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橋爪大三郎、大澤真幸 ふしぎなキリスト教 [日記(2016)]

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
 社会学者の大澤真幸と橋爪大三郎のプロの学者による対談ですから、素人はついて行くだけでも大変。以下ひとりよがりの感想です。

 昔むかしあるところに、七人家族が暮らしていました。「戦後日本」と、表札が出ていました。かぞくは両親と、五人きょうだい。「日本国憲法」「民主主義」「市場経済」「科学技術」「文化芸術」という名の、いい子たちでした。
 でもある日、五人とも、養子だったことがわかります。「キリスト教」という、よその家から貰われて来たのです。
 そうか、どうりでときどき、自分でもおかしいなと思うことがあったんだ。そこできょうだいは相談して「キリスト教」家をほうもんすることにしました。本当の親に会って、自分たちがどうやって生まれたのか、育てられたか、教えてもらおう。忘れてしまった自分たちのルーツがわかったら、もっとしっかりできるような気がする...。(P344,あとがき)

という本です(笑。
 戦後民主主義教育の下で育ったので、日本国憲法に違和感はないし、市場経済の中で働いて、科学技術の恩恵を受けて暮らし、文化芸術を愛好して来ました。別に「キリスト教」家を訪ねなくてもいいのですが、対談だから読みやすいだろう、「新書大賞」受賞だし...。
 社会学者の大澤真幸がこれも社会学者で宗教社会学に詳しい(クリスチャンでもある)橋爪大三郎にキリスト教について聞くという対談です。先の『一神教vs.多神教』も対談でしたから、信仰にかかわる話はざっくばらんな対談の方が本音が出る、ということなのかも知れません。

第一部 一神教を理解する -期限としてのユダヤ教
第二部 イエス・キリストとは何か
第三部 いかに「西洋」をつくったか

の三部構成です。

識を駆使した対談を聞いても、素人はなかなか付いてゆけませんでした(笑。
【ユダヤ教の成立】
 キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教から出発した一神教です。多神教が圧倒的に多いなか、何故一神教が生まれたか?。ユダヤ教の生まれたイスラエルの地には、もともと多くの神々がいたらしい。ところが、ユダヤ人の王国(イスラエル王国、ユダ王国)が近隣の強国に滅ぼされ、民族そのものが絶滅の危機に会うわけです(バビロン捕囚)。アッシリアやバビロニアとの戦争のなかで、被抑圧民族ユダヤ人の信仰はヤハウェという戦争の神に収斂してゆきます(マックス・ヴェーバー→誓約共同体)。さらにヤハウェが万能の唯一神Godに進化します。

血縁的あったり、地縁的であったりする、小さくシンプルな原初的な共同体が、自然と共生関係にあるあるようなときには、呪術や多神教が自然発生的に出てきます。しかし、異民族が侵入してきたり、多民族の帝国であろうとしたときには、こういう呪術や多神教の自然崇拝や特殊な習俗ではやっていけない。そこで、民族や部族を超えて妥当性をもつような普遍宗教・世界宗教が出て来る。(p97)

ということになるのでしょうか。

【キリスト教の成立】
彼(イエス)についてほぼ確実なことは、ナザレで生まれた。父親は大工のヨセフで、母親はマリア。兄弟がいた。自分も大工だった。地元のシナゴーグに通い、旧約聖書をよく勉強した。・・・結婚もしていただろうが、よくわからない。三十歳前後にナザレを出て、洗礼者ヨハネの教団に加わった。そのあと、何人かを連れて教団を離れ、独自の活動を始めた。ガラリヤ地方や、パレスチナの各地を訪れて説教をし、預言者のように行動した。あちこちで、パリサイ派やサドカイ派とトラブルを起こした。その後で、エルサレムに行って、逮捕され、裁判を受け、死刑になった。(p150)

というのが史的イエス像(ナザレのイエス)です。神を冒涜した罪で磔刑となるわけですそのイエスが何故キリスト(救世主)となったのか?。
 ローマ総督は、イエスを処刑したくなかった。イエス助けるためにバラバを処刑するかイエスを処刑するかユダヤの民衆に問うわけです。民衆の答えはイエスの処刑で、彼はそれほど嫌われていた。イエスを救世主、神の子と崇める信者があり、このままでは、律法を守ることで民族として成り立っているユダヤが崩壊しかねない、とユダヤの主流派は危機感を持ったわけです。逆にいうと、イエスのセクトはユダヤ社会で力を持っていたことになります。
 ユダヤ教は様々な律法を持ち、ユダヤ社会はその律法を守ることで成り立っています。イエスの時代、厳格な律法を守れない人々が増え、ユダヤ民族のタガが緩んできた時代だったんでしょう。この律法の体系をイエスが「愛」の概念で内部から突き崩した。

パリサイ派の学者がやってきて、質問した。「イエスさん、あなたは律法に詳しいが、あんなにたくさんあるモーセの律法で大事なのはどれでしょう」。イエスは答えて、「第一は、心をこめて、あなたの主である神を愛しなさい(申命記)。第二は、あなたの隣人を貴方自身のように愛しなさい(レビ記)。律法はこの二つに尽きている」とのべた。たくさんあった律法が、たった二条になってしまった。しかも、両方とも愛なのです。p197)

 当時のパレスチナは、ローマ帝国の支配を受ける属州で、政治的にはローマ帝国が支配し、宗教的にはユダヤ教の最高法院が支配する二重の支配構造だったようです。最高法院(サンヘドリン)はユダヤ教の律法に基いてユダヤ人を裁く権限を持っています。最高法院が律法を否定して愛を説くイエスを犯罪者として裁き、ローマ帝国が刑を執行したいうのが、”ナザレのイエスの磔刑”だったようです。
 イエスを処刑することで、一旦は保守派が勝利します。宗派のセクトの争いで見れば、磔刑で死んだイエスの復活というのは、イエスのセクトの復活の寓意ともとれます(そんなことは書かれていませんが)。神との契約=律法を神との愛に置き換えたことで、イエスのキリスト教は世界宗教へと変貌を遂げたわけです。割礼を脱することによって宗教として普遍化した、と理解すれば分からなくもないですが...。誰だって、堅苦しい律法より愛の方が断然いいです、この程度の理解です(笑。

【西洋の成立】
《科学》
 ガリレオが地動説を唱えて宗教裁判にかけられたように、科学と宗教は対立するものと考えていましたが、科学はキリスト教(プロテスタンティズム)を母体として生まれてきたというのが本書の主張です(けっこう定説らしい)。神が作った世界(自然)を探求することは神を理解することであり、何らキリスト教と矛盾することではなく、むしろ神に近づくことだというのです。
 では何故プロテスタンティズムから近代科学が生まれたのか?。宗教改革は、免罪符から生まれたように(と高校教科書には書いてある)、教会というキリスト教の夾雑物を排除してイエスの教えである聖書に戻れという改革なわけです。つまり、個人がひとりひとり神と直接関係を結ぶということです。で聖書はというと、福音書が四つもあって相互に異なりけっこう杜撰?。じゃぁ神の創造物たる世界を徹底的に突き詰めていけば神に近づけるのではないかと自然(社会)科学が生まれた。短絡的すぎますねぇ。

《資本主義》
 キリスト教と資本主義といえば、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』となります(学校で習ったけど理解できなかった)。カルヴァン「予定説」の話です。予定説によると、最期の審判の日キリスト教徒が天国にゆくか地獄(みたいなところ)にゆくかは、予め神によって決定されており、これを知ることも出来ないし覆すことも出来ないという説です。
 決まってるんだったら、何もこの世であくせすすることもなかろうと人間は堕落する筈です。ときろがそうはならなかった、プロテスタントは勤勉に働いたのです、何故か。皆が皆自堕落な生活を送るかというと、なかには(パンのために?)勤勉に働く人もいるわけです。

もしも勤勉に働いている人がいたら、それは神の恩寵によってそうなっているのです。勤勉に働くことは、神の命じた、隣人愛の実践である。この状況で、勤勉なことは、神の恩寵のあらわれです。となると、自分が神の恩寵を受けていることを確信したければ、毎日勤勉に働くしかない。(p302)

勤勉に働くことが、神の命じた隣人愛の実践であり、恩寵なのかよく分かりませんが...。

《利子》
 (ユダヤ教、キリスト教が否定した)利子は、ヴェニスの商人の時代まで、抵抗が強くて、金融ビジネスなど成り立たなかったんですけど、東インド会社などが設立されるようになって、投資に利益を配分するシステムが生まれた。大きな船を造って外国に送り、貿易をして、利潤が上がったら出資者が分配するのです。造船には巨額の資金がいるから、出資者がグループをつくる。利益を分配してよいなら、期待利得を利子として約束する、商業銀行の成立までほんの一歩。(p306)

これもユダヤ教の律法を否定したキリスト教が、なし崩し的に倫理や戒律を自分たちの都合のよいように変えてしまった、そういうことなのかも知れません。

 ということで、学者センセイの高度な知

タグ:読書
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