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川本三郎 老いの荷風(2017白水社) [日記 (2023)]

老いの荷風
玉の井.jpeg 玉の井「ぬけられます」
独居高齢者
 川本三郎『荷風と東京』の続編です。「あとがき」によると、『荷風と東京』を出版したのは著者50代のはじめ、それから20年以上たち70代になって、改めて見えてくる荷風の風景です。著者は、35歳で亡くなった芥川龍之介や45歳で自刃した三島由紀夫は、老いを経験していないから興味が薄れてきたと書きます。
 
その点、七十九歳で逝去した荷風は、充分に老いを生きた。・・・七十歳を過ぎてからも筆硯に親しんだし、若い頃と同じようによく町を歩いた。その荷風の老いに興味を持つようになった。しかも、現在、日本で六百万人を超えるという独居高齢者の一人としては、荷風の一人暮しは次第に他人事に思われなくなってきた
 
70歳を過ぎた著者は、「一人暮らしは他人ごとではない」と「一旦は」自身を荷風に重ねるわけです。
 
老いの荷風
 老年となった荷風に、戦争が追い打ちをかけます。小説発表の場が失われ、行きつけのレストラン、料理屋が閉店し、一人暮らしの荷風は人の施しによって食料の欠乏を補う有り様。追い討ちをかけるように、1945年(昭和20)3/10の大空襲で「偏奇館」は焼け落ちます。何よりもこたえたのは、空襲による延焼を防ぐために行われた建物の取り壊しだったようです。荷風が愛して止まなかった江戸・東京の風景、風俗が失われてゆくことです。取り壊しが決まった浅草オペラ館の3/31の最終日、最後の幕が下り観客が帰ったあと、
 
「一人悄然として楽屋を出るに風冷なる空に半輪の月泛びて路暗地下鉄に乗りて帰らんとて既に店を閉めたる仲店を歩み行く中涙おのづから湧出で襟巻を潤し首は又おのづから六区の方に向けらるるなり。(断腸亭日乗)
 
 六区という精神の王国を失い、偏奇館を焼け出された荷風はツテを頼って明石から岡山へ疎開。それでも、荷風は発表する当てもなく、『踊子』『来訪者』『問はずかたり』と時局に合わない小説を執筆します。この辺りは偏屈老人の面目躍如、戯作者、荷風は老いてなどいないわけです。 
 
「やつぱりこゝに老い朽ちてしまふにしくはないといふやうな止み難い隠棲の気味になつてゐる」「果敢(はかな)い淋 しい心持は平和の声をきいてから却て深く僕の身を絶望の底に沈めて行くやうに思はれる・・・」と気持ちが沈んでゆく。(『問はずかたり』)
『問はずがたり』はあくまでもフィクションではあるが、そこには戦争末期から、終戦直後の、老いゆく荷風の憂いが色濃くあらわれている。(p25)
 
 荷風は薩長の作った日本近代を嫌い、下町の風景を愛し、そこで出会う私娼、女給、ダンサーなどに親しみます。
 
 発表の当てもなく1941年(昭和16)荷風62歳で執筆された『浮沈』のヒロインは、その下町に居る時に「沈」み、山の手で「浮」く人生を送るそうです。荷風は山の手生まれ山の手育ちで住まいの偏奇館は麻布。愛した下町には一生住みません(一時浅草に住んだが)。荷風の小説は(実生活も)、山の手から下町に下り、また山の手に帰るという小説です。荷風の愛した下町は現実の玉の井ではなく、お雪のいる妄想の「墨東」だと言えます。
 著者は、「老いゆく荷風の憂い」と書きながら、老いてもなお変わらない荷風の矜恃?を書いていることになります。
 
ふらんす物語 と 濹東綺譚
 荷風はボードレールに憧れてフランスに行ったわけですが、荷風を虜にしたのは娼婦の住むパリやリヨンの裏通りだったようです。モンマルトルを懐かしんで私娼の町、玉の井に通いつめ『墨東綺譚』が生まれます。『ふらんす物語』所収「放蕩」(後「雲」に改題)には、主人公がにわか雨に会い女を傘に入れるシーンがあるそうで、これは『墨東綺譚』で大江の傘にお雪が飛び込んで来るシーンと同じです。「放蕩」の主人公はその後女の家に行き、女は主人公のほつれたボタンを繕いますが、『墨東綺譚』ではお雪が大江の濡れた服を拭う記述と対応しているとのことです。
 
荷風の陋巷趣味は一貫している。きらびやかな表通りよりも、夜の女がいるような裏通りのなか『放蕩』と同じように陋巷に人の世の悲しみを見る。明治四十二年に権力によって発禁処分になった『放蕩』と同じように陋巷への想いのあふれた 『墨東綺譚』を日中戦争のはじまる昭和十二年に発表する。この意味は大きい。 荷風は少しも変わっていない(p93) 
 
 荷風は老いてもその趣味に耽溺し、「荷風は少しも変わっていない」わけです。著者は、『ふらんす物語』→『墨東綺譚』→『浮沈』とたどることで、「老いない荷風」を書いたわけです。
 荷風に興味が無ければ、面白くも何ともない本です。高齢化社会ですから、こういった本が出版されるのでしょうか

タグ:読書
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コメント 2

Lee

明治維新以来の東京の苛烈な変貌の実態を知りたく、今荷風を読み込んでいます(出身地でもあるので)。小説「墨東綺譚」「すみだ川」や「日和下駄」などの随筆に至るまで洞察力と美文がすばらしい。私的には放蕩を装うことで現実社会への非を貫いた気骨の人という認識です。
by Lee (2023-06-10 17:10) 

べっちゃん

荷風の趣味のひとつにカメラがあります。消え行く江戸・東京の風景をせっせと写していたではないかと思います。自ら現像する凝りようです。
by べっちゃん (2023-06-11 07:17) 

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