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坂野潤治 西郷隆盛と明治維新 (3) (2013 講談社現代新書) [日記(2018)]

西郷隆盛と明治維新 (講談社現代新書) 続きです

廃藩置県
 1868年9月、会津藩、庄内藩が降伏して戊辰戦争は終結。官軍は解散し、西郷は中央政府の要職にも就かず、薩摩藩兵とともにサッサと鹿児島に帰ってしまいます。

入道先生(西郷)には、既に四、五十日位日当山に湯治、犬四、五疋、壮士両人若しくは三、四人同道の由御座候。

上野の銅像そのまま。名利に恬淡たる西郷らしい行動です。

 官軍は帰ってしまい、300諸侯は未だ藩兵を抱えているわけで、丸裸の新政府は不安この上なしです。新政府は、薩長土三藩に藩兵の一部を官軍として政府に差し西郷の出仕を命じます(1870年12月)。

 幕府は倒れ新政府はでき、版籍奉還したものの藩主は藩知事として居座っているわけで、何処が明治維新なんだ!。この藩があるかぎり中央集権の国家建設は不可能。新政府は三藩から集めた7000名の兵力を背景に廃藩置県を断行します。著者は、西郷が桂久武(薩摩藩権大参事)に宛てた手紙を例に、西郷隆盛が廃藩置県という革命を、自己の10年余にわたる「尊王討幕」運動の帰結として自覚していた、と結論づけます。確かに西郷が倒したのはその封建制の頂点に立つ徳川幕府ですから、倒幕の次は封建制の打倒だと自覚していても不思議はありません。

 wikipediaの廃藩置県の項を見ると

・戊辰戦争の結果、諸藩の債務は平均で年収の3倍程度に達し、財政事情が悪化したため政府に廃藩を願い出る藩もあった(鳥取藩、名古屋藩、熊本藩、南部藩など)
・1872年12月大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた
・兵制の統一を求めていた山縣有朋は、西郷を説得し廃藩置県の賛同を得た。西郷は、戊辰戦争後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制に限界を感じていたていた
・郡県制、徴兵制に踏み切った紀州藩の藩政改革を、西郷隆盛、西郷従道の代理で村田新八、山田顕義が見学した

などの政治状況もあるわけで、廃藩置県が西郷の倒幕の「帰結」としてだけで実施されたわけではなさそうです。西郷にしても、藩兵を新政府に差し出して国の経費で養って貰えれば好都合、というのが「三藩献兵」=御親兵(近衛兵)の実態であっても不思議ではありません。
 
廃藩置県によって新政府の枠組みが整い(一区切り付いて)、岩倉、木戸、大久保は欧米使節団を仕立て出立します。

征韓論
 廃藩置県をもって西郷が目指した革命は完成をみます。筆頭の参議となり、7000名の近衛兵を握る新政府のトップとなった西郷について、西郷ファンの著者といえど、こう書かざるを得ません、

 (西郷は)1871年に樹立された統一国家をどう運営するのかについては、基本的な知識も必要な経験もなかった。1858年から71年にいたる13年間の彼の経験は、囚人と革命運動と革命戦争に限られていたのである。

 確かに、廃藩置県の後西郷が歴史の教科書に登場するのは征韓論と西南戦争だけです。

 征韓論は、古代日本の支配権が朝鮮半島に及んでいた事を踏まえ、尊王攘夷運動の中にも取り込まれ、幕末では突飛な考え方ではなかったようです。1870、72年に新政府は、鎖国を続ける李氏朝鮮に国交を求める使節を派遣します。朝鮮がこれを拒否したことで征韓論が浮上します。一民間人が広州の新聞に征韓論を投稿したりしていますから、国内でもそうした世論があったのでしょう。その征韓論が政府中枢にまで飛び火したのが、1873年の「征韓論」で、板垣退助は強硬に征韓論を唱えます。
 革命軍は、革命の余熱を駆って革命を海外に輸出する事例があります。戊辰戦争を戦った藩兵は近衛兵として新政府の元にありますが、敵がいなくなった彼らが征韓の世論に乗って外征を志向しても不思議はありません。桐野利秋は、琉球人が台湾で虐殺された事件によっ台湾出兵を主張し、黒田清隆は、樺太住民が殺された事件で樺太出兵を画策しています。陸軍大将の西郷は、近衛兵の暴発を維新の英雄の権威で抑え、破裂爆弾中に昼寝いたし居り候と手紙に書く状況にあります。

 そうした政局のなかで、西郷は近衛兵の不満と世論に答えるため、朝鮮への使節を自ら買って出ます。西郷が主張したのは、「征韓」ではなく「遣韓」でした。岩倉、木戸、大久保は欧米を視察旅行中、西郷の遣韓は留守政府の内諾を得、派遣は岩倉等が帰国して後という決着をみます。視察団が帰国すると、岩倉、大久保は遣韓に反対し、岩倉は明治天皇の名で派遣の延期を決定します。岩倉の寝技に腹を立てた?西郷は辞職し、板垣、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、大隈重信等がこれに倣います。後に佐賀の乱を起こす江藤、民権運動を起こす板垣が揃って辞職していることは、新政府の中に政策をめぐる確執があったことをうかがわせます。西郷が朝鮮に渡って殺されでもすれば、戦争が勃発します。政治経済基板の不安定な明治政府が、外征などとんでもない話で、岩倉、大久保の「反対」は正論でしょう。

 西郷は、訪韓して自分が殺されれば征韓の口実ができると言っています。著者は、これは征韓論を唱える板垣に対する説得だと考えますが、西郷にとっては本音、西郷は死に場所を求めていたのかも知れません。そう考えると、西南戦争に易易と乗った西郷も見えてきます。

西南戦争
 鹿児島に帰って西郷は、犬を連れて湯治、狩猟三昧。やがて鹿児島に帰った元近衛兵を中心に私学校が立ち上がります。西郷も二千石を拠出し、鹿児島県も運営費を支出していますから、薩摩軍団のうようなものです。私学校も、西郷が私兵を養うということではなく、薩摩藩兵及び西郷と共に鹿児島に帰った元近衛兵の暴発を押さえるためのものだと言われています。私学校が鹿児島の県政掌握しつつあることを重く見た政府は、密偵を派遣して実情を探らせ、陸軍の武器弾薬を大阪に移そうとします。「神風連の乱」「秋月の乱」、「萩の乱」が起き、世は西郷蜂起の期待に満ちているという時です。
 西郷暗殺計画が発覚し、私学校は火薬庫を襲って火を付け武器弾薬を奪います。 これを機に西南戦争が始まるわけです。

 著者は、西郷は勝てる目算があったのではないかと言います。

西郷曰く、川村(純義、海軍大輔)は十に四、五は我に助力すべし、此の一名を取り込むときは海軍は全く我がものなり。熊本に樺山資紀(鎮台参謀長)あり。肥境(熊本県境)に我軍進まば、一、二大隊台兵(鎮台兵)は我に帰すべし。(鹿児島県資料・西南戦争)

(鹿児島県令・大山綱良曰く)熊本にてはの料理にて待つ位ならん。馬関(下関)にては川村等が迎えの汽船あるべし。面白く花を詠(なが)めて上着(上京)すべし。(同上)

 幕末維新期を一種の戦略的合理主義で乗り切ってきた西郷が、希望的観測で西南戦争を始めることはないでしょう。元鹿児島藩士の川村と樺山の裏切りがなかったばかりか、野津鎮雄、三好重臣、高島鞆之助、山田顕義、川路利良(いずれも元薩摩藩士)が征伐軍として迎え撃ちます。西郷軍には、篠原国幹、桐野利秋、村田新八、桂久武、池上四郎、永山弥一郎、別府晋介、辺見十郎太と、戊辰戦争を闘った明治政府の将軍、顕官が並び、討伐軍の背後には西郷の盟友大久保が控えています。こうやって眺めると、西南戦争は殆ど薩摩藩内の権力闘争という感があります。

 西郷は何故西南戦争を起こしたのか?、反乱が成功した暁には何をしたかったのか?。

幕府を倒し、大名を倒し、近代的な中央集権国家を樹立するという西郷の夢はすべて果たされ、西郷には内乱にまで訴えて実現しなければならないような「目的」は、もはや残されていなかった。西南戦争は、西郷にとっては、大儀なき内戦だったのである。(p198)

 西南戦争に至る3~4年は、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱など不平士族の乱が起き、地租改正や徴兵制に起因する農民一揆が頻発しています。新政府に対する不満が渦巻き、西郷は何時立つのかという期待が満ちている時期です。新政府にとって西郷は危険人物。西郷はそんな空気を読んで、犬を連れて山野で狩りをし温泉に滞在するという隠遁生活を送ったわけです。西郷は、このまま薩摩の山野で朽ち果てるつもりだったんではないかと思います。

  鹿児島の武器弾薬を大阪に運ぶという挑発行為に私学校がひっかかり、弾薬庫に火を放った時点で戦争は必至。請われるまま「この体を預ける」と西郷は西南戦争に突入し、明治国家を破壊しかねない薩摩軍団を自らと共に葬り去ります。1877年9月、西郷は鹿児島の城山で自裁します、享年49歳。

 坂野潤治『西郷隆盛と明治維新』をベースに、自分なりの西郷像を作ってみました。廃藩置県辺りまでは何とかイメージできるのですが、征韓論から西南戦争に至る西郷像はなかなかイメージできません。次の課題です。


タグ:読書
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