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kindleで読書 織田作之助 起ち上がる大阪 大阪の憂鬱 [日記(2014)]

大阪発見大阪の憂鬱大阪の可能性
 織田作の随筆から「大阪」の文字が冠についた随筆を読んでみました。『起ち上る大阪1945年4月』『大阪の憂鬱1946年8月』『大阪の可能性 1947年1月』『大阪発見(初出年月日不明、1947年?)』の4篇です。
 
【起ち上る大阪(1945年4月)】
 1945年3月の「大阪大空襲」後、罹災から起ち上がる大阪人の逞しさを描いています。前年の1944年1月に三高以来の友人・白崎礼三が、8月には愛妻・一枝が亡くなっています。失意の織田作と書きたいところですが、手の速い彼は、『わが町』を上演した劇団の女優・輪島昭子と早くも同棲に入っています。この年、連続放送劇「猿飛佐助」が大阪中央放送局から放送されています。

 『終戦前後』を読むと、

六月といえば、大阪に二回目の大空襲があった月で、もうその頃は日本の必勝を信ずるのは、一部の低脳者だけであった。政府や新聞はしきりに必勝論を唱えていたが、それはまるで低脳か嘘つきの代表者が喋っているとしか思えなかった。

『青春の逆説が』発禁となり、自由に書けない「非国民」織田作は、敗戦を望んでいたのでしょう。出口王仁三郎の、「昭和二十年の八月二十日には、世界に大変動が来る」という予言を半ば信じていた節があります。

「起ち上れ大阪」と呼び掛けるか、「大阪よ起ち上れ」と叫ぶ方が、目下の私の気持から言ってもふさわしいかも知れない。

これは、「立ち上がれ織田作」でしょうね。
 
 「復活する文楽」という話を枕に、ふたりの罹災者が登場します。ひとりは南で喫茶店を開いていた「他アやん」、もひとりは書店の主人「三ちゃん」。
他アやんは、疎開もせず焼け跡に家族と暮らしながら、

よう、織田はん、よう来とくなはった。見とくなはれ、ボロクソに焼けてしまいました。さっぱり、ワヤだすわ」
「メリ助が怖うてシャツは着られまっかいな。戦争済んだら、またここで喫茶店しまっさかい、忘れんと来とくなはれ

三ちゃんは、

一ぺん焼かれたくらいで本屋やめますかいな。今親戚のところへ疎開してまっけど、また大阪市内で本屋しまっさかい、雑誌買いに来とくなはれ。
織田はん、また夫婦善哉書きなはれ

と至って元気がよく、他アやん、三ちゃんに大阪の復興を期待しています。戦時下ですから空襲の悲惨を書くわけにもいかず、織田作としてもこれが精いっぱいでしょう。

【大阪の憂鬱(1946年8月)】
 終戦から1年、逞しく「起ち上がった」大阪を書くはずが、なんと織田作は「憂鬱」を感じています。

「何でも売っている」 大阪の五つの代表的な闇市場――梅田、天六、鶴橋、難波、上六、の闇市場を歩いている人人の口から洩れる言葉は、異口同音にこの一言である。

 一時、「焼け跡闇市派」なる言葉が流行りました。大阪で言えば、『日本アパッチ族』を書いた小松左京や『裸の王様』の開高健でしょう(第三の新人)。織田作は彼らより1世代前ですから(無頼派)、「解放」の謳歌ではなく「憂鬱」なのかどうか。

 食管法と専売法の埒外の闇市の話しです。警察と闇市の馴合「手入れ」と専売局のタバコ横流しです。

東京の人々はこの記事を読んで驚くだろうが、しかし私は驚かない。私ばかりではない。大阪の人はだれも驚かないだろう。

 と大阪の官民挙げてのチャランポランぶりを書いて、空襲で焼けなかった京都の話し入ります。織田作は三高時代5年間京都に住んでいますから、京大阪の違いを肌で感じることができます。

大阪の妾だった京都は、罹災してみすぼらしく、薄汚なくなった旦那の大阪と別れてしまうと、かえってますます美しく、はなやかになり、おまけに生き生きと若返った。古障子の破れ穴のように無気力だった京都は、新しく障子紙を貼り替えたのだ。

都から大阪へ行く。闇市場を歩く。何か圧倒的に迫って来る逞しい迫力が感じられるのだ。ぐいぐい迫って来る。襲われているといった感じだ。焼けなかった幸福な京都にはない感じだ。既にして京都は再び大阪の妾になってしまったのかも知れない。
 
「京都妾論」は『それでも私は行く』にありました。
 
 さらに織田作は、食堂で、次々に運ばれる料理を平らげる青年を見て、「一種の飢餓恐怖症」に罹っていると断じ、

大阪の逞しい復興の力と見えたのも、実はこの青年の飢餓恐怖症と似たようなものではないかと、ふと思った。
千日前や心斎橋や道頓堀や新世界や法善寺横丁や鴈治郎横丁が復興しても、いや、復興すればするほど、大阪のあわれな痩せ方が目立って仕様がないのである。

 織田作が期待したものは、『わが町』に描かれる人々の復活であり、『起ち上がる大阪』で描いた「他アやん」や「三ちゃん」の復権だった筈です。ところが、焼け跡から起ち上がった闇市と飢餓恐怖症のエネルギーを見て「憂鬱」になったのでしょう。

【大阪の可能性 (1947年1月)】
 一言で言うと、大阪弁と京都弁を比べ、京都の言葉は「紋切り型」だが大阪の言葉には多様性があると断じ、そこから「大阪の可能性」を論じようというのです。牽強付会もはなはだしいわけで、京都人が聞けば「そうどうすかぁ~」といなされるのがオチでしょう。
 これは、坂田三吉を持ちだして「東京文壇」に噛み付いた『可能性の文学』と同じ文脈で読むことが出来ます。

 例えば、

彼女たちが客と道で別れる時に使う「さいなアら」という言葉の「な」の音のひっぱり方一つで、彼女たちが客に持っている好感の程度もしくは嫌悪の程度のニュアンスが出せる

と言いつつ

大阪弁の「ややこしい」という言葉のようにざっと数えて三十ぐらいの意味に使えるほどの豊富なニュアンスはなく、結局京都弁は簡素、単純なのである。

と断じるあたりは、ちょっと違うのではないかと思います(私も5年ほど京都市内に住みました)。逆に言うと、「紋切り型」の言葉というのは、千年王城の地で磨きぬかれた表現だということも出来ます。この程度で

京都弁そのものが結局豊富でない証拠で、彼女たちはただ教えられた数少い言葉を紋切型のように使っているだけで、ニュアンスも変化があるといえばいえるものの、けっして個性的な表現ではなく、又大阪弁の「ややこしい」という言葉のようにざっと数えて三十ぐらいの意味に使えるほどの豊富なニュアンスはなく、結局京都弁は簡素、単純なのである。

と言われても、単なる好き嫌い、身びいきの問題ではないかと思うのですが...。ただ、小説として京言葉を文字に置き換えると、都弁は簡素、単純なのかもしれません。

大阪弁は、独自的に一人で喋っているのを聴いていると案外つまらないが、二人乃至三人の会話のやりとりになると、感覚的に心理的に飛躍して行く面白さが急に発揮されるのは、私たちが日常経験している通りである。

この意見には、大賛成です。これは大阪弁の問題ではなく、集まると自然と「ボケとツッコミ」に役を振る大阪人の気質の問題だと思います。『夫婦善哉』に代表される織田作の大阪ものが面白いのも、これです。

実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。そして、その点が大阪の可能性であるというこの稿のテエマは、章を改めてだんだんに述べて行くつもりである。

と少しまとまりのないエッセーになっています。

【大阪発見】
 初出年月日を調べていなのですが、1946年か47年頃のものだと思われます。

大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれると、僕は法善寺へ連れて行く。

とあるように、『夫婦善哉』その他で使った「食」による大阪づくしです。「いもりの黒焼き」も、「しる市」の汁も、「正弁丹吾」の関東炊きも、織田作の読者ならお馴染みの店であり食べ物です。いずれも小説で出てきた話で、たいして面白くはありません。

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