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嵐山光三郎 追悼の達人 [日記(2014)]

追悼の達人 (中公文庫)
 同じ著者の『文人悪食』が面白かったので、kindle版のある本書を読んでみました(1-Clickの誘惑です)。『文人悪食』は、明治~昭和に至る文人(小説家、詩人、歌人、俳人)をその作品に現れた「食」を俎上に斬りまくった痛快な「作家論」です。本書は、これら文人の死について寄せられた(または文人自ら書いた)追悼文を俎上に乗せ、文人その人に迫ろうというものです。その数49人。嵐山光三郎さんは元編集者、現作家とはいえ、その博覧強記には驚かされます。アンソロジーですから、何処から読もうが誰から読もうが自由で、手軽に読めます。

 追悼文と言うと、学生時代に愛読した高橋和巳が亡くなった時に吉川幸次郎の「高橋よ!」と呼びかけた追悼文を思い出します。中身は忘れましたが、学門をやっていれば大成したものを、小説など書いて大学紛争を真面目に受け止めるから夭折したんだ、なんと惜しいことか悲しいことか、という恩師として弟子の死を切々と悲しむ漢文読み下し調の追悼文だったと思います。吉川の他、埴谷雄高、梅原猛など錚々たる文人学者が追悼を寄せたものです。

 という追悼文の集成かと思ったのですが、嵐山光三郎ですからそんなことはありません。高橋和巳は、特に年配者から可愛がられる小説家であり学者だったのですが、そんな「文人」ばかりではありません。例えば永井荷風や島崎藤村など同時代の作家から嫌われた小説家の死というものに、どういう「追悼文」が寄せられたのか、さらに自殺があり、心中があり、三島由紀夫の如く世間を騒がせた「自決」というのもあります。

【芥川龍之介】  「お父さん、よかったですね」 1927年7月24日没 35歳
 芥川龍之介は、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と、遺書とも言うべき小説『或旧友へ送る手記』に書いて自殺しています。

芥川の自殺は用意周到で、自殺したときに机の上に置かれていた「或旧友へ送る手記」は、三十五歳で自殺に至る死の弁明、解説で自殺考証学でもあった。

 嵐山さんによると、これは「自殺のアリバイ」であり、自らの自殺を明晰に分析して自殺したわけですから、自殺された方はこのアリバイを崩して追悼しなければなりません。なかなか大変です。

追悼文が生き残った者の解答文ならば、芥川は、なみいる作家たちへ追悼という宿題を残して死んだことになる。
芥川に対してどう対応するかが、その人の文学的立場の証明であり、かつ力量の尺度となった。

誰がどう力量を示したのかは?ですが、著者はこう締めくくります。

自殺未遂をくりかえしたはて、やっと自殺した芥川の死顔を見つめながら、文子夫人は「お父さん、よかったですね」ともらした。どの追悼よりも、芥川にはこの言葉が重かったのではないだろうか。

【島崎藤村】 狡猾なエゴイストの死 1943年8月22日没 71歳
 姪(兄の娘)との不倫の末パリに逃げ出し、ほとぼり冷めた頃帰国して小説(新生)でその経緯を暴露した藤村は、『文人悪食』でもその人間性を批判されています。本書でもボロクソ。

友人が「本当のこと」を書いて追悼したならば、それは『明治性犯罪妖怪作家伝』ともいうべき内容となり

収拾がつかないというのです。それにしても、『明治性犯罪妖怪作家伝』とは、すごい言い回しですね。
 藤村が亡くなった昭和18年当時、自然主義文学はすでに過去のものであり、多くの雑誌が追悼特集を組んだようですが、いずれも形式的な冷たいもので、藤村の死を心より悼む人はほとんどいなかった、そうです。


【永井荷風】 追悼する人が試される 1959年4月30日没 79歳

昭和三十四年四月三十日朝、永井荷風の遺体は市川市八幡の自宅で発見された。荷風は、その前日に近所の大黒屋でカツ丼を食べ、帰宅して、だれにも見とられずに死んだ。七十九歳、胃潰瘍による吐血の死であった。鍋釜が散らかった部屋の中にうつぶせで倒れている荷風の写真が新聞や雑誌に掲載され、世間は高名な老作家の死をスキャンダラスに扱った。

 この狷介で好色の老人が、誰にも看取られることなく自宅で胃潰瘍で死んだことは、一種のスキャンダラスな事件として大きく報道されたようです。小説家の死というより、文化勲章を受章し、多彩な女性遍歴があり、人間嫌いで、二千万円以上の預金通帳を持った老大家の孤独な死として世間の耳目を集めたようです。そんな荷風にどんな追悼文が寄せられたかというと、マスコミの書き様に義憤を感じて荷風擁護にまわるもの、小説家としては戦後の小説はクズだというものなど、いろいろ。

 嵐山さんも、決定打が無くて荷風とかかわりのあった女性の追悼を推しています。

二番目の妻となった芸妓八重次(藤蔭静枝)は、「交情蜜の如し」と回想し・・・待合を出させてもらった芸者寿々竜(関根歌)は、荷風の春画好きと、のぞき趣味にふれている。荷風は待合の押入れに入って、自分でのぞき用の穴をあけ、他人の情事を盗み見した。「小さな穴があくと大喜びで、まるで鬼の首をとったようなお顔をしておられました」と歌は回想している。

と書いていますが...。
 以外だったのは、荷風が鴎外を悼んだ追悼文が哀切に満ちたものだったこと。

【三島由紀夫】 1970年11月25日没 45歳

 三島が割腹自殺した日のことは鮮明に憶えています。学生会館のラウンジのTVが、市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説する三島の姿を繰り返し放映し、その自殺を伝えていました。その時何を感じたのか忘れましたが、「文学的選良」の自殺だと思ったような...。その後、新左翼のアジビラは、イデオロギーを超えて三島に先を越されたという行動主義を讃える論調となったように記憶しています。三島の熱心な読者であったわけではなく、まわりに友人について行くために、『憂国』あたりまでは読んでいましたが、『豊饒の海』は第1巻を読んで、肌に合わず2巻以降は中止しました(第一高価だった)。以上余談です。

 三島由紀夫の死が政治的擬装をまとっていたために、ほぼ常識の範疇で「追悼」が述べられています。その小説は認めるが、自衛隊乱入と割腹自殺は認められない、分からない、というものです。

 追悼の「悼」は、訓読みすると「いたむ」で人の死を痛み悲しむことです。三島の場合に限らず、悼まない追悼は、芥川龍之介論であり永井荷風論であり、愚痴、繰り言です。そうした意味で、「お父さん、よかったですね」「交情蜜の如し」という肉親の回想は、言葉の正しい意味での「追悼」でしょう。嵐山光三郎さんには、そうした配慮というか優しさが感じられます(藤村に対してはありませんが)。
 三島由紀夫については、このふたりの追悼が出色です。ひとりは澁澤龍彦、「三島のイデオロギーは自殺のアリバイだ」と指摘したうえで、

澁澤は「私は三島氏の思想なんて一度だって信じたことはない」と言い「三島氏の死は、安易な理解よりも、私たちにむけられた呪詛としてうけとったほうが、はるかにふさわしい」と言う。そして「絶対を垣間見んとして果敢に死んだ天才作家の魂魄よ、安んじて眠れかし」と哀悼している。

もうひとりは実父、平岡梓、

三島の父平岡梓は、 「まったく伜は天才的な詐欺師だと思いましたよ。私もだまされたし、家族の者もだまされた。みんな、こんなことになるなんて、夢にも思わなかった……」  と語った。

タグ:読書
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