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司馬遼太郎 ロシアについて-北方の原形- (2)  日露 (1986文藝春秋) [日記 (2020)]

北方の原形 ロシアについて (文春文庫)

続きです。
シベリア
(ウラル山脈の西には)巨大な凍土、湿原、草原、森林が、もう一つの青い天体のようにひろがっている・・・やがて(毛皮採集の)探険家たちがその東端のカムチャツカ半島を発見し、・・・ひとびとはこの陰鬱なシベリアにも、ついには東方に出口があることを知った。・・・カムチャツカ半島の南端の海に数個の島がうかんでいることを望見し、さらに、それを伝ってゆくうちにそれが列島であることも知った。そのはてに蝦夷島という大島があり、日本人が住んでいることまで知ったのである。

 ロシアは主要交易品である黒貂を追ってシベリアを西へ行き、日本を発見します。毛皮を得るためには商人、毛皮採取の労働者に食料や生活物資の供給が必要となりますが、当地で手に入れることは出来ず欧露から送るには余りに遠い。そこで目を付けたのが日本です。

「日本」という、海洋のなかにある文明圏が、大きくロシアの為政者やシベリア関係者に、期待という光とともに浮かび上がってくるのは、以上のような必要性からである。ロシアにとって、日本はその広大なシベリアを保有するために必要--もしくは必要だという熱っぽい幻想--があったということを、十九世紀までのこの隣国を思うときに考えざるをえない。

 この「熱っぽい幻想」によってピョートル1世は漂流民・伝兵衛と謁見し(1702)、サンクトペテルブルクに日本語学校を創設し(後イルクーツクに移転)伝兵衛を教師とします。女帝エカチェリーナ2世は大黒屋光太夫と謁見し、ラクスマンとともに日露外交のためにお繰り返します。漂流民を謁見するという破格の待遇を与え、日本語学校まで作ってしまうわけですからその「熱っぽい幻想」は相当なものです。ピョートル1世は、大使節団を率いてヨーロッパ文明を吸収し、自ら職工となって造船技術を学び海軍を創設した皇帝ですから、日本に対する好奇心から日本語学校を作ってしまったのでしょう。エカチェリーナ2世はクーデターで夫(ピョートル3世)から帝位を奪い、オスマン帝国と戦争して領土を広げた女傑。啓蒙主義者だったようですから、大黒屋光太夫を厚遇したのでしょうが、ロシアのなみなみならぬ熱意を感じます。
 ロシアの毛皮採取は千島列島、択捉島・国後島などにおよび、1739年、伊豆下田にロシア船が来航、1778年には国書を携えた使節が松前藩に通商を求めるなど蝦夷地をめぐる情勢は緊迫します。工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著し述し、田沼意次が最上徳内に蝦夷地を探検させたのもこの頃です。

露米会社
 1804年、レザノフがクルーゼンシュテルンの世界周航の船で長崎に来航し、通商、日本にとっては開国を迫ります。レザノフは一種の政商で、エカチェリーナ2世やパーヴェル1世に取り入って、自分の毛皮生産会社の株を皇帝に持たせ、国策会社「露米会社」に発展させます。露米会社は、ロシア人を送り込み原住民を使って当時ロシア領だったアラスカ、リューシャン列島、千島列島で海獣を獲っています。恒常的に不足する食糧問題解決のため日本に来るわけです。レザノフは自分の露米会社のために皇帝を動かし、世界就航を企画し、親書まで出させて来航します。クルーゼンシュテルンは、バルト海の軍港クロンシュタットを出港し、大西洋を横断してホーン岬を回って太平洋を横断して日本に来るのですから、まさに世界周航の壮挙です。日本はこれを拒否し、レザノフは腹いせ?に樺太の松前藩番所を襲撃、1807年には択捉島の幕府会所を攻撃するなどの事件が起こります。

クルーゼンシュテルンは、その手記で、レザノフを露骨にいかがわしいとは書いていないが、そのいかがわしさを読み手が察しうるように、事実だけを述べている。
「レザノフは、之より先き、かの商業家シェリコフの娘と結婚して居り、それとともに相当の資産を譲り受けて居たが、この資産とは全部株券より成り、その株の価値はかのアメリカ貿易の継続の成功または不成功にかかっていた。」
つまり、かれは国益を代表するものではない。政治的なからくりで、勅使という肩書を得ることで日本をだまし、利益のみを得ようとするのである。
(このたびの企てが成功すれば、この男は大もうけするだろう。それだけのことだ)

クルーゼンシュテルンは、不愉快だったにちがいない。

と司馬さんはクルーゼンシュテルンの口を借りてレザノフを「いかがわしい」とこき下ろしています。ペリーの来航(1853)も捕鯨船の寄港地確保が目的だったのですから、レザノフといい勝負です。

露米会社の露骨かつ執拗な意図は、「武装船(二隻)の威容を背景に日本と交渉し、国を開かせる」というところにあった。
これについては、のちの世のアメリカのペリーの乱暴さを連想すべきである。ペリーもまたレザノフに似た立場にあった。当時、アメリカの捕鯨業界は日本に寄港地をもとめていた。が、日本は鎖国をしていた。これを開国させるべく、捕鯨業界はロビィストを使って議会に働きかけ、やがてペリーとその艦隊を派遣させることになる。ペリーが、そういう、いわば卑しいとまでいえるほどの実利的な背景でもって日本に来ながら、変にたかだかと高邁な顔をしていたのは気にくわない。

 レザノフのついでにペリーを持ち出して「気に食わない」と言う、こういうナマの感情が出ているところが愉快です。クルーゼンシュテルンの後、1807年のゴローニン、1853年のプチャーチンとバルト海からはるばる日本を目指すという世界周航が実施されます。 ロシアにとってシベリアと日本の価値がどれほど大きかったかが想像できます。
 「恐露病」と言われるロシアへの恐怖には、こうした背景があったわけです。1855年に日露和親条約を締結してロシアと国交を開き、南下するロシアと朝鮮半島で角を突き合わせ、日露戦争へと至ります。『坂の上の雲』の前史が、おぼろげながらイメージできました。

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