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中野孝次 ブリューゲルへの旅(1976、2004文春文庫) [日記 (2023)]

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 『ハラスのいた日々』つながりで、本棚から表題の本を引っ張り出してきました、再読です。中野孝次は、1976年に本書で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し世に出ます。本書は著者の処女作といってよさそうです。

紺の絣
 「そもそものはじめは紺の絣かな」とうたった詩人がいて、わたしはこの句にひどく感心した。・・・それはたとえばわたしの父の中心にたしかに生きていた世界であり、・・・果てしなく遡りうる無名の人びと全部のうちに、疑いもない人間の生の原型 としてあったなにかであろう。初めにはいつもそういう濃い深い闇の恐怖と、安らぎにつつまれた世界があったのであろう。

ブリューゲルへの旅は、日本の土俗的(前近代的)なものを象徴する「紺絣」から始まります。著者によるとそれは、闇の恐怖であるとともに安らぎに世界だと言います。

雪中の狩人
 中野少年は、紺絣からの脱出を図ります。何処へ?、それは隣家の旧制高校生の蓄音機から流れるチャイコフスキーであり、印象派の絵画であり、『トニオ・クレーゲル』の世界です。中野少年は独学で旧制高校に入学し、東京大学を経て大学教授へと「身を立て」ます。そんな著者の前にブリューゲルが現れたのです。

絵を見ながら連想は次から次へとび、それからわたしは、嘲るように一つの声を聞いた、「身を立て、名を挙げ、やよはげめよ」。結局われわれはこの百年間、この掛声に駆りたてられて盲目的に走ってきただけなのかもしれない。(p25)

「雪中の狩人」は、子供たちが遊び、人々が道を急ぐ姿を遠景に、三人の猟師が乏しい獲物を背に犬を連れとぼとぼと帰っていく冬の情景です。猟師は後ろ向きで顔さえ描かれていません。

わたしはその前で自分自身の半生と(わたしはそのとき四十一歳だった) 会話をかわしていることを発見したのである。・・・(ブリューゲルは)戦時下でさえ色濃くのこっていた(旧制)高校の教養主義的雰囲気へ、そしてそういうなかで芸術を日常的な世界とちがう異次元の価値にたかめてきた青年期以来のことへと運んだ。・・・わたしは、なんだか自分が途方もなく間違った道を歩いてきたような気がした。目の前に疑いもなく存在していたものを見ないために、ばかばかしいほどの迂路を通って、抽象的な観念世界をつくりあげてきたような気がした。だがここでは、ただの無名の人びとの日常世界が、 あるがままの姿でほとんど聖性にまで純化されているのである。(p24)

「雪中の狩人」を前にして、日常的な世界にも芸術があること、「紺の絣」を否定してそこからの脱出を図った自分の半生が果たして正しかったのかと考えたわけです。「濃い深い闇の恐怖と、安らぎにつつまれた世界」への回帰です。

雪中の東方三賢王の礼拝
 キリスト誕生の絵は、「ヨーロッパの美術館にはこの主題の宗教画はくさるほどあって、うんざりさせる」と記し、ブリューゲルの絵は、

ただ北国の冬の日の憂愁をおびた茶褐色の家々と、そこに営まれる日常を描いているだけである。・・・そのなかで、村人とほとんど見わけのつかぬ一団がいる。画面を斜めに走る路地のはずれに、なかば画面から追い出されかけて傾いた藁屋があり、そこにいる嬰児を抱いた被衣の女に二人の男が跪いているのだった。だが男たちも、それに従う者も、荷を積んだロバも、同じ茶褐色のなかにまぎれ、頭にも肩にも背にも、 一様に雪がしんしんと降り積って、すべては雪の中の景色にすぎない。だが、この目立たぬフランドルの寒村で、村人のだれからも気づかれずに起っていることこそ、あの人類史上の重大な出来事なのだった。やがて、悲しむ者、貧しい者、病める者、苦しむ者、彼の接した人びとすべての上に限度をしらぬ優しいなぐさめの手をさしのべるであろう人の誕生祝が、 このだれからも見捨てられたような一隅で起っているのだった。(p76)

キリストの誕生というという「聖」なる事件が、フランドルの寒村で村人に気づかれることもなくひっそりと起こっているのです。日常的な世界にも「聖性」があるわけです。ブリューゲルは「農民の画家」と呼ばれるように農民や庶民、時には障害者(いざり)を描いています。

(ブリューゲルの描いた世界は)農民の特性を少しも見逃さずに描きながら、見る者にこれが人間の営みだ、これ以外に人間の生はないのだ、これだけで充足して いるのだと感じさせる何かがある。「神の作ってくれた幸福な人間である」という安らぎと慰藉がある。

 本書は、戦中戦後を生きた知識人の、一種の精神的「退行」の告白であり、「紺絣」に戻ってやり直そうという転向の書です。ブリューゲルの絵画案内と思って読むとあてが外れます。
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雪中の狩人                                          雪中の東方三賢王の礼拝

タグ:読書
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