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現代史資料 1 ゾルゲの見た昭和(3) 1941年7/2 御前会議 [日記 (2023)]

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情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱
 ゾルゲの諜報通り、1941年6/22バルバロッサ作戦が開始されます。この時ドイツが知りたかったのは、日本がドイツに呼応して対ソ戦に参加するかどうかです。日本が参戦すれば対ソ戦を有利に進められます。ソ連も日本の出方が気になった筈です。東部でドイツと戦っている隙に、日本に背後を突かれれば独ソ戦は敗北します。 この独ソ戦参戦を巡ってゾルゲ諜報団の諜報戦が開始されます。

 バルバロッサ作戦開始の翌6/23頃、オット大使は松岡外相を訪問してこれを確認します。

此の時オット大使が受けた印象では松岡外相を始め陸海軍は暫く形勢を観望しようと云ふ状態でありました。
 斯くして同年七月二日の天皇陛下御親裁の御前会議が開催されたのでありますがオット大使は此の会議の内容をば其の後一週間位経った後松岡外相から聞いたのであります。松岡外相がオット大使に
話した内容は二つの重要な決議事項でありまして、夫れは
第一は日本は北方に対しては軍備を拡充して近隣からボルシェヴキズムを放逐する為凡ゆる準備をなすこと
第二は日本は南方に対しては積極的進出を継続すること。でありました。(p275)

 御前会議で、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決せられます。オットは第一の点を重要視し、第二の点は余り重要視せず「日本の対ソ戦参加は必至である」と判断します。つまり希望的観測です。
 近衛内閣嘱託であった尾崎秀実も御前会議の情報を掴みます。

尾崎自身は寧ろ前述の第二の点に該当する部分に重点を置いて居り御前会議の内容に関する情報としては尾崎の報告の方が正確を得て居りました。即ち私としては此の御前会議に依って日本は北方に対しては準備丈けをして積極的に対ソ攻撃は遣らず、寧ろ北方の安全を期すると云ふ措置を講じ南方即ち仏印方面に対しては積極的な軍事行動を開始すると云ふことに決定されたと云ふ印象を受けて居りました。(p275)

ゾルゲはオットと尾崎の情報をモスクワに打電し、尾崎の分析が正確だと伝えます。日本に参戦してほしいオットと諜報を重視するスパイの差です。

ドイツ大使館の政治工作
 御前会議の後、ドイツの政治工作が始まります。

 先づ独逸本国政府から独大使館附武官クレチマーに命令が参り独ソ戦に於ける独逸側の未曾有の戦果を日本軍部等に宣伝させ、モスコウは二箇月以内に陥落させるであらうと伝へたり六週間後にはソ聯軍全部を殲滅したので今後戦争に堪へ得るソ聯軍は僅々六十箇師団しか残って居らぬと伝へました。(p275)

 東条陸軍大臣、杉山陸軍参謀総長、土肥原賢二大将など陸軍首脳に「モスコウは二箇月以内に陥落させる」とドイツ有利の情報を吹き込み、日本のソ連への侵攻方法まで提案します。

クレチマー武官等は日本軍が如何にしてシベリヤやウラヂオストックを攻撃するかと云ふ計画さへ立案したのでありまして、 オット大使とクレチマー武官は日本の軍首脳部、東条陸軍大臣を始め杉山陸軍参謀総長、及土肥原将軍等を招待して極力日本側の参戦を勧めましたが 、松岡外相や日本軍部側ではオット大使等に対し日本軍は一般的には未だ動員を完了して居らぬから待って貰い度い、二箇月以内には完了する見込であるからと云ふ様なことを申して居りました。
そして独逸軍がモスコウを占領し少くともボルガ河の線迄進出した時には日本は参戦すると言明して居たのであります。(p276)

 ここでもオットとゾルゲの意見は分かれます。「関東郡特殊演習」のため大規模な動員が開始(7/7)されたため、オットはこれを参戦の兆候と見、ゾルゲは尾崎の情報を重視し参戦はないと判断します。

日本ハ独ソ戦ニ参戦セズ
1941年6/19~9/14の日本の動きをみると、
6/19政府に於て対独対ソ方針(中立を維持)を決定(尾崎は西園寺公一よりこの情報を得る)
6/22:独ソ戦開始
6/23陸海軍首脳部会議に於て日本ハ独ソ戦ニ参戦セズと決定
6/25:尾崎6/23の情報を朝日新聞政治部長田中慎次郎より得る
6/26:19、23日の情報を宮城経由でゾルゲに伝達
7/2 :御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定
7/5頃:尾崎情報、宮城経由でゾルゲに伝達
7/7:関東軍特殊演習(関特演)動員令
7/10 :ゾルゲ、御前会議の内容をモスクワに打電、この頃オット大使は松岡外相から御前会議の情報を得る
7/13:関特演動員始まる
7/27:大本営政府連絡会議(世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱
7/28:南部仏印への進駐開始
8/9 :大本営陸軍部と関東軍は年内の対ソ開戦の可能性を断念
8/20頃:尾崎情報をキャッチ
8/25頃:西園寺公一に確認
9/14:ゾルゲ、日本ハ独ソ戦ニ参戦セズと打電

同年八月(正しくは7月)下旬頃開催された日本軍首脳部と関東軍代表者との対ソ戦に関する最後的な決定を見た会議に就ては私は後に申上げた様に尾崎から具体的な報告を入手して居りましたが、独大使館側では此の会議の内容を知らずオット大使もクレチマー武官も唯日本軍の動員に関して何か或る重大な協議が行はれて居ると云ふ程度のことしか知りませんでした。
・・・私は以上申上げた様な顛末をば逐一モスコウ中央部にラジオで通報すると共に最初から日本は参戦しないであらうと云ふことを報告したのでありますが、同中央部では初の間は私の此の報告に対して懐疑的な態度を採って居りました。然し九月以後になりますと全く私の報告を信用する様になり、其の頃此の報告に対して特に感謝の電報を送って参ったのであります。

 「日本軍首脳部と関東軍代表者との対ソ戦に関する最後的な決定を見た会議」とは、大本営政府連絡会議の「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を指します。尾崎はこの情報をキャッチし、8/25頃西園寺公一(近衛内閣嘱託)に確認しゾルゲに伝え、ゾルゲは「日本ハ独ソ戦ニ参戦セズ」と9/14に打電します。
 この情報よって、ソ連は後顧の憂いなく極東の軍を東部戦線戦に注ぎ込み、独ソ戦(大祖国戦争)に勝利します。

 ウクライナ戦争のため、5/9の大祖国戦争の戦勝記念日が縮小されて話題になりました。ナショナリズムの希薄なロシアにとって、国を一つにまとめる唯一のものだそうです(『おどろきのウクライナ』)。その大祖国戦争を勝利に導いたゾルゲはロシアの救世主です。

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