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半藤、加藤、保阪 大平洋戦争への道 日米交渉、南進論 ④ 1931-1941(NHK出版) [日記 (2022)]

太平洋戦争への道 1931-1941 (NHK出版新書 659, 659)続きです。
日米交渉
 1941年4/16日、日米の戦争回避を目的にアメリカ大使・野村吉三郎駐と国務長官・コーデル・ハルの間で米交渉が開始されます。日本はアメリカの中国支援の放棄、満州国の承認を求め、アメリカは日本の中国及び仏印からの撤兵を求めます。

陸軍はアメリカに、少なくとも中国に対する肩入れを何とかやめてほしいと考えていました。それによって、日中戦争を早く終結させたいというのが、陸軍の思惑だったと思います。 
海軍の場合は、もう三国同盟を結んでしまった以上、アメリカといずれ対決することになると、ある程度は決意していたと思います。ただ、戦争準備が十分整うまでは、できるだけ開戦を延ばしてほしい。そして、できることなら戦争そのものもしないでほしいと。(半藤)

 アメリカは蒋介石を支援しています。泥沼化した日中戦争を終わらせるため、仲介をアメリカに期待します。もうひとつが石油。日本は石油の輸入をアメリカに頼っていますから、事を構えれば石油が入って来なくなる。南部仏印に出なければ、もし戦争が起こったときに備蓄している石油だけでは間に合わない・・・要するに、日本が南に出て行かなければ、いざというときに間に合わない。

・・・そこで御前会議を行い、その前には陸海軍も会議を開き、何度もこの議論をしています。南部仏印に出て行かなければ間に合わない。出て行けば戦争になる。戦争になると間に合わないから先に出て行ったほうがいいと。それなのに、変な話ですけれども、アメリカは出てこないと思うという意見が通ってしまうんです。(保阪)

 (南進論の)プロセスを見ると、戦略がないまま、その場その場の選択が狭まっていくのがわかります。そして、その決定にいたる理由というのは、ほとんどが主観的願望であって、それを客観的事実にすりかえようとするのですが、実際には、むしろ事実と結果は逆に出てくるわけです。(保阪)

 日米交渉の最中、日本軍は7/21、ヴィシー政権(ナチスの傀儡)了解の下に南部仏印に進駐します(日本はフランス政府の許可を取っているから、侵略とは思っていなかった)。これに反発したアメリカは、7/25在米日本資産を凍結し8/1日本への石油輸出禁止に踏み切ります。
 アメリカ世論は、参戦に反対であり、ルーズベルトは、戦争不介入=モンロー主義を掲げて選挙に当選し大統領ですから、イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参戦すること出来ません。参戦するには、日本に一発叩かせてアメリカ世論を怒らせ、そしてヨーロッパ戦線に加わりたいというのが本音。日本はドイツと三国同盟を結んでいますから、日本と戦端をひらけばそのままドイツと交戦状態になります。大手を振って第二次世界大戦に参戦できるわけです。

アメリカがこういう強い態度(米日本資産を凍結、日本への石油輸出禁止)で出てきた背後には、やはり日米交渉の妥結を望まないという意図があったと思います。日本を開戦に追い込む。そしてヨーロッパ戦線に参加する。(保阪)

アメリカは暗号解読によって真珠湾奇襲を知りながら、手を打たなかった話は有名ですが、外交において日本を戦争に引きずり込む行為が「ハル・ノート」だといいます。ハル・ノートは、
 ・仏印および中国からの全面撤兵
 ・蒋介石政権の承認(汪兆銘政権の否認)
 ・日独伊三国同盟の放棄
の3点を日本に要求します。

アメリカの目的は、日本にアメリカを一発叩かせることだった。したがって、最終的にハル・ノートを突き付けることで、開戦に踏み切るか、あるいは基本的な政策転換をしてハル・ノートを受け入れるか、そのどちらかを選べと日本に迫り、日本は躊躇なく戦いを選んだ。 
・・・そうして、十一月二十六日以後の大本営政府連絡会議、御前会議などの国策決定会議は、もう戦争は動かしがたいという前提で動いていきます。 会議関連の資料を全部読むと、言葉は乱暴ですが、ハル・ノートという、大きなアメリカがつくってきた土俵、罠と言ってもいいですが、歴史的なある種の戦略に、日本は見事なほど嵌り、その枠でしかものを考えられず、戦争を選択していったというふうに私は思いますね。(保阪)
 そして「大本営陸海軍部、発表。 十二月八日六時。 帝国陸海軍は、 本八日未明、西太平洋において、米英
軍と戦闘状態に入れり」となります。この項お終い。


タグ:読書 昭和史
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