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ゾルゲ 御前会議を盗む ① スパイ・ゾルゲの昭和(11) [日記 (2022)]

続きです。
 1941年6/22、ヒトラーは独ソ不可侵条約を破ってソ連へ攻め込みます。日独伊三国同盟を結ぶ日本の動向が気になるソ連は、ゾルゲに日本の動向を探るよう指令を出し、ゾルゲは尾崎秀実の情報基づき、日本の独ソ戦に参戦は無い云う情報を打電した、というのが前回までの話です。この情報に基づき、ソ連は極東軍を西部戦線に投入して独ソ戦に勝利するわけですが、それは1945年のこと。

 ゾルゲは1941年(昭和16年)に検挙され、訊問でゾルゲがこの情報の入手した経緯が明らかにされます。みすず書房『現代史資料 1』にはゾルゲの側から、『同2』には尾崎秀実の側から、この昭和史のドラマがリアルに描かれています。訊問が行われたのは昭和17年2月ですから、独ソ戦の帰趨は未だ決まっていません。

 日本が太平洋戦争に歩み出した1941年6/19~9/14、の動きをみると、
6/19:政府に於て対独対ソ方針(中立を維持)を決定
6/22:独ソ戦開始
6/23:陸海軍首脳部会議に於て日本ハ独ソ戦ニ参戦セズ、この頃尾崎は6/19の情報を得る(西園寺公一より)
6/25:尾崎6/23の情報をキャッチ(朝日新聞政治部長田中慎次郎より)
6/26:19、23日の情報を宮城経由でゾルゲに報告
7/2  :御前会議で南進を決定(情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱)
7/5頃:尾崎情報キャッチ、宮城経由でゾルゲに報告
7/7:関東軍特殊演習(関特演)動員令
7/10 :ゾルゲ、御前会議の内容をモスクワに打電、この頃オット大使は松岡外相から御前会議の情報を得る
7/13:関特演動員始まる
7/27:大本営政府連絡会議(世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱)
7/28:南部仏印への進駐開始
8/9  :大本営陸軍部と関東軍は年内の対ソ開戦の可能性を断念
8/20頃:尾崎情報をキャッチ
8/25頃:西園寺公一に確認
9/14:ゾルゲ、日本ハ独ソ戦ニ参戦セズと打電

 尾崎は、近衛文麿内閣の政策研究会「朝飯会」「昭和研究会」のメンバーですから、その人脈を通じて政府中枢の動きを把握しています。主な動きは6/19の対ソ方針(中立を維持)の決定、6/23の陸海軍首脳部会議(南北両面作戦)、7/2の御前会議です。
 尾崎は時を経ず情報をキャッチしてゾルゲに報告、ゾルゲはモスクワに打電しています。日本政府中枢の動きがリアルタイムでモスクワに伝わっていることになります。

以下ゾルゲの調書から。
 6/22独ソ戦が始まり6/23ドイツ大使オットは松岡外相を訪ね日本の出方を探ります。7/2に御前会議が開かれ、オットは1週間後に松岡から会議の内容を聞きます。

第一は日本は北方に対しては軍備を拡充して近隣からボルシェヴヰズムを放逐する為凡ゆる準備をなすこと、

第二は日本は南方に対しては積極的進出を継続すること。でありました。
 然かもオット大使は之等の決議事項中の第一の点を最も重要視し之をば日本は北方即ち満州に軍備を充実して近隣即ち、シベリヤから共産主義を放逐する為凡ゆる準備、即ち軍事上の動員を実施することであると解釈し此の動員は取りも直さず対ソ戦の開始であると考へ、第二の点には余り重点を置かず日本の対ソ戦参加は必至であると判断して居たのであります。(『現代史資料1』p275)

 本国から日本政府に独ソ戦に参戦する工作を訓令されたオットは、希望的観測をしたわけです。
 一方の尾崎の情報は、

 尾崎自身は寧ろ前述の第二の点に該当する部分に重点を置いて居り御前会議の内容に関する情報としては尾崎の報告の方が正確を得て居りました。
 即ち私としては此の御前会議に依って日本は北方に対しては準備丈けをして積極的に対ソ攻撃は遣らず、寧ろ北方の安全を期すると云ふ措置を講じ南方即ち仏印方面に対しては積極的な軍事行動を開始すると云ふことに決定されたと云ふ印象を受けて居りました。
 斯様な次第で私は此の御前会議の内容に関する情報としては、オット大使から聴取した分と尾崎から報告を受けた分とを共にモスコウ中央部にラジオで通報致しましたが、之には特に尾崎からの報告が情報として正確であると云ふ注意を附加して置いたのであります。(『現代史資料1』)

 外交ルート通じてカウンターパートから得る情報と、政府中枢に食い込んだ尾崎から得る情報の差です。

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映画 コーダ あいのうた(2021米加仏) [日記 (2022)]

コーダ あいのうた [DVD]原題、COAD。COADとは、聴覚障害者(ろう者)を親に持つ健常者の子供を意味するそうです。両親が「ろう者」で本人が健常者であれば手話と音声言語のバイリンガルです。幼い頃から両親の通訳を務め、両親が社会と関わるために無くてはならない存在だったのです。『コーダ あいのうた』は、17歳になったCOADルビー(エミリア・ジョーンズ)が、自身の人生と両親の二者択一を迫られるという話です。COADという存在を、深刻ぶるのではなく、17歳の高校生の青春としてサラッと描いている辺りが、この映画の良さです。

 『クワイエット・プレイス』は、音に反応するエイリアンを登場させエイリアンと戦う聴覚障害者(ろう者)の少女の話でした。女優ミリセント・シモンズが活躍しますが、『コーダ』でもヒロイン・ルビーの家族を演じるトロイ・コッツァーとマーリー・マトリンは聴覚障害者で、ダニエル・デュラントはCODAです。また『ゲーム・オブ・スローンズ』では小人症のピーター・ディンクレイジを主人公の一人として起用しています。映画のテーマまた俳優においても、障害を多様性のひとつとして尊重する、場合によっては障害者が健常者を越えるというのが、ハリウッドの昨今の流れのようです。

 映画です。ルビー一家は両親と兄がろう者。漁師の父親と兄を助けてルビーも船に乗る高校生という設定です。ルビーが高校の選択科目で合唱を選び、指導教師はルビーのに歌の才能を見出だし、バークリー音楽大学入学を勧めます、これが条件①。
 資源保護のため、政府は漁船1隻当たりの漁獲量に制限を設け調査に乗り出します。ルビーが乗船していない時に調査員がフランクの船に乗り込み、聴覚障害者が操船していたために操業禁止となります、これが条件②。

 ビリーは家族のために大学進学を諦め、両親はビリーを大学進学を勧め、この矛盾を解決するのが「歌」。ろう者の両親はビリーの歌を聴くことは出来ませんがビリーの歌声が深く関わってきます。ハイライトはバークリー音楽大学の入学試験。ビリーは客席に座る両親のために、手話を交えて歌います。見事合格し、入学のために家族と別れ家を出ます。映画は去ってゆくビリーと見送る家族のシーンで終わりますが、本当のドラマはここからです、描かれませんが。

 アカデミー賞、作品賞、脚色賞、助演男優賞(トロイ・コッツァー)受賞。

監督:シアン・ヘダー
出演:エミリア・ジョーンズ、エウヘニオ・デルベス、トロイ・コッツァー、マーリー・マトリン

タグ:映画
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ゾルゲの給与、押収物件 スパイ・ゾルゲの昭和 (10) [日記 (2022)]

帝劇.jpg 写真器材.jpg
 諜報活動の舞台帝劇          押収物

 政治の話だけでは面白くないので、スパイの経済事情の話です。

資金(『現代史資料 1』p78)
 ゾルゲ諜報団の資金関係です。内務省警保局の算定では、活動費は月3,000円程度です。1940年4月~12月迄の9ヶ月で1ヶ月間資金支出概算によると、

 ・ゾルゲ:給料150円~2000円
 ・クラウゼン:給料600円~800円家、賃175円、特別手当80円~290円
 ・ヴーケリッチ:給料60円~200円、特別手当100円~430円
 ・エディット(ヴーケリッチの元妻):給料40~450円、特別手当0~430円
 ・分団員医療費:250~815円
 ・写真竝無電機械附属代:0~218円 合計5,733円~1,4605円

 ソ連大使館から活動費を受け取った時に必要に応じて渡していた為か、給与に巾があります。上限でみるとゾルゲ2,000円、クラウゼン800円、ヴーケリッチ200円、エディット450円。ゾルゲは尾崎に活動費として月100~150円程度払っていたようです(2-p118)。尾崎の収入は、内閣参与、満鉄嘱託等で月千円程度。

 ゾルゲはフランクフルター・ツァイシングの特派員、ヴーケリッチはハバス通信特派員、クラウゼンは蛍光複写版製造のM・クラウゼン商会の経営者として、偽装を兼ねて職業を持っています。M・クラウゼン商会はけっこう盛況で陸軍の仕事も請け負っていたようで、諜報団の資金源ともなっていたようです。当時の大卒の初任給を月80円、総理大臣の月給与が800円、勤労者の平均年収が750円程度とするなら、彼らは相当高額の給与を得ていたことになります。ちなみに、永井荷風が昭和11年に買ったドイツ製ローライコードⅠというカメラは104円、蕎麦が13銭という時代です。ゾルゲが石井花子を口説くために足繁くドイツクラブ・ラインゴールドに通うには、十分な給与でしょうw(後には生活の面倒もみている)。

余談
 永井荷風の『断腸亭日乗』(昭和11年の項)には玉ノ井の話として「一時間五円を出せば女は客と共に入浴すると云う。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、一寸(ちょん)の間は壱円より弐円までなり」(『永井荷風の昭和』p115)。荷風さんの新聞連載小説の原稿料は、1回70円です。余談ですw。

 活動費の送達方法は、当初はモスクワより米国の銀行経由で香港、上海等の在京諸銀行(三井、三菱、 正金)の個人口座に振り込まれてたやようです。日本の外国為替管理の強化に伴ひ昭和15年頃からは、クラウゼンが無電によって連絡を取り、帝劇等の劇場で報告書のマイクロフィルムと交換にソ連大使館員から現金でドルや円を直接受け取っています。例えば昭和15年4/15には、宝塚劇場で米ドルで2,000ドル、日本円で2,500円を受け取っています(1-33)。逮捕時押収物件に、ゾルゲは1,000円、1782ドル(当時の為替レートで約8,000円)、クラウゼンは1782ドル(約7600円)の現金があります。

月額参千円程度にては、本諜報団の如き有力広汎なる組織としては少額に過ぎるが如く認めらるるも、彼等一味の活動は何れも共産主義に基く蘇聯邦防衛の信念に出づるものにして、各団員が月々支給せらる資金は諜報活動の報酬に非ずして生活保証を立前となし居りたるものなり。

と調書にはあります。宮城の給与は不明ですが、宮城は多くの日本人協力者を抱え彼らの調査費も必要、上海や香港に「出張」もあり、料亭やレストランで会合を持ちますから相応の活動費は必要だったはずです。
 ゾルゲ諜報団の会計担当はクラウゼンで、半年~1年毎に計算書を作成してゾルゲに提出し、マイクロフィルムに撮ってモスクワに報告しています。
ライカ.jpg ロボット.jpg
 ライカ                 ロボット
重要押収物件
(1) ゾルゲ自宅
写真器三台(ライカ1台、ロボット2台) 、
・接写機、接写具各一組、レンズ(望遠レンズを含む) 三個、現象用具、焦点器、距離計、露出計、 フイルム、乾板三脚等写真用具一揃(以上は諜報資料を縮写し蘇聯邦(ソ連)本部に報告の為め携帯に便ならしむるに使用す)
・タイプライター一台 (諜報報告の為め使用す)
・ラヂオ兼蓄音器(国際放送聴取)、英文情報並びに英文図解七枚(宮城、尾崎より提供したるもの
・手帳十六冊(同志との連絡並資金関係等を記載したるもの)
・邦貨紙幣壱千円
・黒革札入在中米弗紙幣 壱千七百八十二弗 (諜報団の資金)
・ナチス党員手帳、身分証明書等(自己の偽装用に使用す)
・発信暗号の原稿(英文) タイプせるもの二枚クラウゼンをして打電せんとしたるもの
・独逸統計年鑑(一九三五年版、1935年版)二冊(暗号作成の為の乱数表として当時一九三五年版を使用中なりしもの)

(2) クラウゼン宅
・短波無電発信器一台
・短波無電受信機一台 
・黒皮バンド付靴内にありたる短波無電発受信機附属品、予備品一揃
・発信受信暗号記載便箋二冊 
・発信暗号の原稿(英文)(計100-100枚)
・米国紙幣800弗(諜報活動資金) (以上は厳重施錠したる衣類入大型トランクの底より発見す)
・独逸統計年鑑(1934年版、1935年版1936年版)三冊 
・日記帳10冊(同志との連絡竝資金計算等記入)
・マックス・クラウゼン商会会計簿等七冊(偽装の為め資金を諜報団より支出し経営す)
・タイプライター一台

(3) ヴーケリッチ宅
・写真機二台
・接写機一台
・レンズ(高速度望遠レンズを含む) 四個
・フィルム、乾板等写真用具一式 (以上は諜報資料急速蒐集竝携帯を便ならしむる為の縮写に使用す
・独逸統計年鑑(1935年版)
・日記帳五冊(同志との連絡竝諜報蒐集先を記載す)
・電気蓄音器ボックス1個(ベルンハルトが短波無電器を其の中に備へ付け使用したるものなるが無電器は後に取り外しクラウゼンと共に山中湖に赴き投棄したるものなり

 諜報団の無線担当クラウゼン宅から短波無機械電、写真担当のヴーケリッチ宅から写真機材が出てくるのは当然ですが、ゾルゲの押収物にも、カメラ(ライカ1台、ロボット2台) 、接写機、レンズ、現象用具、焦点器、距離計、露出計と写真機材が充実しています。写真はヴーケリッチ担当ですが、ゾルゲも現像していたようです。ゾルゲはダットサン17型とツエンダップのオートバイも所有していますが、これはリストには載っていません。

 ゾルゲ、クラウゼン、ヴーケリッチとも、諜報活動を記した手帳が押収されていますが、これは不用意。ゾルゲ宅で尾崎、宮城の3人が集まって資料の分析などをしています。外国紙特派員の家に、内閣嘱託と画家が集まるのですから、特高から目を付けられて当然。ゾルゲは捕まるとは考えていなかったのでしょうね。

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東京発 ラムゼイ ③  日本ハ独ソ戦ニ参戦セズ スパイ・ゾルゲの昭和(9) [日記 (2022)]

諜報組織図.jpg
日本ハ独ソ戦に参戦セズ
 ゾルゲが逮捕された時に押収されたメモがあります。

一、日本政府および軍部の高官はドイツのソ連攻撃に関する確報を得て、一九四一年六月一九日に会議を開きドイツおよびソ連に対する日本の政策を決定した。 日本政府は独伊との三国同盟条約を守るとともにソ連との中立条約を厳守し、しこうして中立を維持すべきことを決定した。・・・

二、六月二三日に日本政府は陸海軍の首脳部会議および首相、外相、陸相、海相の会議を開いた。陸海軍首脳部会議において決定された事項は次の如くである。
軍部は将来の国際情勢の変展に応じ南北一体作戦を採るべく決定した。 (『現代史資料 24』ゾルゲ事件 四)

このメモは、宮城与徳が尾崎秀実から聞いて6/24、25ごろ作成しゾルゲに報告したものだそうです。(NHK取材班 『国際スパイ ゾルゲの真実』 p181)

 同書によると、(一)は6/22~23頃近衛内閣嘱託・西園寺公一から、(二)は6/23~25頃朝日新聞の政治部・長田中慎次郎から尾崎が聞いたものです。大本営政府連絡会議の中身がそっくりゾルゲに漏洩していたわけです。

御前会議前における尾崎の時局観察は、近衛首相とその周辺の軍人以外の閣僚たちは、ソ連との戦争を欲していない、また海軍部内でもこの戦争を望んでいない 。ただ陸軍部内には、この戦争に参加しようとの強い傾向が看取されるが、その態勢は形勢観望に傾いており、文官閣僚中独り松岡外相だけが、自ら締結した日ソ中立条約を破棄しても良いと考えている唯一の人物であるとのことでありました。『現代史資料 1』p287)

 尾崎の調書(現代史資料2)によると、(一)の6/19の情報は6/23~25頃満鉄東京支社に於いて西園寺公一(内閣参与)から得たもの、(二)の6/23の情報は同時期にこれも満鉄東京支社で田中慎次郎(朝日新聞政治経済部長)から得たものです。この情報は、6/26に宮城を通じてゾルゲに報告されています。7/2の「御前会議」の情報も、7/4~5頃に満鉄東京支社の尾崎の部屋で西園寺公一から聞きゾルゲに報告されています。
 この情報を元に、ゾルゲは7/10にモスクワに打電します。

東京 1941年7月10日
インベスト筋(尾崎)によると、御前会議にて対サイゴン (インドシナ)の軍事行動計画は変更しないことが決定された。これと同時に赤軍壊滅の場合には、対ソビエトの軍事行動を準備することも決定された。・・・インソン(『国際スパイ ゾルゲの真実』巻末資料)インソンとはゾルゲのコードネーム

 『国際スパイ ゾルゲの真実』よると7/10のこの電報が日本が独ソ戦に参戦しない第一報であると言います。政府の安全保障に関わる機密情報が、西園寺→尾崎→ゾルゲ→モスクワと筒抜けになっているわけです。

関東軍特種演習
 ゾルゲたちは、御前会議で決定した対ソ戦の準備である満州への兵力大動員(関東軍特種演習、いわゆる「関特演」)に注視します。これこそがソ連に対する直接的な脅威だからです。

 尾崎は8/20過ぎに、「関東軍では対ソ戦をやらないことに決定」し中央と話しあうために代表を東京に派遣したという情報を満鉄関係者から聞き込み、西園寺公一に確認を取っています(8/25~26)。

私は其の後間もなくの頃、ゾルゲの自宅に於てゾルゲに対し、其の関東軍代表が上京、中央の軍首脳部と協議した結果、日本は対ソ戦を開始しないことに決した。と云ふことを骨子とする、(取り調べで)只今申述べました様な満鉄関係及、西園寺公一より入手した情報を報告致しました。(『現代史資料2』)

 ゾルゲは、尾崎、宮城とドイツ大使オットの情報に基づき、日本の脅威が去ったことをモスクワに打電します。

東京 1941年9月14日
オット大使の意見によると、日本の対ソビエト攻撃は、今ではもはや問題外であり、日本が攻撃可能なのは、ソビエトが極東から軍隊を大規模に移動させる場合だけだろうとのことである。
さまざまな社会層で、大規模な動員の責任に関して、および国に大きな経済上と政治上の困難を疑いもなくもたらす巨大な関東軍を維持する理由に関して、激しい論争が始まった。・・・インソン(『国際スパイ ゾルゲの真実』巻末資料)

 日本が独ソ戦に介入しないことを知ったソ連は、極東軍を西部戦線に投入し独ソ戦の勝利につなげてゆきます。ゾルゲはこの功績により、死後20年後の1964年に「ソ連邦英雄」となります。1961年に『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』という映画が作れています。プーチン大統領はこの映画を観てゾルゲに憧れてKGBに入ったそうです。

ここまでの「スパイ・ゾルゲの昭和」
 (4)東京発 ラムゼイ① 三国同盟
 (5) 東京発 ラムゼイ② バルバロッサ作戦
 (9)東京発 ラムゼイ ③ 日本ハ独ソ戦ニ参戦セズ...このページ

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東京宛 ラムゼイへ 日本の対ソ戦略を探れ スパイ・ゾルゲの昭和(8) [日記 (2022)]

ゾルゲ 引裂かれたスパイ〈上〉 (新潮文庫)
日本の対ソ戦略を探れ
 ドイツ軍の侵攻で苦境に陥いったソ連は、ドイツと三国同盟を結ぶ日本の動向に神経を尖らせています。日本に背後を突かれればひとたまりもありません。モスクワから2通の電報がゾルゲ宛に発信されます。

東京宛
1941年6月23日
東京駐在武官グシェンコ ラムゼイ
ドイツの対ソビエト戦争に関わる日本政府の立場についての情報を報告せよ。
部長 (director)

東京宛 インソン(ラムゼイ) 同志へ
1941年6月26日
英語の翻訳:ソビエトとドイツとの戦争に関して、我々の国について日本政府がどんな決定をとったか報告せよ。 わが国境への軍隊の移動について報告せよ。
翻訳
第四部第一課課長
A・ロゴフ
(NHK取材班 国際スパイ ゾルゲの真実 巻末資料)

南か北か? 「情勢ノ推移伴ウ帝国国策要綱」
 泥沼の日中戦争に陥った当時、日本国内では進むべき道として三つが論議されています。

1)北進:日ソ中立条約より三国同盟を優先させ、この機に乗じてソビエトを叩いて極東ソ連を占領するという考え方。
2)南進:独ソ戦でソ連の脅威が減少した機会に軍を南に進め、南部仏印(フランス領インドシナ)、マレー半島、オランダ領インドシナに進出して、石油など資源を確保しようという考え方。すでに日本軍は、援蔣(介石)ルート遮断を理由に北部仏印にまで進駐している。
3)南北一体作戦:当面は戦争に介入せず事態を静観し、北に対しても南に対しても備えるという考え方。具体的には、満州での兵力増強と南部仏印進駐という南北両面作戦を想定。

 6/19日に陸軍は「情勢ノ推移ニ伴ウ国防国策要綱」の陸軍原案をまとめます。その内容は、①南北両面で戦略準備態勢を取り、②情勢の推移により好機が訪れた場合には対ソ参戦するというものです。海軍も、南方進出の準備はするが、独ソ戦には介入しせず、ソビエトに対する兵力増強にも反対するというもの。この両者の調整がつかないまま、22日に独ソ戦が開始されます。

 6/23日には陸海軍の軍務局長と作戦部長の会議が開かれ、南進の態勢を崩さないことを条件に海軍側が妥協し、南北両面に「準備陣」を張り、好機が到来した場合のみ独ソ戦に参戦するという内容の陸軍案に意見の一致をみます。翌24日、「情勢ノ推移伴ウ帝国国策要綱」の陸海軍原案が成立し、「大本栄政府連絡会議」を経て7/2の御前会議に諮られます。

 軍事は、陸海軍の統帥部で原案が成立すると、統帥部と政府との間で会議が開かれます。これが大本営政府連絡会議で、軍事と内政・外交の意見調整・統一が図られます。重要な国策決定となると、さらに、天皇臨席の御前会議に諮られます。大本営政府連絡会議で意見の一致をみているので、御前会議は権威付けの形式的なもので、天皇は討議を聞くだけで、いっさい発言はありません(沈黙する天皇)。「情勢ノ推移伴ウ帝国国策要綱」の陸海軍原案は、六月二五日から七月一日まで6/25~7/1まで大本営政府連絡会議で討議され、7/2の御前会議で最終決定されます。

 ドイツは、日本の国論を対ソ参戦に持ってゆくため、駐日大使オットを通じて外相・松岡洋右に圧力をかけます。松岡が対ソ戦を主張したため大本栄政府連絡会議はモメますが、結局、《南北一体作戦》の準備と、好機を捕捉した場合のみの対ソ参戦を内容とする原案(3)が可決されます。

この一週間こそ、太平洋戦争に直接つながる最初の重大決定がなされた運命の一週間であり、ゾルゲたち諜報員もこの一週間のなりゆきに最大細心の注意をはらっていたのである。(『国際スパイ』p176)

 モスクワの指令でゾルゲ諜報団が動きだします。ゾルゲはどのように、この「1週間」を探り出したのか?。

ここまでの「スパイ・ゾルゲの昭和」

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ゾルゲの暗号 スパイ・ゾルゲの昭和(7) [日記 (2022)]

sorge 1941tokyo.jpg クラウゼン.jpg
 ゾルゲ 1940東京        マックス・クラウゼン

 スパイの通信ですから当然暗号が用いられます。1930年代にどんな暗号がつかわれたのかを、垣間見ることができます。ゾルゲの報告書を暗号に置き換えるのもクラウゼンの仕事です。ネタ元はみすず書房『現代史資料1』。

1) 呼出符号(P88)
 クラウゼンは当時アマチュア無線で使われていた7.9MHzの周波数を使い、中華民国のアマチュア無線に偽装してモスクワに情報を送っています。特定されることを避けるため、送信の度にコールサインを変えています。

*東京側
:AC+数字1文字+アルファベット2文字、ACは中華民国のアマチュア無線局を表し、AC以外はその都度変更。Losangeles(ロサンゼルス)という単語と送信日の日付を使います。例えば12月20日の呼出符号は、日付の合計に2を加え、12+20+2=34、の「4」を使い、Losangelesの前と後ろから4番目の文字をコールサインに使います。
 LOSANGELED
 1234     4321= AC4AE
ウラジオストック側:XU+数字1文字+アルファベット2文字で、数字は12月20日の場合は、
 12+20=32
 SANFRANZISCO
 12        21
を使用し、XU2ACとなります。XUも中華民国のアマチュア無線局を表します。
これで東京側もウラジオストック側も間違わずに相手を識別できるわけです。

2) 通信方式(P89)
 通信は方式は、モールス符号を使い、通常の《Q符号》やアマチュア無線の慣用符号を用いて通信を確立します。例えばVVV AC4AE AC4AE QRK? HR MSGS PSE K は、

VVV(テスト信号)、AC4AE、QRK?(こちらの符号は了解できますか?)、HR(Hereこちらには)MSGS(メッセージあり)、PSE K(受信に入ります)

となり、一旦通信が確立した後は、アルファベットを暗号化した5桁の数字で、ゾルゲの報告が本文として送信されます。

3) 連絡日時の打合
 定時の交信ではなく、交信の都度次回の連絡日時を決めています。連絡日時の暗号化には
『Morgenstunde hat gold im Munde.』(ドイツの諺「朝起きは三文の徳」)が使われ、のMorgenstunde hat gold imを7文字に区切りいう独語が使われます。

 月 火 水 木 金 土 日
 M  O  R  G  E   N  S morgens
 T  U  N   D   E   H  A tundeha
 T  G  O   L  D   I  M tgoldim

月曜はMTT、火曜日はOUG・・・。予定日と予定時刻(グリニッチ標準時)の数を加へ、曜日三文字の次に配列、例えば16日火曜日(OUG)15時は、16+15=31 →OUG31となります。

4)本文の暗号化(p93)
 本文の暗号化は、アルファベットを数字に置き換える「サイファー式換字暗号」が使われています。使用頻度の高いアルファベットを1桁の数字、その他を2桁の数字で表す方法です。A=5、B=87、C=80、D=83、E=3...。Japanは”84 5 85 5 7”となります。

例えば
Japan will soon declare war on USSR は、

Japan(84 585 5 7)will(91193 93)soon(0227)declare(83 3 8093543)war(9154)on(27)USSR(27 8200 4 90)となるわけです。

 通信本文の最初にはにDal(Dal は極東の意。 その他 organizer, Uirectorの場合もある)が、終りには「ゾルゲ」のコードネームRamsay(4 5 96 0 5 97) 又はInson(1702 7)が付加されます。
 サイファー式だけでは解読されるため、《乱数表》として1935版『ドイツ統計年鑑』が用いられます。

 最初通信文を作成し、これを数字暗号化し、さらにその各数字に対して此の統計年鑑の任意の頁の数字を加算します。「任意の頁の数字」も本文に組み込まれ、さら2段3段の迷彩を施して暗号文が作成されます。数字の羅列は、5桁毎に区切りの記号《R》が入ります。『現代史資料1』にサンプルがありますが、暗号化と送信は結構大変な作業だったと思われます。
 暗号.jpg 
Ramsay. Try to find out dislocations of
106 109 110 114 and 116 divs (divisions)
at present. Wire me results. Dai 12297

5)方向探知に関する認識
 クラウゼンは、官憲による探知を避けるために、無線機をトランクに詰め都内数カ所を転々と移動して通信しています。ゾルゲの自家車(国産のダットサン17型)を使って都内を移動していたのでしょう。クラウゼンは、探知対策として

 1)送信場所の移動
 2)長時間の通信を避けること
 3)周波数の変更
を挙げています。ゾルゲの通信は傍受されてはいますが、対策が奏効したのか送信場所の探知はされていません。
クラウゼンの自供による通信回数と送信語数は、
 昭和14年(1939)60回、23,139語
 昭和15年(1940)60回、29,179語
 昭和16年(1941)21回、13,103語
これを平均すると1回当たり464語。1分間に100文字(20WPM)とするなら、1回当たり要する時間は5分。
 暗号化と通信はクラウゼンの担当で、クラウゼンの苦労がしのばれます。1941年の後半には、ゾルゲの指示する通信を適当に間引いていたというのも分かります。スパイも楽ではないw。

 当時ドイツ軍は「エニグマ」という暗号作成機を使っています。軍とスパイの違いはありますが、ゾルゲたちの「暗号戦」が如何に原始的であったのかが分かります。何しろ「手作り」ですから。

4.jpg 映画「スパイ ゾルゲ
PDVD_005.jpg PDVD_002.jpg
エニグマとイギリスの暗号解読機bombe(映画「エニグマ」)

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ゾルゲの無線機 スパイ・ゾルゲの昭和(6) [日記 (2022)]

1.jpg 写真1.jpg
 ラジオを改造した受信機      上が送信機、ガソリンパイプのコイルが見える

 ゾルゲが、三国同盟とバルバロッサ作戦の情報を無線でモスクワに送信した、というのが前回までの話。今回はその際に使った無線機と通信の話です。ネタ元は『現代史資料 1 ゾルゲ事件1』(1962みすず書房)。

 アナログ時代ですから、東京→モスクワに情報を送るには、ウラジオストックを中継する無線通信となります。乱数表を使って平文を暗号に変換し、モールス符号を使って送るわけです。無線機も現地日本で部品を調達して組み立てます。木造の二階家に銅線を張り巡らせてアンテナとし、警察や逓信省の電波探索をかい潜るために頻繁に送信場所を替えるなど涙ぐましい努力がなされます。スパイ・ゾルゲの面白さは、このアナログの面白さだともいえます。

 1935年12月に赤軍情報部の無線技師マックス・クラウゼンが来日し、1936年2月に無線機が完成して後はゾルゲの報告は電報とマイクロフィルムの報告書の2段構えとなります。報告書はクラウゼンの妻アンナが伝書使として上海経由でモスクワに送っていたようです。伝書使を使った報告書は時間がかかるため、ゾルゲの報告は電報がメインとなります。電報は暗号化された英語、報告書はゾルゲの母国語ドイツ語です。

 クラウゼンが使っていた無線機は、部品を市中で買って自ら組み立てたものです。当時、ラジオの契約数は1931年の100万が1940年には500万と急速に普及し(半藤一利『太平洋戦争への道』)、無線機を組み立てる部品は容易に入手できたでしょう。送信用真空管(クラウゼンが入国の際持ち込んだ)以外は総て国産品を用い送信機用「コイル」は自動車用の銅製「ガソリンパイプ」を使ったと云います。(p86~87)
送信機.jpg ux210rca.jpg
【送信機】             RCA製真空管UX210
 A5版の「ベークライト」板の上に、真空管、コイルを「着脱容易なる如く装着し携行に便なる如くせり」。 RCA製真空管UX210以外は国産の部品を使っています。クラウゼンよると、UX210を2本使って出力20Wほど。この送信機を使うと、昼間1500km、夜間4000kmの通信が可能であり、空中状態の良好な日没前後午後4時~7時頃に通信を行っていた様です。
【受信機】
 当時の標準的な3球ラジオの受信周波数を短波帯に改造し、ラジオ用としては中級のものに属するも短波受信用としては鋭敏なる感度を有す」。ウラジオストックの送信は大電力ですから、3球ラジオでも十分に受信できたでしょう。
 無線機の制作費用は150円だそうです。昭和12年に永井荷風が買った高級カメラ・ローライフレックスが310円、当時の勤労世帯の月収が125円日程度ですから、現在の貨幣価値では十数万円ほど?。
周波数
 送信周波数は7.7~8.1MHz(テスト終了後は7.9MHz)。7.9MHzは当時のアマチュア無線の運用周波数で、アマチュア無線に偽装したとクラウゼンは証言しています。受信周波数は6.25~6.67MHzで、6MH帯は現在でも短波放送で使われていますから、四季を通じて安定して受信でき、且つ放送帯ですから目立ち難いと考えたのでしょう
。アマチュア無線、短波放送帯の電波を使っても、5桁の数字が延々と発信されますから、「怪電波」であることには違いありません。いずれも日本や中国では傍受され、一部は解読されています。
 アンテナは、人目を避けるために、木造家屋の2階の室内に7m程の銅線を張り巡らしたものを使ったようです。
アンテナ.jpg olddatsun2.jpg
クラウゼン宅に於ける設置状況      ダットサン17型
 この無線機をトランクに詰め、逆探知を避けるため都内数カ所を転々と移動して通信しています。電源は重いのでそれぞれの移動先に置き、ゾルゲの自家車(国産のダットサン17型)を使って都内を移動していたのでしょう。クラウゼンは、探知対策として1)送信場所の移動、2)長時間の通信を避けること、3)周波数の変更を挙げています。ゾルゲの通信は傍受されてはいますが、対策が奏効したのか送信場所の探知はされていません。

 無線機は昭和11年2月に完成し、試験運用を開始します。探知を恐れ、グンテル・シュタイン(麻布区本村町)、クラウゼン(麻布区新竜土町)、ヴーケリッチ(牛込区左内町二二番地)、クラウゼン(麻布区広尾町)、エディット(目黒区上目黒)など転々と移動しています。何れも木造二階建です。クラウゼンの自供によると、

 昭和14年(1939)60回、23,139語→ノモンハン事件、第二次世界大戦勃発
 昭和15年(1940)60回、29,179語→三国同盟
 昭和16年(1941)21回、13,103語→独ソ戦、国策要綱、ゾルゲ逮捕(10月)

ひと月に5回程度の送信回数です。・・・次は暗号の話です。

《ここまでのゾルゲ》
スパイ・ゾルゲの昭和 (1)   ゾルゲ諜報団 
スパイ・ゾルゲの昭和 (2)   魔都・上海のゾルゲ 
スパイ・ゾルゲの昭和 (3)  諜報団 東京ニ集結ス! 
スパイ・ゾルゲの昭和 (4)  東京発 ラムゼイ① 三国同盟
スパイ・ゾルゲの昭和 (5)   東京発 ラムゼイ② バルバロッサ作戦
スパイ・ゾルゲの昭和 (6)   ゾルゲの無線機・・・このページ
スパイ・ゾルゲの昭和 (7) ゾルゲの暗号 東京宛 ラムゼイへ
スパイ・ゾルゲの昭和( 8) 日本の対ソ戦略を探れ
スパイ・ゾルゲの昭和(10) ゾルゲの給与、押収物件
スパイ・ゾルゲの昭和(11) ゾルゲ 御前会議を盗む 

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司馬遼太郎 故郷忘じがたく候(1976文春文庫) [日記 (2022)]

新装版 故郷忘じがたく候 (文春文庫)
1.jpg
           苗代川
 「
日本に連れ去られた朝鮮陶工の子孫、15代沈寿官さんが424年ぶり韓国で墓参り」(朝鮮日報)というタイトルの記事があり、久々に司馬遼太郎が沈壽官について書いた『故郷忘じがたく候を読みました。小説というより、『街道をゆく』系列の歴史随筆です。

 司馬さんが1968年頃に会ったのは、記事の沈壽官さんのお父さん第14代沈壽官氏です。15代沈壽官さんの墓参りが何故424年ぶりだったかと云うと、沈壽官さんの先祖が秀吉の朝鮮侵攻の際日本に拉致されたからです。
 慶長2年(1597)8月の南原城の攻防で、沈壽官氏の先祖を含む70人ほどの韓人が島津軍の捕虜となり鹿児島に連れて来られます。戦国時代には茶道が流行り渡来物の茶器が珍重されていた時代ですから、島津氏はこの茶器を鹿児島で焼くために陶工を連れて来たのです。秀吉の朝鮮侵攻で動員のかかった島津義弘は、最初から陶工拉致を目論んでいたのでしょう。
 鹿児島に着いた韓人達は、故郷の南原に似た苗代川(
東市来町美山)に住み着いたといいます。
 江戸天明期の医師・橘南谿が苗代川を訪ねた際のエピソードが披露されます。
 
薩州鹿児島城下より七里西の方、ノシロコ(苗代川)といふ所は、一郷みな高麗人なり。(中略)朝鮮の風俗そのままにして、衣服言語もみな朝鮮人にて、日を追ふて繁茂し、数百家となれり。
・・・「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候」と言い、
故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。と、老人は語りおさめた。
 
と、南谿も共感した様子が語られます。で、連れてこられた韓人の話に戻ります。島津藩の役人が城下に住めと云うと韓人は応ぜず、理由を糺すと
 
―アノ丘ヲ御覧ゼヨ。丘ノ名ハ、山侍楽ノ丘ト申ス。(韓語のためカタカナ、芸が細かいw)
かれらの言うのに、その山侍楽という丘にのぼればわれわれがやってきた東シナ海がみえる、その海の水路はるかかなたに朝鮮の山河が横たわっている、われわれは天運なく朝鮮の先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすれば遙かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができるであろう、かれらは涙をうかべつついうのである。
 
 島津義弘は、彼らを「朝鮮筋目の者」として士分に取り立て、苗代川に土地と屋敷を与え陶磁器を焼かせます、薩摩焼の始まりです。幕末、薩摩藩は苗代川村に白磁工場を作り、十二代沈寿官に命じコーヒー茶碗、洋食器を製造し、長崎経由で輸出して巨利を得たといいます。薩摩藩は1867年のパリ万博に出展し、十二代沈寿官の白薩摩を出品し、1973年のウィーン万博でも薩摩焼は好評を博したようです。
 
 第14代沈壽官氏が幻の「黒薩摩」を甦らせた話、朝鮮の神祝歌オノソリ(韓国では潰え苗代川だけに伝承されている)、1967年に韓国を訪れ大統領の朴正煕と会った話が続き、圧巻?は沈壽官氏が学生に向けた講演の話です。韓国に来て、36年間の日本の圧制(日韓併合)について何度も聞いた。もっともな話だが、もう後ろ向きなこと言うな、
 
あなた方が三十六年をいうなら、私は三百七十年をいわねばならない。
 
 拉致されて370年日本で暮らした沈壽官氏の歴史の重みに聴衆は圧倒されたことでしょう。聴衆の間からは『 黄色いシャツ着た男』の大合唱が起こったそうです。
 
 司馬遼太郎は、『韓のくに紀行』で古代~中世の日韓をこんなイメージで捉えています、
 
「おまえ、どこからきた」と、見知らぬ男にきく。
「カラからきたよ」と、その男は答える。こういう問答が、九州あたりのいたるところ行われたであろう。
 
朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏、文化圏にあったというイメージです。最悪と言われる昨今の日韓関係について、司馬さんの意見を聞いてみたいものです。

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東京発 ラムゼイ ② バルバロッサ作戦 スパイ・ゾルゲの昭和 (5) [日記 (2022)]

国際スパイ ゾルゲの真実  ネタ元はNHK取材班『国際スパイ ゾルゲの真実』(1992角川)。
 ゾルゲは、1940年から何度もドイツの「バルバロッサ作戦」を警告し、1941年3月には、ソ連侵攻は6/20(実際は6/22)と日付まで報告しています。ところがスターリンはこれ取り上げず、ドイツ軍の侵攻を許してしまいます。

 ゾルゲがバルバロッサ作戦の情報をどの様にキャッチし、報告し、報告がどう取り扱われたかは、ゾルゲの電報がリアルに物語っています。(長いですが全文引用)

【電文】
六日後には赤軍参謀本部諜報部第九部第四課に返却すること
暗号解読電報 116433、16435 極秘 コピー禁止
発信 東京より1940年12月29日11:37
受信第九部 1940年12月29日15:20

翻訳
赤軍参謀本部諜報部長宛
東京 1940年12月28日
ドイツから来日した軍人はみな、ソビエトの政策に影響を与える目的で、ドイツはルーマニアを含めた東部国境に約八○個師団を配備していると話している。もしソビエトが、ドイツの利益に反する行動に積極的に出れば、ドイツはすでにバルト諸国で行われたように、ハリコフ、モスクワ、レニングラードの線にそって領土を占領することができよう。
ドイツはこれを望むわけでないが、もしソビエトの行動によりそうせざるをえないときには、この手段に訴えるであろう。ドイツは、ソビエトがこのような危険を冒しえないことをよく知っている。というのは、ソビエトの指導者たちは、とくにフィンランド戦争後、赤軍がドイツのような近代軍になるには最低二〇年かかることをよく知っているからである。多の人々の話から、モスクワのコザリン将軍も同じ意見だし、何回もソビエトに来たことのあるドイツの新しい東京の駐在武官の意見でもあるということだ。東京の新任駐在武官は、私に八〇個師団という数字は、いくらか誇張されているようだと述べた。

no.138,139 ラムゼイ
暗号解読、マリンコフ 1940年12月29日17:30
翻訳、ソーニン少佐 12月30日14:00

六部印刷 12月30日15:20
1宛先人、2パンフィーロフ 、3ドゥビーニン、4スターリン、5モロトフ (『国際スパイ ゾルゲの真実』1992角川 所収)

 NHK取材班がロシアで発見したゾルゲの電文です。1940年12月28日にラムゼイ(ゾルゲのコードネーム)から赤軍参謀本部諜報部長宛に発信された電報は、翌29日に翻訳され、スターリンやモロトフにも回覧されています。 情報源が「ドイツから来日した軍人」であるところから、ドイツ大使館から得た情報あり、「東部国境に約八○個師団を配備」され、事あればハリコフ、モスクワ、レニングラードまで侵攻されると警告しています。

【電文】
東京 1941年5月2日
私は、ドイツ大使オットおよび海軍武官と独ソ間の相互関係について話し合った。オットは、ヒトラーがソビエトを粉砕し、ドイツが全ヨーロッパを掌握するため、ソビエトのヨーロッパ部を穀物、原料基地として、自分の手におく決意に満ちていると述べた。
第一の日付は、ソビエトにおける播種の終了時である。 播種終了後に対ソビエト戦争をいつでも始めることができるので、ドイツのすべきことは、収穫するだけである。
・・・いつでも戦争が勃発する可能性はきわめて高い。なぜならヒトラーと彼の将軍たちは、対ソ戦は、対イギリス交戦をいささかも妨げないと確信しているからである。ドイツの将軍たちは、赤軍の戦闘能力を、赤軍を数週間で壊滅できると考えるほど、低く評価している。  ラムゼイ

【電文】
東京 1941年5月30日
ベルリンは、オット大使に、ドイツの対ソビエト攻撃は六月後半に開始されると伝えてきた。オットは、九五パーセントの確率で戦争は開始されると確信している。この件について現在私が見ている間接的な証拠は、下記のとおりである。私の都市にあるドイツ空軍の技術部は、至急帰国せよとの指令を受けた。云々  ラムゼイ

【電文】
東京 1941年6月1日
独ソ戦の開始がおよそ六月一五日という予想は、五月六日ベルリンからバンコックに出発したショル中佐がベルリンから携えてきた情報にもっぱら基づいている。   ラムゼイ

 『国際スパイ ゾルゲの真実』によると、この電報には「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」とのソビエト側の書き込みがあり、クラウゼンが受信したモスクワの返信は、「貴下の情報の信頼性を疑う」だったそです。

 ゾルゲの警告は何故無視されたのか?。一つは、スターリンがスパイの報告には誇張があると考えていたことです。ゾルゲは赤軍情報部のスパイであるとは云え、元は国際共産主義組織コミンテルンに所属するドイツ人であり(1924年にソビエト国籍を得ていますが)、モスクワ指導部に不信感をもたれていたことも理由のひとつです。ゾルゲの情報の的確さが、逆にドイツの二重スパイであるという疑惑も持たれていたようです。
 もうひとつが、チャーチルがドイツが戦争をしかけるという情報をスターリンに伝えていたこと。ドイツがソビエトと戦うことはイギリスにとって好都合なため、スターリンはこうしたイギリスからの報告をドイツとソビエトを離反させる謀略と考え、ドイツの攻撃はないという判断をしていたのです。
 アイノ・クーシネンによると、バルバロッサ作戦の情報に接したスターリンは、ゾルゲを「日本のちっぽけな工場や女郎屋で情報を仕入れているクソッタレ野郎」と、こき下ろしたということです(モルガン・スポルテス『ゾルゲ 破滅のフーガ』)。

 次は、ゾルゲが「三国同盟」「バルバロッサ作戦」の情報を送った無線機の話です。

スパイ・ゾルゲの昭和 (1) ゾルゲ諜報団 
スパイ・ゾルゲの昭和 (2) 魔都・上海のゾルゲ 
スパイ・ゾルゲの昭和 (3)諜報団 東京ニ集結ス! 
スパイ・ゾルゲの昭和 (4)東京発 ラムゼイ① 三国同盟
スパイ・ゾルゲの昭和 (5) 東京発 ラムゼイ② バルバロッサ作戦・・・このページ

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2022 カボチャ [日記 (2022)]

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 6/3に発芽したカボチャ、花が咲きました。実がなるかな?

タグ:絵日記
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