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司馬遼太郎 故郷忘じがたく候(1976文春文庫) [日記 (2022)]

新装版 故郷忘じがたく候 (文春文庫)
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           苗代川
 「
日本に連れ去られた朝鮮陶工の子孫、15代沈寿官さんが424年ぶり韓国で墓参り」(朝鮮日報)というタイトルの記事があり、久々に司馬遼太郎が沈壽官について書いた『故郷忘じがたく候を読みました。小説というより、『街道をゆく』系列の歴史随筆です。

 司馬さんが1968年頃に会ったのは、記事の沈壽官さんのお父さん第14代沈壽官氏です。15代沈壽官さんの墓参りが何故424年ぶりだったかと云うと、沈壽官さんの先祖が秀吉の朝鮮侵攻の際日本に拉致されたからです。
 慶長2年(1597)8月の南原城の攻防で、沈壽官氏の先祖を含む70人ほどの韓人が島津軍の捕虜となり鹿児島に連れて来られます。戦国時代には茶道が流行り渡来物の茶器が珍重されていた時代ですから、島津氏はこの茶器を鹿児島で焼くために陶工を連れて来たのです。秀吉の朝鮮侵攻で動員のかかった島津義弘は、最初から陶工拉致を目論んでいたのでしょう。
 鹿児島に着いた韓人達は、故郷の南原に似た苗代川(
東市来町美山)に住み着いたといいます。
 江戸天明期の医師・橘南谿が苗代川を訪ねた際のエピソードが披露されます。
 
薩州鹿児島城下より七里西の方、ノシロコ(苗代川)といふ所は、一郷みな高麗人なり。(中略)朝鮮の風俗そのままにして、衣服言語もみな朝鮮人にて、日を追ふて繁茂し、数百家となれり。
・・・「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候」と言い、
故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。と、老人は語りおさめた。
 
と、南谿も共感した様子が語られます。で、連れてこられた韓人の話に戻ります。島津藩の役人が城下に住めと云うと韓人は応ぜず、理由を糺すと
 
―アノ丘ヲ御覧ゼヨ。丘ノ名ハ、山侍楽ノ丘ト申ス。(韓語のためカタカナ、芸が細かいw)
かれらの言うのに、その山侍楽という丘にのぼればわれわれがやってきた東シナ海がみえる、その海の水路はるかかなたに朝鮮の山河が横たわっている、われわれは天運なく朝鮮の先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすれば遙かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができるであろう、かれらは涙をうかべつついうのである。
 
 島津義弘は、彼らを「朝鮮筋目の者」として士分に取り立て、苗代川に土地と屋敷を与え陶磁器を焼かせます、薩摩焼の始まりです。幕末、薩摩藩は苗代川村に白磁工場を作り、十二代沈寿官に命じコーヒー茶碗、洋食器を製造し、長崎経由で輸出して巨利を得たといいます。薩摩藩は1867年のパリ万博に出展し、十二代沈寿官の白薩摩を出品し、1973年のウィーン万博でも薩摩焼は好評を博したようです。
 
 第14代沈壽官氏が幻の「黒薩摩」を甦らせた話、朝鮮の神祝歌オノソリ(韓国では潰え苗代川だけに伝承されている)、1967年に韓国を訪れ大統領の朴正煕と会った話が続き、圧巻?は沈壽官氏が学生に向けた講演の話です。韓国に来て、36年間の日本の圧制(日韓併合)について何度も聞いた。もっともな話だが、もう後ろ向きなこと言うな、
 
あなた方が三十六年をいうなら、私は三百七十年をいわねばならない。
 
 拉致されて370年日本で暮らした沈壽官氏の歴史の重みに聴衆は圧倒されたことでしょう。聴衆の間からは『 黄色いシャツ着た男』の大合唱が起こったそうです。
 
 司馬遼太郎は、『韓のくに紀行』で古代~中世の日韓をこんなイメージで捉えています、
 
「おまえ、どこからきた」と、見知らぬ男にきく。
「カラからきたよ」と、その男は答える。こういう問答が、九州あたりのいたるところ行われたであろう。
 
朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏、文化圏にあったというイメージです。最悪と言われる昨今の日韓関係について、司馬さんの意見を聞いてみたいものです。

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