SSブログ

ゾルゲ諜報団 スパイ・ゾルゲの昭和 (1) [日記 (2022)]

R9052589.jpg 1.jpg
 『大平洋戦争への道 1931-1941』を読んでいると、日本が太平洋戦争に踏み出す10年は、驚くことにリヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)が日本でスパイ活動をした時期とピタリと重なります。ゾルゲが横浜に上陸したのは、1933年(昭和8年)9月ですが、1930~1932年には上海で諜報活動をしています。柳条湖事件、満州事変、上海事変を中国で体験していますから、ゾルゲは「太平洋戦争へ道」をひた走る日本の政治と外交を、時々刻々、ソ連に送り続けたわけです。真珠湾奇襲の1ヶ月前1941年10月に逮捕され、1944年11月、治安維持法、国防保安法違反で処刑されます。

ゾルゲ諜報団
 ゾルゲはコミンテルン出身のソ連赤軍情報部のスパイ。上海での諜報活動の後日本に送り込まれ、ドイツの日刊紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員として、近衛内閣ブレーンで朝日新聞記者・尾崎秀実、画家・宮城与徳等と共に諜報活動を行います。ゾルゲは、日本の基本政策が資源を求めて仏領インドシナ、シンガポールに侵攻する「南進策」であることを探りだし、ソ連はこの情報を基に20師団を極東からモスクワに移動して独ソ戦に勝利します。戦後、ソ連はこの諜報活動によりゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号を与えています。

 1933年、「ゾルゲ諜報団」が続々と日本に集結します。まず2月11日にヴーケリッチが横浜に上陸、9月6日にゾルゲがバンクーバー発のカナダ客船で横浜港に到着し、1933年10月24日に宮城与徳がアメリカから帰国します。

 ユーゴスラビア人のブランコ・ド・ヴーケリッチ(1904~1945)は、パリ大学で左翼思想に傾倒し卒業後コミンテルンに所属し日本に派遣されます。ユーゴスラビアの日刊紙「ポリティカ」「アヴァス通信社」の特派員としてゾルゲの諜報活動に関わります。
 沖縄出身の宮城与徳(1903~1943)は1919年アメリカに渡り(画家)共産党に入党、コミンテルン指示で帰国しゾルゲの諜報団に加わります。日本到着後、ゾルゲはヴーケリッチと接触し、二人は宮城と接触します。ゾルゲはドイツで、ヴーケリッチはフランスで、宮城はアメリカで、尾崎秀実は上海でコミンテルンにリクルートされていますから、共産党の国際組織は世界各地で活発に活動していたことになります。ゾルゲは1929年にコミンテルンから赤軍参謀法部第4局(諜報)に所属を変えていますから、赤軍参謀本部第4局(諜報部)がヴーケリッチと宮城をゾルゲの元に送り込んだと云えます。
 ゾルゲは1934年6月に奈良で尾崎と再会し、1935年12月に上海ゾルゲ諜報団の無線係りマックス・クラウゼン(1899~1979)が来日し、ゾルゲ諜報団のメンバーが揃います。ちなみに1933年当時、ゾルゲは38歳、尾崎32歳、宮城30歳、ヴーケリッチ29歳、クラウゼン34歳となります。

諜報活動
 尾崎秀実(1901~1944)は、1927年に朝日新聞上海支局配属となり、アグネス・スメドレーに会い、コミンテルンの諜報活動に加わりゾルゲ(ジョンスン)と出会います。1932年2月末に大阪本社(外報部)に戻り、6月に宮城与徳の仲介でゾルゲと再会し諜報団のメンバーとなります(この時まで尾崎はゾルゲがソ連のスパイであることは知らなかった様です)。尾崎は西園寺公一の推薦で1937年第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛主催の「朝食会」に参加します。ゾルゲは、尾崎を通じて第三次近衛内閣が潰れる1941年11月まで4年間、日本の中枢情報を取得できたわけです。また尾崎は1939年(昭和14年)6月に満鉄調査部の嘱託職員となり、満鉄調査部の膨大な大陸情報にも接することができたわけです。

 ゾルゲのもうひとつの情報源がドイツ大使館。ゾルゲはジャーナリストとして大使館付武官のオイゲン・オットの信頼を得、1938年オットが大使となると大使館に部屋まで与えられます。ゾルゲもまた日本政府、日本軍の動きをオットに与え、オットの後任駐在武官のショル中佐と親しくなり、この二人からナチスドイツの情報を得ます。

 ゾルゲの情報源は、
・尾崎がもたらす日本政府中枢の動き、及び満鉄調査部を通じての大陸の情報。
・ドイツ大使のオット、武官ショルからのドイツの政治、軍事情報。
・ヴーケリッチよる同盟通信、アヴァス通信社等通信社の表裏の情報。
・宮城与徳の収集する経済及び日本の軍事情報、九津見房子などから日本の社会主義、労働運動の情報。

 もう一人、1934年に来日し1937年にモスクワに帰国したコミンテルンのスパイ、フィンランド人女性のアイノ・クーシネンがいます。上流階級の社交界に食い込み皇居の園遊会にも招かれ、秩父宮(天皇の弟)とも複数回会っています。諜報団の一員というより単独のスパイで、ゾルゲはクーシネンの情報を赤軍に送る役目だったようです。日本の官権に捕まっていませんから、ゾルゲの調書には登場していません。著書『革命の堕天使たち』でも多くを語っていません。

 ゾルゲは、このネットワークから得た情報を分析し、クラウゼンの無線機でウラジオスットク経由で赤軍に送っていたのです。
 面白いのでもう少し調べてみます。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:

再読 半藤一利 永井荷風の昭和 ③(2012文春文庫) [日記 (2022)]

永井荷風の昭和 (文春文庫) 浅草.jpg
@ お断り ⇒いたずらに長く引用多いです。
続きです。
荷風さんの浅草
 荷風さんは数多くの浅草を舞台にした小説を書いています。その浅草への思いは、時局柄「オペラ館」が閉鎖となった昭和19年3/31の『日乗』を読むとはっきりするそうです。

《・・・オペラ館は浅草興行物の中真に浅草らしき遊蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地・・・オペラ館楽屋の人々は或は無智朴訥、或は淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強慾傲慢ならず、 深く交れば真に愛すべきところありき≫(昭和19年3/31)

踊り子と一緒に楽屋で撮った有名な写真があります。荷風さんは楽屋に入り込んで、無智で淫蕩無頼、世に無用の輩を気取り、世間で威張っている狡猾、強慾、傲慢の輩では無いこと確認していたのでしょう。淫蕩はその通りなんですが。荷風さんは、その死に至るまで毎日のように浅草に通っています。

お神籤
去年秋ころより観音堂の御籤ひきたしと思いながら、いつも日の短くて、ここに来る時は堂の扉とざされし後なり≫(昭和16年1/27)

 荷風さんでも浅草観音でお神籤くらいひきます。半藤さんは「去年秋ころ」に拘ります。昭和15年の9/23には日本軍は仏領インドシナへの占領を開始し、9/27には日独伊三国同盟が締結されます。つまり、アメリカとの戦争の「卦」が出てきたわけで、その先どう転ぶか?と荷風さんはお神籤をひいたというのです。それはコジツケだろう、新しい彼女との相性でも占ったんだろうと思うと、

字義どおり内憂外患、その言をそっくり借りれば 《国家破産の時期いよいよ切迫し来れるが如し≫ 昭和15年11/5)
・・・つまりは、それが、荷風が《去年秋ころ≫ より痛切に感じられてきたことの正体なのである。 それを憂えるのあまり、それで今日こそはとお神籤をひいてみた。それは《第九十二吉。左にしるすが如し≫なのである。
そして荷風はこのとき吉であるのに少なからず気をよくしている。
《すこしよすぎるようなれど、此分なれば世の変革ももさして憂るに及ばざるものか。筆禍の身の及ぶことはなきものの如し》昭和16年1/27)

別に日本の将来を心配しているわけでは無いのです。「筆禍」つまり小説が発禁になったり、逮捕されることを恐れていたわけです。笑うのは、この御神籤の項で半藤さんが自分の過去をついポロリと漏らしていること、

こっちはごく少ない体験ながら、そののち社会人になってからも好き合ったSKDの踊り子と二人してそっとひいたことがある。そのときも、深い祈りをこめたのに出たお神籤は二人とも凶、大いに前途を悲観したものであった。

浅草寺の資料でお神籤は、大吉18%、小吉31%・・・凶32%で構成されているという話の後、

この寺には大凶の籤はないものの凶が三割もあっちゃわたくしのように踊り子に振られる不運をひきあてるひとも多いわけである。
一緒にお神籤をひいたSKDの踊り子にはフラれたようです。そう言えば、半藤さんは玉の井の件でも体験談と蘊蓄を披露してくれていますから、荷風さんに劣らず盛んであった?。
 「お神籤」の最後の話は何とも切ないです。荷風さんは浅草観音の大吉のお神籤を肌身離さず持っていたとのこと。戦争中、「偏奇館」が焼けないように祈りしながらひいたお神籤が凶で偏奇館は焼失。それ以来、大吉が出るまでひき続けることにしたそうです。

「大吉をもっていれば、人に迷惑をかけずにぼっくり死ねる。しょっちゅうそう観音さまに頼んでひいている」
と、荷風は心を許したひとに語っていたという。それで亡くなったとき、衣服のポケットには観音さまの大吉のお神籤がきちんと四つに折られて入っていた。

荷風さんとカメラ
荷風踊り子1.jpg rolleicord1-main.jpg
 《・・・空腹に堪えざれば直に銀座に赴きて夕飯を喫す。 帰宅の途上氷を購い家に入るや直に写真現像をなす》(昭和12年9/3)

写真現像をなす、とあるように、荷風さんは昭和11年10/26にカメラを買っています。以下本書には触れられていない話です。

夜久邊留(銀座の喫茶店)に往く。安藤氏に詫して写眞機を購ふ金壱百四圓也(昭和11年10/26)
ローライコードⅠ型という二眼レフで104円。昭和3年頃の小学校教員の初任給45~55円ですから、104円は給与の2倍で高価。写真現像をなすとありますから、荷風さんは自ら現像もしていた様です。荷風と写真については、東京さまよい記さん記事が詳しいです。

此の日薄晴。風なく暖なれば墨堤に赴き木母寺其他二三個所の風景を撮影し・・・(11/16)
天気快晴。昨の如し。三階物干し場に出で、娼妓の寫眞を撮影す。江戸町の通りを見下ろすに裏木戸近きあたりに女ども打ちつどいて猿廻しを看る。此の光景も亦カメラに収む(昭和12年6/11)

 映画『濹東綺譚』には、小説家・大江がお雪のヌード写真を撮影するシーンがあったと思うのですが、6/11の娼妓の寫眞がそうした写真だったのかどうかは?。自ら現像する辺りが怪しい、というのはゲスの勘ぐりw。引き続き東京さまよい記さんのサイトから。

二月一日。隂。午後丸の内に用事あり。又 空庵子を築地に訪ふ。名塩君周旋のカメラを購ふ 参百拾円也 晡下玉の井に徃き一部伊藤方を訪ふ。帰途雨雪こもごも至る。(昭和12年2/1)

荷風さん、2台目のカメラ高級機のローライフレックスを買っています。310円ですから1台目の2倍。当時の首相の給与が800円ですから、荷風さん、気合が入っています。

秋庭(永井荷風研究家)は、ローライコードを買って間もないのに、新しく高級機を購入したのは、前回のカメラでは室内や夜間撮影が能くし得なかったからであるとしている。前回の記事のように、この年(1937昭和12年)1月荷風自らが写真の現像をはじめているが、前年12月5日の吉原仲之町の夜間撮影や12月26日の芸姑の室内撮影などの現像結果がおもわしくなかったのであろうか。
佐々木桔梗は、「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」で、前回の記事にある、1月21日の日乗の「玉の井に遊ぶ。奇事あり。」、帰宅後の「写真を現像して暁二時に至る。」の記述から、室内で「奇事あり」の撮影をし、その写真を現像したが露出不足かピンボケなどでよくない結果であったと推量し、一台目のローライコードの性能に見切りをつけ、その後、すぐ、「キュウペル」あたりの常連に相談し、明るいレンズの二台目のカメラを入手したとしている。(東京さまよい記さんの荷風と写真(5)

荷風と写真(6)にはエッ!と云うような解説もあります。半藤さんもさすがにここまでは書けなかったのでしょう。荷風さん、カメラに入れ込んだようです。

タグ:読書 昭和史
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

再読 半藤一利 永井荷風の昭和 ②(2012文春文庫) [日記 (2022)]

永井荷風の昭和 (文春文庫)  @ お断り ⇒引用多いです。
続きです
「非常時」の声のみ高く(昭和8~10年)
 昭和8年は、日本が国際連盟を脱退した年です。来るべき戦争を意識して「非常時」という言葉が叫ばれ、関東では「防空大演習」が実施されます。

《八月十日。晴。終日飛行機砲声殷々たり。此 夜 も燈火を点ずる事能わざれば薄暮家出で銀座風月堂にて晩餐を食し金春新道のキュペル喫茶店に憩う。 防空演習を見むとて銀座通の表裏いずこも人出おびただしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いずれもお祭騒ぎの景気なり。此夜初更の頃より空晴れ二十日頃の片割月静に暗黒の街を照したり昭和8年8/10

防空大演習など我関せずと、灯火管制のなか銀座で夕食を食べ、喫茶店に憩うわけです。この日の日記を「月静に暗黒の街を照したり」と閉じる辺りは荷風さんの精一杯の皮肉。

 昭和8年には、小林多喜二が治安維持法で逮捕、虐殺され、滝川事件などが起きます。翌9年には出版法、新聞法が改正され、10年には天皇機関説事件、国体明徴の声明と、徐々に言論の自由が制限される時代に入って行きます。昭和12年になると言論統制が強化され、11月には大本営に報道部が設けられ言論取締が厳しくなったそうです。名作『濹東奇譚』は12年4/16~6/15に新聞に連載され間一髪、発禁を免れます。半藤さんは、芸術のミューズ(女神)が微笑んだ、と書きます。

濹東の町 昭和11年~12年
濹東綺譚』の町「玉の井」の話です。

《余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。去月二十四日の夜わが家に連れ来りし女とは、身上ばなしの哀れなるに稍(やや)興味を牽きしが、これ恐らくはわが生涯にて闇中の快楽を恣にせし最終の女なるべし。色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てここに終焉の時の事をしるし置かむとす》(昭和11年2/24)

自宅に連れ帰った女性と何事もなく、身の上話を聞いただけというのですが、荷風さん57歳で未だ若い?。で、「色欲頓挫」と書きつつ玉の井を頻繁に訪れてれます。半藤さんの友人(磯田光一)が数えたところ、5月7回、6月2回、7月1回、9月13回、10月12回だそうです(7月1回、8月0回は、玉の井の「蚊」を避けてのこと)。どこが「色慾頓挫」なんだw。

《晩餐後浅草より玉の井を歩む。 稍(ようやく)迷路の形勢を知り得たり。然れども未精通するに至らざるなり》4/11
《晩餐後重ねて玉の井に往く。 道順其他の事につき再調を要する処多きを知りたればなり》4/23

「迷路」とは有名な「ぬけられます」の迷路。玉の井ラビリンスにハマり抜け出せなくなったようです。玉の井で《お雪》と出会うわけです。

女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。年は二十四、五。上州辺の訛りあれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌、こんな処でかせがずともと思はるるほどなり。9/7)

《秋陰昨の如し。終日執筆。命名して墨東綺譚となす≫10/7
《晴れて暖なり。落葉を焚く。濹東綺譚の草稿成る≫ (10/25)

半年にわたる玉の井通いで名作『濹東綺譚』が生まれます。ちなみに、昭和11年は2・26事件起こった年です。反骨の荷風さんよりも、やはりコッチの方が面白いw。

ニ・ニ六事件(昭和11年)
 私的な日記であった『日乗』が社会性を帯びてくるのは昭和7~8年からで、2・26事件以後になると
すます精彩をおびてくる。 荷風は国家の抱擁を頑としてはねつけ、字義どおり孤立無援のなかで一日 一日を刻みつけていったのである。

だそうです。2・26事件を、荷風さんは友人からの電話で知ります。
《ラジオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ、平日よりも物音なく、豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど、降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す》昭和11年2/26

青年将校が決起した憂国の反乱ですから、何か感想があると思うですが、寒いので出掛けず風呂を焚いて寝た、です。新聞もラジオも事件を伝えないため翌27日から3日間、野次馬根性で市中に出かけます。

 《議会の周囲を一まわりせしがさして面白き事なく、弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。 虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば、金毘羅の縁日の如し≫ 2/27

商店が夜遅くまで店を開けている様を「金毘羅の縁日」だと云うのです。青年将校の気持ちは分かるとか分からないとか、『日乗』に事件の感想がありそうなものですが、半藤さんが書いていない以上、無かったのでしょう。「風呂を炊いて入った」「見物に行った」「縁日の様だった」とは恐れ入ります。おまけに事件の1ヶ月後には玉の井通いです。

 2・26事件で皇道派が力を失い統制派の天下となります。予備役に追い落とした皇道派の将官が復帰しないよう「軍部大臣現役武官制」を復活させ、軍部独走の下地が出来ます。その時の陸相が寺内寿一(広田内閣)。この寺内と荷風さんが中学の同窓だった話となります。寺内は2・26事件で大将8人が現役を去ったため陸軍大臣に上り詰めますが、半藤さんに言わせると

父に長州陸軍の大ボス正毅元帥をもち、育ちだけがとりえの、才気のない、凡庸の人の評がある。幕僚の言をただ聞くだけの無策の総大将でもあったと。
同級生であっただけに、荷風の炯眼は寺内本質を早くも見抜いていたようで、そこが面白い。

つまり、寺内は我が荷風散人を持ち上げるためネタにすぎません。

《一橋の中学校にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は、軍人反乱後、陸臣となり自由主義を制圧せんとす》3/18
《人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大将とは一橋尋常中学校の同級の生徒なりしが、仲悪く屢(しばしば)喧嘩をなしたる事など記載せられし可恐可恐》3/27

ふたりが通っていた中学は校則で坊主刈り。荷風さん頭髪を伸ばし、香料入りのチックをつけ、髪を分けて登校したと云います。それを見た(陸軍士官学校へ行くくらいですから)硬派の寺内他は放課後に荷風さんを呼び出し鉄拳制裁。これをおもだして「可恐可恐」なんでしょう。

最高位の軍人にとっては一文士ごときはの見下した想いが、戦時下日本の武張った姿をよく象徴している。しかも鉄拳制裁・頭ごつんごつんぐらいですんだ中学時代とちがい、生殺与奪の権がいまや一方的にあっちにある時代となった。《可恐可恐》と荷風さんが寺内の名を聞いて肩をすくめた気持はとてもよくわかる。

半藤さんは、これが書きたかったわけです。

タグ:読書 昭和史
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:

麻薬漬け と ニンニク醤油 [日記 (2022)]

2.jpg 1.jpg
ゆで卵がはいっている          冷やしウドン
 「麻薬漬け」とは剣呑な名前です、クセになるということでしょうか。奥さんが作ってくれました、TVか何かで知ったんでしょうね。検索するとレシピが色々出てきます。我が家ではオオバを入れてます(ミョウガもよさそう)。ゆで卵、冷やっこにかければビールのアテになり、冷やしウドンにも合います。ソウメンもいいかも。
 ステーキを焼いたニンニクが余ったので、「ニンニク醤油」作ってみました。作るも何もニンニクと鷹の爪を醤油に漬け込むだけw。納豆ご飯、卵かけご飯、冷やっこに重宝します。テキトーにニンニクを取り出して料理に使えばgood、チャーハンとか。
 1.jpg 2.jpg
 ニンニク醤油                       美味しい!と言ってます  

タグ:絵日記
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

呉善花 反目する日本人と韓国人(2021ビジネス社) [日記 (2022)]

反目する日本人と韓国人 両民族が共生できない深いワケ  懲りずに呉善花氏の韓国論(エッセー)です。著者は20代で来日し、その後日本に帰化した韓国人ですから、体験に根差した日韓比較文化論は説得力があります。

 第1章:カルチャーとコミュニケーション行き違い
 第2章:美に対する感性の差異
 第3章:男と女と、家族の在り方
 第4章:韓国独自の歴史感

価値観
 著者は来日した頃に受けたカルチャーショックから書き始めます。

(電話をかけて)「鈴木社長様はいらっしゃいますか」と訊ねたところ、相手の女性が「鈴木は席を外しております」と答えました。「鈴木」と呼び捨てなのです。私は、「この鈴木社長は、社員の女性に舐められているに違いない」と思ってしまいました。

笑ってしまいますが、敬語の使い方が韓国と日本では真逆です。「孝」が優先される儒教の韓国で、身内に敬語を付けるそうです。

 また、日本人と韓国人の違いを端的に表すのが人間関係における「距離取り方」だそうです。

「私にはとても我慢できないことがあります。 仲良くなった韓国人の奥さんが家に遊びにくると、勝手に台所に入って、自分でコーヒーを入れて飲んでいるんです。」
・・・韓国人にしてみると、いつまでもお客様のふりをして居座ることが失礼なことなのです。・・・飲み物も自分で用意する。それができてこそ友達だ、と思っています。とても仲良くしたいと思っているのです。韓国人にしてみれば、んであげるということは強い親しみを表わしていることなのです。

 日本人にとっては、親しくなっても他人の家で勝手にコーヒーをいれて飲むことは礼儀をわきまえない行為です。韓国人は、親しくなったら遠慮しないことが礼儀となるらしい。日本には「親しき仲にも礼儀」という諺があるように、人間関係において「間」をとり、「察する」ことで必用以上に相手の領域に踏み込むこと避けます。韓国には、「間をとる文化」「察する文化」は無く、この辺りが日韓のすれ違いの根本原因だと著者は言います。

「もののあはれ」と「恨」
 日韓では美意識も大きく違います。

韓国人にとっての「美」は、人工的なもの、派手なものを指す傾向が強くあります。左右対象で、華麗で、整っている。磨かれた故にピカピカと輝いていたり、花が満開に咲いていたり、鮮やかな色彩だったり…そういったものを好む

だそうです。チマチョゴリの派手な色彩、金属の食器や箸を見ると、何となく理解できます。一方、日本人は派手なものやピカピカと輝いているものは好まず、左右非対象で整っていないものの中にも美を見出だします。高麗青磁や李朝白磁と「わび茶」の茶器の違いの様なものです。花にも美意識の違いが現れていると言います。日本の国花=桜と韓国の国花=ムクゲです。桜はパッと咲いてパッと散りますが、ムクゲは夏の間咲いては散りまた咲きます。韓国に、桜は散るから美しい感じる情緒はありません。

 まぁ好き嫌いの話ですが、著者はこの日韓の美意識の延長線上に日本の「もののあはれ」の文化と韓国の「恨」の文化を見ます。日本には、明暗、強弱、盛衰の影の部分や負の領域にも美や価値を見出だす心性があり、著者はこれを「もののあはれ」の文化だとします。枕の草子の冒頭「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」の山際の「際」の如きもの?。白黒のハッキリした韓国には、この曖昧領域に価値を見出す心性が無いとのことです。「もののあはれ」と「恨」を比較するのは?ですがナントナク分かります。では「恨」とは何か?。本書の解説より『韓国「反日民族主義」の奈落』にピッタリの文章があります。

「恨」は 、達成したいこと、達成すべきことができない「ダメな自分」の内部に生まれるある種の「くやしさ」に発している。・・・恨があるからこそ強く生きられる、恨をバネに生きることができるというように、本来は未来への希望のために強くもとうとするのが恨である。

この「恨」が伝統的な「侮日」と「侵略史観」と結びついて反日が生まれるというのが第4章「韓国独自の歴史感」です。「ダメな自分」の内部に生まれるある種の「くやしさ」をぶつけられても困るのですが…。

 儒教では何よりも「孝」が尊ばれ、宗族社会である韓国では、孝の第一は血脈が次世代に受け継がれることです。結婚せずに亡くなると、亡くなった人の「恨」がこの世に留まり一族に禍を為すと信じられ、独身のまま亡くなった男女を親族が結婚させるそうです。にわかには信じ難い話ですが、役所はこの婚姻届を受け付けるというのです。という話が第3章「男と女と、家族の在り方」。体験に根ざした韓国論ですから、面白いです。

 ウクライナ戦争で台湾海峡が喫緊の課題となりIPEFもあって、「価値観を共有する国」と云うタームが度々取り上げられます。本書は、異なる文化を持つ民族が価値観を共有できるのか?、という本で、タイトルは『反目する日本人と韓国人 両民族が共生できない深いワケ』です。

当blogの呉善花氏
スカートの風(1997角川文庫)
侮日論 (2014文藝春秋)
韓国を蝕む儒教の怨念 (小学館新書2019)
攘夷の韓国 開国の日本  (1996年文藝春秋)
韓国併合への道 完全版 (2012文春新書)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

映画 燃えよ剣(2021日) [日記 (2022)]

燃えよ剣 全2巻 完結セット (新潮文庫)燃えよ剣.jpg
 久々に映画、それも時代劇、しかも新撰組。原作の『燃えよ剣』は、司馬遼太郎の維新モノの中では「司馬史観」臭さが少なく、物語性が前面に出た傑作だと勝手に思っています。『燃えよ剣』の映画化は、栗塚旭主演の映画(1966)以来55年ぶりだそうです。新撰組はいまだ人気があります。映画では『御法度』、『壬生義士伝があり、最近の小説では、一刀斎夢録(2011)』、木内 昇『新選組 幕末の青嵐 地虫鳴く(2010)』『新選組 裏表録(2009)』等があります。新撰組は何故人気があるのか?、個人的には

 賀茂の河原に千鳥が騒ぐ
 またも血の雨 涙雨
 武士という名に 命をかけて
 新選組は きょうも行く (三橋三智也、あゝ新撰組)
 
みたいなところですw。身分制が崩れつつあった幕末に、多摩の百姓の倅が武士になりたい一念で京に上り、剣一本で運命を切り開いてゆく。勤王も佐幕も尊皇攘夷も関係無いわけで、その一直線の青春と近藤勇以下の試衛館メンバーの青春群像が作家の想像力を掻き立てるのでしょう。

 新撰組は会津藩の後ろだてを得て一時は輝きますが、時代からは疎まれ、近藤は罪人として斬首、土方は五稜郭で討死、沖田は植木屋の土蔵で病死します。新撰組を取り巻く男達の末路もまた凄惨。浪士組頭取・清河八郎は暗殺、初代局長・芹沢鴨暗殺、参謀・伊東甲子太郎暗殺、山南敬助切腹、井上源三郎戦死...試衛館のメンバーで生き残ったのは斎藤一、永倉新八のみで死屍累々。激動の時代の中で次々に斃れてゆきます。新撰組は時代が放った一閃の光芒で、そこが人々を捉えて放さないわけです。

 で、期待して映画を観ましたが、何か違う。多摩の薬売り歳三から始まり、江戸の試衛館、上洛、新撰組結成。内部抗争を経て京都守護職・会津藩預かり新撰組として倒幕の浪士を捕殺。池田屋事件を経て勢力を拡大するも、大政奉還によって存立基盤を失い、東北を転戦して五稜郭で敗走、と原作を忠実に辿っています。新撰組に在るのは、内部抗争と暗殺と暴力による勢力拡大。
 明治維新は、島津組と毛利組が手を組み江戸の徳川組に仕掛けた抗争みたいなものです。その争いに徳川組傘下の武闘集団・近藤組が ”長ドス” 引っ提げて乱入する「文久・慶応 残侠伝」ですw。

 日本史年表に新撰組の事跡を書き入れてみると分かりますが、明治維新のエポックに新撰組は殆んど参加していません。薩長土肥に比べて歴史的には微々たる存在。水戸の天狗党、天誅組などは思想集団が暴力集団に発展?するわけですが、新撰組のイデオロギーは旧来の士道。その泡沫の如き新撰組が、幕末史では輝ける存在だという不思議。幕府に義を尽くし共に滅ぶ辺りが、日本人のメンタリティにピッタリくるのでしょう。

 原作のポイントは、

 ・新撰組は、近藤、土方等試衛館9人の私党。特に初期新撰組に濃厚だったのは、私党の結束と排他性。
 ・身分制の隙間で土方が作ったのは、「士道」というイデオロギーを纏った武闘集団だった。士道とは生き方、美学の問題。
 ・その私党が「会津藩預かり」となって公的性格を帯び、変質して幕藩体制に組み込まれてゆく
 ・大政奉還よって、新選組はその役目を終え、以後は残党が旧幕府軍に合流して戊辰戦争を戦い、函館戦争で土方が戦死し終焉。

このあたりだと思います。
 『壬生義士伝』は吉村貫一郎、『御法度』は衆道という視点を持ち込むことで、新撰組という集団と時代相が浮かび上がってきます。 新撰組を時系列に描いても何も生まれて来ません。この映画には対象を切り取る視点に欠けていると思われます。森鴎外は、歴史小説を書く姿勢を「歴史其儘(ソノママ)、歴史離れ」と言っていますが、同様に「原作其儘、原作離れ」、原作のアレンジが必要だったのではないかと思います。

 映画では歳三の恋人にお雪が登場します。お雪は原作にも登場しますが、府中の神社の宮司の娘・佐絵の方が印象深いです。普通の娘では満足できない歳三は「くらやみ祭」で佐絵と情を通じます。佐絵は貴、歳三は賤の対立した関係です。 ふたりは京で再会、歳三は新撰組副長で佐幕、佐絵は前関白・九条尚忠に仕え勤王派のために宮廷工作する女志士。故郷での関係が、京では逆転する辺りが司馬遼太郎の上手いところ。佐絵は『燃えよ剣』のひとつの視点です。歳三の色恋を描くならお雪よりこっちでしょう。

監督:原田眞人
出演:岡田准一、柴咲コウ、鈴木亮平、山田涼介、伊藤英明

当blogの新撰組

タグ:読書 映画
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

再読 半藤一利 永井荷風の昭和 ①(2012文春文庫) [日記 (2022)]

永井荷風の昭和 (文春文庫) 荷風さんの昭和 (ちくま文庫) 『大平洋戦争への道』を読んでいて永井荷風を思い出しました。荷風には大正6年から昭和34年の死の間際まで40年にわたって書き継がれた日記『断腸亭日乗』があります。荷風はまさに昭和を生きたわけです。この『日乗』をネタに「歴史探偵」半藤一利さんは昭和史にどう斬り込込んだのか?、大平洋戦争に至る激動の昭和は、市井の文人・荷風散人の目に如何に映ったのか?、再読してみました。
 荷風の独白を著者が解説し、それにまた感想を重ねるわけですから、何時もより引用が増えます。

《日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲(ようちょう、懲らしめる)と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果てに名 目を変じて聖戦と称する無意味の語を用い出したり。欧州戦乱以後英軍振わざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人等及猛壮士等の企るところにして一般 人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰いて不平を言わざるは恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり…》日乗、昭和16年6/15

 昭和16年は、アメリカからハル・ノートが突きつけられ石油輸入が止まり、日本は南方進出と大平洋戦争開戦を決めた年です。12/8の真珠湾奇襲によって戦争の幕が切って落とされます。

張作霖爆殺→満洲事変→二・二六事件→日中戦争→三国同盟→仏印進駐という今日ではイロハのようになっている〝太平洋戦争への道〟が、昭和十六年六月の時点で、荷風さんの眼にはっきりと見えていたのである 。(半藤)

この憐れむべき狂愚の世 (昭和3年~7年)
 昭和6年柳条湖事件を機に満州事変が起こり、陸軍は満州を制圧します。侵略戦争の自覚のある陸軍は、満州から世界の目をそらすために上海事変を演出します。上海事変は、陸軍中央が上海の公使館付武官に命じてやらせた謀略。荷風は、上海事件に踊る当時の日本を

《銀座通商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し。蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す。時に満街の燈火一斉に輝きはじめ全市挙って戦捷の光栄に酔わむとするものの如し。思うに吾国は永久に言論学芸の楽土には在らず、吾国民は今日に至るも猶往古の如く一番槍の功名を競い死を顧ざる特種の気風を有す、亦奇なりと謂うべし 。》日乗、昭和7年3/4

と苦々しい思いで日乗に記しています。「一番槍」とは上海事件で 自爆して突撃路を開いた「爆弾三勇士」を指すとのこと。

《市内電車内の広告に、東京市主催多門中将依田少将凱旋歓迎会此夕日比谷公園にて執行せらるる由見ゆ。 二三年来軍人その功績を誇ること甚しきものあり、古来征戦幾人かえるとはむかしの事なり、今は征人悉く肥満豚の如くなりて還る、笑う可きなり日乗、昭和8年1/26

出征し、肥満豚の如くなりて還る軍人の姿に我慢がならないようです。世間は戦争に騒いでいますが超然たる姿です。

女は慎むべし慎むべし
 半藤さんは、荷風ならではの柔らかい話もサービスしてくれます。半藤さんは、週間文春の記者時代に「荷風における女と金の研究」なる一文を書いた荷風研究の「大家」。荷風は生涯(行きずりの関係は別として)「十指に余る」女性と関係を持ったそうです。(女性の写真まで入手して)荷風の好みを推理しています。

これらの女性に共通していえることは、いずれも肉感的であり、色の白い、肉もしまった外形に、顔は面長のうりざね顔である。つまり浮世絵美人。そして荷風にとって、もし理想の女性像があるとすれば、善良なる淫女、もしくはみだらなる聖女ということになる。

だそうです。

《女好きなぬ恋をなしたる事なし。されど処女を犯したることなく、又道ならぬ恋をなしたる事なし。五十年の生涯を顧みて夢見のわるい事一つも為したることなし≫ 日乗、昭和3年12/31

と豪語しています。『濹東綺譚』のお雪から、手を握る他は何事も無かったプラトニックな恋人、新橋の芸者・山勇までその女性遍歴は多彩。極めつけは銀座のカフェーの女給”お久”。お久は荷風に「囲って」もらう当てが外れ、荷風の住居「偏奇館」に押し掛け、手切れ金として財産の半分を要求します。大正末から昭和にかけて円本ブームが起こり、貧乏文士に多額の印税をもたらしたそうです。

《 午後三菱銀行に赴き、去秋改造社及び春陽堂の両書肆より受取りたる一円全集本印税金総額五万円ばかりになりたるを定期預金となす》日乗、昭和3年1/25

たいやき二銭、新聞購読料九十銭、小学校教員の初任給四十五~五十五円、総理大臣の月給八百円の時代の5万円!です。

《余 今日まで自家の閲歴に徴して何程の事あらむと侮りいたりしが、世評の当れるを知り慚愧に堪えず。 凡て自家の経験を誇りて之を恃むは誤りのもとなり。慎む可し慎むべ》日乗、昭和3年1/25

いくらこの期におよんで、女を見る目がなかったと悔いても、後悔先に立たずの諺どおりで、それでおさまるわけがなかった。

荷風さんが性悪女に引っかかった話です。荷風さんはお久を警察に突き出し、
《こんなくだらぬ事で警察へ厄介を掛けるのは馬鹿の骨頂なり、淫売を買おうが女郎を買おうがそれはお前の随意なり、その後始末を警察署へ持ち出す奴があるか》日乗、昭和3年10/12
と警察からは小言を貰う始末。このお久との顛末は、当時荷風のお気に入りだった”お歌”との情交と共に、映画『濹東綺譚』(1992)にも描かれています。続きます。
ぼうくとうきたん3.jpg ぼうくとうきたん4.jpg
 映画『濹東綺譚』の荷風さん(津川雅彦)

タグ:昭和史 読書
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:

呉善花 韓国「反日民族主義」の奈落 2⃣ (2021文春新書) [日記 (2022)]

韓国「反日民族主義」の奈落 (文春新書 1308)  続きです。大統領が尹錫悦に変わってインパクトは薄いですが、第4~6章は文在寅政権の分析です。

 第4章:奈落の底へ堕ちていく文在寅韓国
 第5章:韓国が左翼独裁=全体主義国家になる日
 第6章 北朝鮮を正統国家とする自虐史観

 第4章は政権のスキャンダル、第5章は不動産の高騰や失業率などの政策の失敗。文在寅韓国が「奈落の底へ堕ちていく」とは凄まじいですが、何れも既知の話です。面白いのが第6章。文在寅政権は、金大中→盧武鉉と続く左派政権で、板門店宣言、米朝会談セッティングなど南北統一に熱心だった政権です。その文在寅など北朝鮮にシンパシーを抱く左翼「民族主義者」の北朝鮮に抱くコンプレックスの話です。

北朝鮮が「本家」だ
 韓国では「半万年」の歴史という表現が使われるそうです。朝鮮は、BC2333年に檀君よって建国された(檀君神話)から5000年の歴史があると云うのです。北朝鮮ではこの建国がBC2993年と更に遡り、檀君朝鮮が最初に都を置いたのが平壌で、平壌には檀君の墓まであり檀君の骨が発掘されています。これでもう韓国の負けw。檀君神話は、民話を下に13世紀末に成立した『三国遺事』に記されています。

檀君朝鮮の最初の都は現在の北朝鮮の首都、平壌とされる。それに対して韓国の首都ソウルは、三国時代(三一三~六七六年)に漢山とか漢城と呼ばれた百済の都城にはじまるものだ。この、古さで「北方優位」であるところに北朝鮮の民族主義的な「本家意識」もあるわけだが、韓国国内の北朝鮮シンパ左翼と民族主義が結びついて 「左翼民族主義」が生まれる理由の一つがそこにある。

 随分妄想的な「左翼民族主義」です。著者はこれを歴史の書き換えと呼びます。

高句麗・高麗史観
 もうひとつの書き換えが、朝鮮の正統的な系譜を、高句麗(~668)以降を、《高句麗 →渤海 →高麗》とつなげるところです。

 ・高句麗は、檀君朝鮮の領土を回復し、中国東北地方から中国遼東地方まで勢力を回復した。
 ・高句麗滅亡後、高句麗の遺民の朝鮮人が渤海を建て中国東北部から沿海州の領域まで勢力を拡大した。
 ・渤海が契丹に滅ぼされ、渤海の遺民は高麗を建て歴史的に初めて朝鮮を統一した。

つまり、高句麗→渤海→高麗→李朝→韓国&北朝鮮となるわけです。

これによって北朝鮮は、「元来の朝鮮の領土は、中国東北地方・遼東地方にまで至る広大な土地である」と主張する。と同時に、その広大な領土を有していた高句麗・渤海国を継承して朝鮮半島を統一した高麗王朝が檀君以来の朝鮮王朝正統の継承国家であるとして、「現在の我々が継承すべき国家は高麗だ」というのである。

 北朝鮮の歴史感では、朝鮮半島を統一した新羅は、唐の軍と共に百済を亡ぼした「反民族的裏切り者国家」、李氏朝鮮を建てた高麗の将軍・李成桂は、高麗を裏切った「反民族的逆賊」だそうです。この歴史感では、

今では中国領となっている北方の広大な土地までを版図とする、東北アジアの中心をなす大国が、本来の朝鮮とイメージされてくる。そしてそれは、彼らにとっては将来の朝鮮のあるべき姿でもあるのだ。

 南北が分断されている限り、この妄想は成立しませんから、南北統一は韓国の悲願となります。

この高麗をルーツとする朝鮮像はまた、北方優位、北朝鮮本家の歴史観をもってしか、可能とはならない。だからこそ盧武鉉や文在寅は、従北統一を目指し、あらかもアジアの一大国の主張であるかのように、統一朝鮮が「東北アジア時代の中心国家として雄飛する機会が訪れた」と主張するのである。

この高句麗・高麗史観に水を差すのが、高句麗、渤海、高麗などは中国の地方政権に過ぎないとする「東北工程」です。素人目には、考古学的文献的にも東北工程の方に分があると思うのですが(任那日本府も同様)。

北朝鮮コンプレックス
 独立後、韓国の李承晩、朴正煕など保守派・軍事政権は、日韓併合時代に日本に協力した親日派の韓国人を国家運営のために利用しています。北朝鮮は親日派を犯罪者・売国奴として粛清したが、韓国は反日を清算せずに建国した、民主化以降これが保守派のコンプレックスになっていると云います。「積弊精算」が出来ていないというコンプレックスです。
 北朝鮮は、日本統治終了後から朝鮮戦争あたりまで、日本の遺した発電所、肥料工場によって国力は韓国より勝っていたと言われています。普通に考えれば、日本が撤退した後、これらの設備の保守運営のために親日派は必要であり、粛清したとはとても考えられません。能吏と技術者なしに回らなかった筈です。北も南も今日の繁栄(北は繁栄してませんが)の基礎を築いたのは、「日帝強占期」に粛々と工場を回し組織を運営したのは「親日派」だと思うのですが。
 自らのコンプレックスを解消するため、親日派の人名辞典を作り「親日」を叩くしか手段が無いわけです。究極は、「日帝強占下親日反民族行為真相究明に関する特別法」でしょう(可決されていませんが)。
 
韓国は「日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてた」、それは間違った建国だったというのが、文在寅ら韓国左翼の歴史認識である。
 
 著者によると、左派民族主義は「北朝鮮が本家」、「韓国は間違って建国された国」という北朝鮮コンプレックスが核となっていると云います。

 (ここからは想像なんですが)そのコンプレックスは、韓国は日本の敗戦で米軍に解放されて生まれた国家だというコンプレックス。北朝鮮も同様にソ連の解放よって生まれたわけですが、違うのは、北朝鮮は抗日パルチザンの英雄・金日成が率いている点です。米軍が自国に都合のよい李承晩を指導者に選んだ様に、ソ連も金日成を選んだに過ぎないのですが。ちなみに、「金日成」という抗日パルチザンの将軍がいたことは事実の様ですが、別人が「金日成将軍」になりすましたという金日成偽物説もあります。この北朝鮮コンプレックに、韓国は憲法前文の「大韓民国臨時政府の法統」という文言で対抗します。
(冷戦体制の終結後)金大中政権から盧武鉉政権を通して「国家あっての民族」から「民族あっての国家」の考えへと急速に逆転していった。つまり、これからは国家体制の違いよりも、同じ民族だということを優先して、まずは統一の前段階として南北連合国家を形成していこう、ということになったのである。・・・こうした国民レベルでの親北民族心情の拡がりに乗じて長らく抑えつけられていた左翼民族主義イデオロギーが、一気に市民権を獲得していったのである。

「恨」
 著者よると、反日は韓国人に特徴的な「恨」の心情と分かちがたく結び付いていると言います。

韓国人の「恨」は、単なるうらみの情ではない。「恨」は 、達成したいこと、達成すべきことができない「ダメな自分」の内部に生まれるある種の「くやしさ」に発している。それが具体的な対象をもたないときは、自分に対する「嘆き」として表され、具体的な対象(たとえば日本)をもつとそれがうらみとして表され、相手 に激しく「恨」をぶつけることになっていく。・・・欧米でいう「弱者の反感」(ルサンチマン)と実によく似ているのだ。

この「ダメな自分」に対する「くやしさ」=恨が、古代からの半島侵略、日韓併合などの「朝鮮侵略史観」と結び付き反日となる、と言うのです。

そうして生きていくなかで恨を消していくことを、韓国人は一般に「恨をほぐす」と表現する。うらみにうらんだ末に恨がほぐれていくことは、大きな精神的な心地よさをもたらす。徹底して固まった恨だからこそ、それをほぐして未来へ行く希望がそれだけ強くくるのだ。逆にいえば、どこまでも恨を強く固めていき、うらみ続けていかなくてはならい。

 恨の前で、日韓併合によって米の生産や人口が倍増し、識字率が上がり、工業生産が6倍となって朝鮮の近代化が始まったと云う「植民地近代化論」は通用しないわけです。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:

ホタルブクロ 野草 [日記 (2022)]

1.jpg
 道端に咲いていました。長年当地(大阪南部)に住んでいますがこの花を見たのは初めて。調べてみるとホタルブクロ、蛍袋。子供が蛍を入れて遊んだとか、ずいぶん詩的な名前です。朝鮮半島や日本に自生する別に珍しい植物ではなさそうです。種と地下茎で増えるそうですから、秋になったら種を貰って庭に植えてみようかと思います。

タグ:絵日記 野草
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

呉善花 韓国「反日民族主義」の奈落 1⃣ (2021文春新書)  [日記 (2022)]

韓国「反日民族主義」の奈落 (文春新書 1308)
 ニュースを読んでいると、韓国という国は本当に「面白い」です →韓国をより良く理解するために、懲りずに呉善花氏の韓国論です。基本は『侮日論』の続編ですから「嫌韓」の感想文となり、閲覧ご注意です。全体は6章、

第1章:独善的な「正義」が生み出す嘘の数々
第2章:過激な反日を支える侮日の根深さ
第3章:なぜ「反日」が民族アイデンティティとなるか
第4章:奈落の底へ堕ちていく文在寅韓国
第5章:韓国が左翼独裁=全体主義国家になる日
第6章:北朝鮮を正統国家とする自虐史観

 第1章では、従軍慰安婦、徴用工、竹島などの「嘘」と、日韓併合を不法とする韓国の歴史捏造が暴かれ、第2章では反日の背景が解き明かされます。『侮日論』で展開された「華夷秩序(小中華主義)」「朝鮮侵略史観」です。第4章以下は現代韓国政治=文在寅政権への批判で、呉善花氏にしては珍しく舌鋒は鋭いです。面白いのは、反日こそが民族のアイデンティティだとする第3章。

「反日」は民族アイデンティティ
 著者は、韓国は「反日主義を大義として出発した国家」だと言います。韓国=李朝は長年中国の冊封下にあり、1905年に日本の保護となって1910年の日韓併合を経て1948年に独立します。自ら独立を果たしたのではなく、実態は日本の敗戦により独立がころがり込んだのです。
 独立はしたものの、韓国には国民をまとめるイデオロギー=ナショナリズムが存在しませ。そこで(李承晩が)目を付けたのが「反日」、

日本を「民族の敵」に仕立て上げ、反日民族主義を愛国主義の要として国内に普及させることだった。歴史の改竄・捏造はこの目的のために行なわれたのだ。

 国内をまとめる為に外に敵を作るのは政治の常套手段です(韓国の大統領は支持率が下がると反日に走ります。反日を全面的に政治基盤にしたのが文在寅)。ナショナリズムが無い(育たなかった)ので、伝統的な「侮日」「侵略史観」を「反日民族主義」(李栄薫の云う反日種族主義)として建国の大義としたわけです。憲法前文には、「(反日運動の)3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」と記されていますからソウなんでしょう。大韓民国臨時政府とは、朝鮮独立運動家が上海で作った政治組織ですが、連合国も枢軸国にも認められず、サンフランシスコ講和会議への参加もできなかった「任意団体」のようです。従って韓国が「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」によって建国されたというのは、嘘、よく言ってこじつけ。ちなみに、

韓国の社会には嘘つきを非難するよりも、「騙される方が悪」いう通念が抜きがたくある

そうです。「騙される方」とは、国民なのか、日本なのか?。このアイデンティティを持続させるために、教育の場において「反日」を教えこんでいるようです。
 続いて著者は、何故ナショナリズムが育たなかったのかを考察します。

「衛正斥邪」の鎖国政策
 日本が近代化=明治維新に踏みきった要因はペリーの来航です。朝鮮も、1865年のロシア船の来航を始めドイツ、フランス、アメリカの侵攻があり日本とは江華島事件(1875)によって日朝修好条規を結んでいます。外圧を前に、朝鮮にナショナリズムが芽生える筈ですが芽生えません。李朝は開国に向かわず「衛正斥邪」をスローガンに頑なな鎖国政策を取ります。

「衛正斥邪」とは「正を衛り邪を斥ける」の意で、正とは儒教(朱子学)、邪とはそれ以外のすべての宗教や思想をいう。日本の「尊皇攘夷」に相当するが、「衛正斥邪」の正と邪は、中華文明を正とし中華文明に従属しない民族を邪とすることをも意味する。 李朝特有の小中華主義から出たスローガンなのである。

長年染み付いた冊封体制の事大主義によって、民族主義の萌芽は潰されていた、というのです。

「郷約」による儒教化
 著者よると、ナショナリズムの発生を阻害したのは事大主義=儒教だと言います。李朝が儒教を取り入れた背景は2つあると言います。
 1つは安全保障上の理由です。独立を維持するために体制(中央集権の官僚国家体制)と文化(儒教)を宗主国=中国と同質化させたこと。

李朝は朝鮮半島全土にわたる「抑仏崇儒」(仏教を抑圧して儒教を崇める) 政策を強硬に推進していった。たとえば、朱子が著した『文公家礼』(儒教式の冠婚葬祭手引書)を政治・社会・家族にわたる制度として移植し、全国民規模で朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を徹底的に儒教式に改変していった。

もう1つが朝鮮固有の血縁集団間の紛争です。

李朝時代に入ると、古くは一地域にまとまって居住していた血縁で結びつく 親族集団が、しだいに各地に分散居住するようになっていた。そのため、各地で「血のつながっていない」 人々の間の抗争が激しくなり、それが支配層の悩みの種となっていった 。こうした状況が慢性化するに至って、 李朝は、単に王朝国家の身分制度をもってするだけでは、地域社会に安定した秩序を生み出すことができないと思い知ったのである。

秀吉の朝鮮侵攻において、李朝は各地で敗北を重ねますが、これは郷村間、宗族間での対立が激しく、連帯して秀吉軍に対抗できなかったためだと云います。これではダメだというので、李朝は「儒教化」を徹底し、イデオロギーによって血縁集団間に結束をもたらそうと考えます。そこで李朝が導入したのが中国の制度である《郷約、きょうやく》。

郷約は、農民が生活を展開する郷村社会に、儒教的な秩序を確立しようとする支配層儒者たちを中心とする組織である。郷約では、村人たちが守るべきり方などについて、儒教倫理に基づいて具体的かつ詳細に成文化し、これを人々が実行することによって人々の儒教的な教化が達成されるようになっている。

儒教のイデオローグを郷村に配置して、思想統制を図ったということでしょう。結果、祖先祭祀を軸に結束する親族集団「郷村」が全国各地につくり出されていったと云います。

韓国では儒教の徳目のなかで「孝」が最重要視されている。「孝」という徳目は、単なる父母尊重のモラルなのではなく、祖先以下の父系血縁一族の持続・繁栄のために守るべき、絶対的な「律」だともいえる。
「孝」は日常的な祖先祭祀をとおして、人々の内面に深く浸透していく。こうして朝鮮の親族集団は郷村社会に根づき、人々は「儒教的家族」を形づくっていったのである。

 ナショナリズムは、血縁、地縁を超えて人々が共同して国家・民族の独立統一を目指す近代思想です。「血の一体性」に支えられた血族集団が割拠する半島でナショナリズムが育たなかった要因が儒教だというわけです。

 李承晩は、ナショナリズムの代替として伝統的「反日」で国家の結束を図ったとすれば、金正日は主体(チュチェ)思想をナショナリズムの代替イデオロギーとしたのかも知れません。次は「第6章:北朝鮮を正統国家とする自虐史観」です。続きます

当blogの呉善花氏
スカートの風(1997角川文庫)
侮日論 (2014文藝春秋)
韓国を蝕む儒教の怨念 (小学館新書2019)
攘夷の韓国 開国の日本  (1996年文藝春秋)
韓国併合への道 完全版 (2012文春新書)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ: