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半藤、加藤、保阪 大平洋戦争への道 1931-1941 ③ 日中戦争、三国同盟 (NHK出版) [日記 (2022)]

太平洋戦争への道 1931-1941 (NHK出版新書 659, 659) 続きです
日中戦争
 1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしている日本軍に銃弾が打ち込まれ、軍事衝突、盧溝橋事件が起こります。何時もの陸軍の謀略ではなく、中国軍が仕掛けたのかどうか真相は謎だそうです。この事件がキッカケとなって、宣戦布告も無いまま「泥沼」と言われる日中戦争が始まります。
 保阪氏によると、

近代史の中で、中国と戦争する国は、基本的にはなかったわけです。・・・中国の内部に自分たちの軍隊を送り込んで戦争をするということは、どの国もやっていない。それはなぜか。・・・ 帝国主義の戦争として中国の内部に入っていくことのメリットは何もなかったからです。 広大な土地に兵士を大量に入れて、それで中国の資源を略奪するといっても、相当の資本がかかります。 帝国主義的な計算でいくと、中国へ軍を送るというのは得策ではない。(保阪)

にもかかわらず、日本は中国大陸に最盛期には80万もの軍隊を送り込んで戦争を始めたのです。「泥沼の日中戦争」と言われ、戦後、氏は蒋介石の右腕だった陳立夫や、蒋介石の次男の蒋韓国に、何故戦争が泥沼化したのかを質したそうです。

蔣緯国が言っていたことですが、古来、どんな強い軍隊でも、ナポレオンでもフビライでも、ひとたび軍を動かすと、直線的に進んでいくという心理があり、そうすると最後は、断崖にまで突き進んで、そこから落ちてしまう。自分たちが目論んだのは、まさにその心理を利用することであり、我々はとにかく日本軍を中国の奥地まで引き入れて兵站を切り、孤立した日本軍の部隊を次々と殲滅していくという戦略を考えていたと言うのです。(保阪)

 逃げる →追う →逃げるの繰り返しで、日本軍はどんどん深みにはまりこんだ。半藤さんの『昭和史(3267)』では、共産党軍の朱徳の「逃げの三原則」が紹介されています。「敵が進めば、逃げ」「 敵が駐屯すれば、周りでさわぎ」「敵が撤退すれば、追いかける」というものです。「まともな戦いができないから、やってられないん ですね」と嘆息し、「中国大陸で点と線を占領したところでどうにもならない」と書いています。決定打は、

(蒋韓国は)「日本の軍人は単純に言えば歴史観がないのだろう」と言う。なぜ中国と戦っているのか、なぜ中国に攻め入るのか、それを決めるのが歴史観だが、それが日本軍にはないのだろう。軍の論理でしか物事を考えないから、最後は軍事の限界にぶち当たって勝手に潰れていくのはわかっていたことだ――と言われたんです。これは、なるほどと思いましたね(保阪)

つまり戦争の大義が無いわけです。
今、日本が中国とやっているのは、宣戦布告していないことでわかるように戦争ではない。中国は、日本がイギリスやアメリカのような資本主義国を代弁していることに気づかず、日本に対して無駄な攻撃、反撃を行っている。つまり、これは一種の内乱、国際共同体に対する内乱にほかならない。だから日本はそれを鎮圧しているのだーーという論理です。(加藤)

大義が無い、歴史感が無い、戦争ではなく「支那事変」と呼ぶ内乱に、80万もの軍隊を注ぎ込んだのが日中戦争だと言います。

三国同盟の締結
 1939年ヒトラーがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。1940年にドイツからの特使ハインリヒ・スターマーが来日し「日独伊三国同盟」交渉が始まります。
 ドイツは、日本と同盟を結ぶことでソ連を牽制し、日本の海軍力をもってアメリカを牽制して、ヨーロッパ戦線に参入してこないようにしたいわけです。
 国内では様々の思惑が渦巻き賛否両論。国際連盟を脱退して国際的に孤立していますから渡りに船。イギリスとアメリカはドイツと戦っていますから、ドイツと同盟を結べばアメリカを敵にまわすことになると海軍は反対。外務大臣の松岡洋右は、ドイツ、イタリアと手を組んで、そこにソ連も加わえて「日独伊露四国同盟」にすれば、アメリカは手を出せないと説きます。

一九四〇年六月にフランスがドイツに降伏しますが、そうなると、第二次世界大戦でドイツを相手に戦っている国はイギリスしかありません。ということは、そのまま終戦になるのではないかという見通しもありましたから、終戦になったときは、東南アジアに植民地を持っている宗主国、イギリスがその最たるものですが、フランスやオランダも含めて、植民地の主がいなくなってしまう。となれば、戦勝国であるドイツがすべてかっさらっていってしまうかもしれない。日本はドイツと防共協定(日独防共協定)を結んで国として参加しよう――そういう狙いがあったのです。(加藤)

 ドイツと同盟を結んで戦勝国の仲間入りをしておけば、ドイツ勝利の暁には東南アジアのイギリス、フランスの植民地が手に入るわけです。「バスに乗り遅れるな」ということです。

ドイツがヨーロッパを征服して、ヨーロッパ新秩序をつくる。日本はそのドイツの留守の東南アジアを征服して、日本を盟主とする東亜新秩序をつくる。そしてアメリカは、アジアから手を引いてアメリカだけの秩序をつくり、ソ連はソ連で秩序をつくる。だから、世界の新しい秩序が四つになって、めでたく平和な世界が来る――と。そんなことを本気で考えたのかと言いたいところですが、当時の多くの日本人は、本当に大真面目に考えたみたいです。(半藤)

 9/27近衛内閣は、アジアの「東亜新秩序」を目指して三国同盟を締結します。年表で整理すると、

***1940年***
1/26:日米通商航海条例が失効
6/14:ドイツがパリを占領
9/23:日本が北部仏印への占領開始
9/27:三国同盟締結
***1941年***
4/13:日ソ中立条約
4/16:日米交渉始まる
6/22:独ソ戦開始
7/2  :御前会議で南進を決定(情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱)
7/21:ヴィシー政権に南部仏印への進駐を認めさせる
7/25:米、在米日本資産凍結令
7/28:南部仏印への進駐開始
8/1 :米、石油輸出禁止


一九三九年(昭和十四年)、アメリカが日米通商航海条約という、明治以来、続いてきた日本との貿易の条約を破棄、廃棄すると通告してきます。そして翌四〇年の初めに、それが成立する。アメリカと本当に貿易ができなくなると、これは大問題です。とくに海軍は、アメリカから石油が輸入できなくなるとどうしようもなくなります。もしそういう事態が起きたときは、どうしたらいいかというのが最後の悩みでしたから、そこで目をつけたのが蘭印と仏印、今のインドネシアとベトナムの石油地帯です。簡単に言えば、スマトラとかボルネオ、インドシナ半島あたりの石油を手に入れたほうがいいと考えた。(半藤)

三国同盟は、一言で言えば、アメリカを戦争参加に促したと言っていいでしょう。 そして、日本はこのときにノー・リターン・ポイントを越えたのです。もはや戻れないところに、その先の一歩に進み出してしまったと、私は思います。(半藤)

タグ:読書 昭和史
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