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司馬遼太郎 翔ぶが如く(8) [日記(2019)]

新装版 翔ぶが如く (9) (文春文庫)翔ぶが如く(十) (文春文庫)薩軍敗走.jpg
                   南日本新聞からお借りしました
 田原坂、吉次越、山鹿で破れた薩軍は、木留、植木に後退して抵抗を続けます。政府軍(衝背軍)が八代南の日奈久に上陸して南北から挟み撃ち。4月27日薩軍は人吉に逃れ、9月2日に鹿児島に入るまでの130日余り宮崎、延岡、九州南部の山岳を彷徨います。事ここに至って、薩軍は吸い寄せられるように故郷に向かいます。


 鹿児島に入った薩軍はわずか370人。城山に拠り防塁を築き洞穴を掘って籠もり、政府軍七万が囲んだそうです。西郷の死は国家の損失だと考えた薩軍は、助命嘆願のため辺見十郎太と河野主一郎が川村純義(薩摩)を政府軍の陣営に訪れています。川村は、西郷自らが和平交渉に来ることを促しますが、これは自決を促したということでしょう。この時辺見は、政府軍の総帥・山県有朋(長州)が西郷に宛てた私信を預かります。、

・・・其事ノ非ナルヲ知リツツモ遂ニ壮士ニ奉戴セラレタルニ 非 ズヤ。然ラバ則チ今日ノ事タル、君ハ初メヨリ一死ヲ以テ壮士ニ与ヘント期セシニ外ナラズヤ・・・事既ニ今日ニ至ル、之ヲ言フモ益ナシ、君何ゾ早ク自ラ図ラザルヤ、君、幸ニ少シク有朋ガ情懐ノ苦ヲ察セヨ、涙ヲ揮フテ之ヲ草ス、書、意ヲ 尽 サ

 山県は、西郷が私学校の暴発に反対しながらも、情によって彼らに生死を預けたのだろうと推測し、君何ゾ早ク自ラ図ラザルヤと、自害を勧めます。山県は、西郷に汚職事件(山城屋事件)で助けられ恩義があり、長州人の中では(木戸とは違って)西郷に親近感を持っていますから、有朋ガ情懐ノ苦ヲ察セヨ、涙ヲ揮フテ之ヲ草スという表現になります。

 300余名の薩軍のなかから、しかも将校のなかから野村忍介ら5名の投降者が出ます。全員が打ち死にすれば今回の義挙の本意が埋もれてしまう、法廷に立って名分を明らかにし後世に残そうということです。作者は桐野のやったこの愚劣な戦さでおめおめ死ねるか」という感情のほうが、むろんつよいと想像していますが、あるいはそうかも知れません。野村忍介は蜂起に先立つ会議でも桐野の強硬論に異を唱え、延岡でも豊後への侵攻を目指してゲリラ戦を戦い活路を開こうとしています。西郷を戴いた薩軍も決して一枚岩でなかったわけです。

 9月24日、歩兵による総攻撃が開始されます。西郷は、山縣に促されるまでもなく自決、それも切腹ではなく闘死を選択し、戦闘のなかで斃れます。西郷は別府晋介をかえりみて、

晋ドン、モウココデヨカ
そうじ(そうで)ごわんすかい 御免なって賜も

と西郷の首を落とします。桐野は、銃をもって塁上で孤軍奮闘し頭を射抜かれて討ち死にし、村田切腹し、別府と辺見は刺し違えて死に、薩軍は滅びます。戦闘が終わると天候が一変して滝のような夕立が降ったそうです。

 そのあたりに血と砂にまみれてころがっていた死体も、天がこれを清めてくれた...。

 西郷軍はその死まで詩です。

 坂本龍馬は「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と西郷を評し、西南戦争で薩軍に加担した中津藩の増田宗太郎は「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある、だから西郷先生とは離れられない」と城山で西郷に殉じます。司馬遼太郎は、西郷隆盛とは何者だったのか?という主題で『翔ぶが如く』を書いたわけですが、

 要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇処があるのは、増田宋太郎のいうこういうあたりのことであろう。西郷は、西郷に会う以外にわかる 方法がなく、できれば数日接してみなければその重大な部分がわからない。

 と、書かざるを得なかったようです。従って、私如きが西郷を理解することは不可能のようです。

タグ:読書
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