれた状況なのである。荷風は自分が薄情な男であることを知っている。薄情であるがゆえに、薄情が料理にしみこむ、ほどよい孤独を食べようとし、またそれを小説に書いた。
 
【檀一雄】
 檀一雄は、著者が編集者としてその取材旅行にも同行し、檀とともに料理を作りそれを食べた関係だそうです。檀は『檀流クッキング』の著書のある当時の文壇一の料理人です。
 檀が料理をするようになったきっかけは、10歳で母親が男と出奔し、小さい妹達に食べさせるためだったそうです。これは確か『火宅の人』か沢木耕太郎の『』にも書いてありました。著者は、檀の調理好きと「火宅(女色)」について、

 檀一雄は、「幼少から私は母を自分の部外者とみなしていた」と言う。母に棄てられたが、自分の意識でも母を捨てた。その結果、料理の腕をあげ、また肉親を客観化する視点を獲得した。檀氏にとって料理と女はこの部分で表裏一体となって合体する。

分かったような分からないような。『火宅の人』の読者には、妙に説得される意見です。また檀は、太宰治、坂口安吾とは「無頼派」と一括りにされるグループを形成し、また親友でもあります。安居に言わせると

檀君が料理をやらかすのは、あれで発狂を防いでいるようなもんだから

だそうです。これを受けて著者は、

材料を煮込んだり、蒸したり、焼いたり、いろいろといじっている混沌の時間は、狂気を押さえつけ、ひたすら内部に沈潜させる力がある。料理に気持ちを込めることは他の欲望をしずめるための手段である。
安居はヒロポンとアドルムに屈指、太宰は情死した。檀氏は、これに屈したくなかった。

つまり、檀にとって料理とは薬物と情死の中和剤であり自己救済だというのです。『火宅の人』において、愛人との仲が行き詰まると、檀は材料を大量に買い込んで料理に励んでいます。
 ともかく、雑誌社の檀一雄担当でもあった著者は、この作家には優しいです。

 とまぁ、頷く頷かないにかかわらず、どれをとっても面白いです。気に入った作家から読むもよし、読んだあとも、適当なページを開け著者のアフォリズムに耳を傾けるもよし、読書案内にも最適な一冊です。唯一残念なことは、喰い倒れ街大阪の無頼派、織田作之助が取り上げられていないことです。

タグ:読書
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