SSブログ

司馬遼太郎 韓のくに紀行 [日記(2019)]

街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)  『街道をゆく』の(2)です。どういう目的で韓国に行くのかと問われて、

まあ古いころ、それも飛びきり古い昔々にですね、たとえば日本とか朝鮮とかいった国名もなにもないほど古いころに、朝鮮地域の人間も日本地域の人間も互いに一つだったとその頃は思っていたでしょうね。言葉も方言の違い程度の違いあるにしても、大声で喋りあうと通じたでしょう。そういう大昔の気分を

味わってみたいというのが、作者の目的です。この気分は、

「おまえ、どこからきた」
と、見知らぬ男にきく。
「カラからきたよ」
と、その男は答える。こういう問答が、九州あたりのいたるところ行われたであろう。カラとは具体的には駕洛国をさし...

朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏、文化圏にあったというイメージです。

 高校の頃(それこそン十年前)、5~6世紀の頃、釜山の近く任那に大和政権の朝鮮統治のための出先機関「任那日本府」があったと習いました。皇国史観と言われそうですが、面白いのは、考古学に政治が持ち込まれること。日本の勢力が朝鮮南部に及んでいたという説と、いや朝鮮の勢力だ、”安羅”が倭人官僚を迎え入れた実質的には安羅の外務官署であり、「安羅倭臣館」と呼ぶべきだ、という説などがあります。

 そもそも国家が成立していない時代の出来事を、21世紀に国家を背負って云々すると、「日本府」だ「倭臣館」だと綱引きするきとになります。それに比べると、司馬遼さんのイメージは詩的で説得力があります。
 「好太王碑」で明らかですが、大和政権は朝鮮北部で高句麗軍と戦っていますから、南の任那に出張所があってもおかしくはないわけです。この好太王碑の碑文も、明治期に日本軍が書き換えたという「学説」まであるそうです。秀吉の朝鮮侵攻、日韓併合の恨みは深いです。

 中国、朝鮮にあって古くは、日本人は「倭」と呼ばれます。魏志倭人伝の倭です。小さい奴という意味でどちらかというと蔑称でしょう。作者は韓国に行ってこの倭を考えます。

 高句麗、新羅、百済の朝鮮は、中国(宋)同様に儒教を規範とする国です。半島という立地上、中国から侵略を恐れ儒教で国を染めます。同じ文明を持てば、同族とは言わないまでも侵略から逃れる可能性が増すと考えたのでしょう。朝鮮は、中国から「東方礼儀ノ国」と呼ばれるまでになります。

儒教国家というものは自然のままの人間というもの認めない。人間は秩序原理(儒教、礼)でもって飼い馴らしてはじめて人間になる。

 これに当てはまらない日本人は礼を知らない野蛮人=倭ということになります。司馬さんは、倭という人種は、背が矮さい、ハダカでいる、フンドシ一本で太刀を背負って肩肘を張っている、というイメージではあるまいか、と想像しますが、これ「倭寇」です。このイメージを、もろ肌脱いでドスを片手に討ち入るヤクザ映画ヒーロー(健さん)と重ね合わせます(笑。

 作者は、金海、慶州佛國寺、慕夏堂、扶余と、伽耶、新羅、百済の地を訪れ、歌垣に出会い「怒れるツングース」(これ面白い!)を経験し、お得意の「余談」に次ぐ余談が続くわけです。
 日韓関係がきな臭い昨今、読んで間違いのない一冊だと思います。

タグ:朝鮮・韓国
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。