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梶山季之 朝鮮小説集  ② 川村湊解説編 (インパクト出版2002) [日記 (2020)]

李朝残影―梶山季之朝鮮小説集  『梶山季之 朝鮮小説集』には、の文芸評論家で法政大学国際文化学部教授の川村湊の長い解説があります。

 『族譜』は創氏改名を推進する朝鮮総督府と、これを拒む地方の名家・薛鎮英の間で悩む役人・谷の物語です。『族譜』 には1952年5月に発行された『広島文学』版、1956年の『新早稲田文学』版、大幅に加筆された1961年『文學界』版(最終稿)の3つがあるそうです。本書には資料として『広島文学』版が収録され、『梶山季之「朝鮮小説」の世界』に『広島文学』版(仮に初稿と呼びます)と『文學界』版(仮に最終稿と呼びます)を比較した論考がにあります。

 初稿と最終稿は、ストーリーはほぼ同じですが、最終稿には主人公・谷と薛鎮英の娘玉順の「恋(片想い)」が書き加えられていると言います。そして、『族譜』は恋愛小説だと言います。

 京畿道庁は薛鎮英を創氏改名させるためあの手この手を使い、最後には娘・玉順の婚約者を思想犯の名目で捕らえて圧力をかけます。谷は、賄賂を使えば薛鎮英は創氏改名を逃れられると考えますが、自分が賄賂を要求しているようで言い出せません。

いい機会だ。あのことを彼女に話すべきだ。課長に賄賂を使って、工作すれば、或いは助かるかも知れないということを!〉 僕は、なんどもなんども、そう心に囁いた。・・・そのことを話すのは、苦痛だった。僕が賄賂を欲しがっているように、思われるのが嫌なのだ。

と告白します。評者(川村)によると、この告白は不正直なもので、或る一つのことを隠しているといいます。それは、賄賂を使えば、あるいは、薛鎮英の創氏改名も逃れられ、玉順の婚約者が思想犯の無実の罪で憲兵に捕まることもなかったかもしれません。玉順に恋した谷は、婚約者が捕まって軍隊に入れられ玉順の婚約が壊れることを望んでいたから、賄賂を持ち出さなかったのだ評者は推理します。谷の告白は「信頼できない語り手」ということになります。


玉順の婚約者のに対して、「僕」は「彼を助ける」あるいは「彼が助かる」ことを、本当には望んでいないということを自覚することが嫌なだけなのだ。

 しかし、この告白は、谷が初めて薛鎮英を訪問した時の告白であり、玉順の婚約者が捕まるのは、京畿道知事の説得が失敗した後です。谷は、婚約者の逮捕を知って、「賄賂による決着」の助言をしなかったことを後ろめたく感じますが、憲兵隊が乗り出した以上もはや賄賂を使っても釈放は絶望的だと考えています。賄賂を言わなかったことは「未必の故意」だったかも知れませんが、川村説には無理があります。

 薛鎮英は、薛家を取るか(創氏改名を拒否する)、婚約者を取るか(創氏改名すれば婚約者釈放される)、決定を娘の玉順に預けます。「孝」が価値基準の大きな部分を占める朝鮮で、玉順の選択は決まっています。婚約者は軍隊に送られ婚約は解消されます。

「僕」と辟玉順との出会いから、その最後の破局に至るまでの経緯は、むしろ恋愛小説といってもよいものだ。しかし、この小説のなかでは日本人青年と朝鮮人の少女との恋愛は「禁忌」となっている(それは、もっとミもフタもなくいってしまえば「性欲」の隠蔽である)。なぜなら、それは主題である日本の植民地支配下の朝鮮人の悲劇(薛鎮英の悲劇)と、うまく両立するはずのないものだからだ。「僕」は玉順を「女性」として愛する(恋する)ことができない。しかし、無意識的には「僕」は、玉順の婚約者である金田北萬が、恋のライヴァルとしては消えてしまうことを望んでいるといわざるをえないのである。

 評者はどうあっても、宗主国・日本人の男と植民地・朝鮮の女の関係を恋愛、しかも性愛に持って行きたいようです。

薛鎮英が酔って歌う朝鮮民謡を聴くシーンでの谷の心情です。

「父さま、可哀想です」
だが、しかし、どうして朝鮮の民謡はこのやうにもの悲しい響きを奏でるのであらうか。秋の夜がしつぽりと夜露をちらしはじめるに似て、梶(最終稿では谷)の心は侘しくその哀調に閉ざされてゆくのである。そしてぼつかりと空虚な塊りが彼の体の内部に存在しはじめたのを、別な遠い感覚が意識してゐる…(初稿)

朝鮮の民謡はどうしてこんな、悲しい響きに満ちているのであろう。この侘しい旋律は、この民族の運命を象徴しているのかも知れぬ。……そんなことを、考えるともなく考えているうちに、僕の心は譬えようもない湿った愁いに占領されて行った。《お父さまを苦しめないで下さい。父さま、可哀想です。》その湿った愁いの塊りはみるみる容積をまし、僕を背徳の意識に虐みはじめた ...。(最終稿)

 初稿では朝鮮民謡の歌が、ぼつかりと空虚な塊りが彼の体の内部に存在しはじめたのですが、最終稿では、『父さま、可哀想です』という玉順のつぶやきが、湿った愁いの塊りとなって僕を虐めます。つまり、この時に谷の玉順への傾斜が始まっていたわけです。「背徳の意識」とは、薛鎮英に創氏改名を迫る、それは朝鮮民族からアイデンティである氏を奪う、僕の後ろめたさと読めますが、父親に無理難題を迫りながら、その娘に好意を寄せる裏切りとも読めます。谷は、玉順に対する恋情を一言も述べていませんが、最終稿の改編を見ると、確かに恋愛小説と読めそうです。

 谷は辞表を叩きつけて、その三ヶ月後に出征します。小説の最後は、「憎いでしょう。僕を恨んでください」と玉順に言い、出征の列車の中で「<これでいいのだ>と思っていた。なにも悲しくはなかった。どこか贖罪にも似た、寧ろ晴々とした気持ちすらあった。」と締めくくります。評者は、出征という「贖罪」によって一件落着させるのは欺瞞であると言います、

これは谷六郎という主人公(語り手)の精神內の決着であって、そこに歴史的、民族的、文化的な解決や清算は、まだ済んでいないことは明白なのである。

 「何処かで聞いた」文言です。評者によると『族譜』は、宗主国・日本人の男と植民地・朝鮮のおんなの(成就しなかった)恋愛=性愛の小説であり、男が出征することで朝鮮侵略の歴史的清算を回避した贖罪の小説ということになります。
 梶山季之は、異国の女性を描くことにによって小説にロマンティシズムを持ち込みたかったに過ぎない、そのロマンティシズムの裏に「植民地主義」があるというのは、評者の「朝鮮侵略の歴史的、民族的、文化的な解決や清算が済んでいない」という「史観」にあるのではなかろうか、と考えます。
 川村湊は1980年代に韓国の大学で教師をしています。したがって、日韓の歴史についての基本的な知識はある筈ですが、川村は「日韓併合」は日帝による朝鮮の植民地化だったと考えていたことになります。

 続いて『李朝残影』と『性欲のある風景』。
 『李朝残影』は、日本人の画家・野口が妓生・英順に恋し、日本人であるが故にフラれる顛末を扱った小説です。

(野口と英順の関係は)男女の対称的な性欲に基づいた「恋愛」ではなく、保護者と被保護者、加害者と被害者、描く者(画家)と描かれる者(妓生)という非対称的な関係のあるものであり、そこでは自由で、平等互恵的な恋愛は成り立たないからである。妓生とその客との間に、恋愛が成り立つはずがない。それは金銭が介在し、一方的な権力関係が強固に存在しているからだ。

 英順は妓生であり金をもらって絵のモデルとなりますから、男女の対称的な性欲に基づいた恋愛ではないという指摘のとおりです。英順は、野口の父親が朝鮮独立運動の弾圧で彼女の父親を殺したことしたことを知り、対称的な性欲に基づいた「恋愛」どころか、野口が手も握らない間にフラれます。おまけに、野口が英順を描いた「李朝残影」は朝鮮総督府主催の展覧会で入賞しますが、題に「李朝」の文字が入っていたため憲兵隊に題名の変更を迫られ、これを拒否した野口は「民族主義者」として虐待されます。

妓生である金英順は、政治的な権力関係が、容易に男女の恋愛関係や性的な関係に透視され、暗喩されてしまうコロニアリズム(植民地主義)やオリエンタリズムの紋切り型の主人公として簡単に還元されてしまうかもしれない。「李朝残影」という小說は、そうした植民地小説としての弱点を、その内部に持っていた。

野口良吉は、「族譜」の谷六郎のように、日本という帝国主義的国家(=父)に最終的に屈服し、処罰されることによって、植民地人への同情(贖罪感)を貫こうとするのである。しかし、それが単なる自己満足めいた、独りよがりの「植民地人」への片想いであるとの批判を完全に払拭することはできないのだ。

 野口は、奴隷の主人が奴隷の女に近づくように「植民地主義」の強権を背景に朝鮮の女性近づき、日本という帝国主義的国家(=父)を持つ故に失恋した、というわけです。一理はありますが、『李朝残影』の原型である『霓のなか』では恋愛は成立しています。評者は、植民地主義=帝国主義に囚われすぎているのではないかと思います。『李朝残影』は日本人の父の息子であることを否認しようとした「日本人=侵略者(コロン)の息子の物語」として読まれるべきものだろうというのです。そうした単純な断定を許さないのが小説(文学)の面白いところでしょう。


性欲のある風景
 1945年8月15日に、朝鮮京城で15歳の少年が牛の交尾を見て欲情する話です。

「性欲」はそうした文脈では征服欲や支配欲のメタファーであって、「性欲のある風景」は、植民地の朝鮮において「性欲」を満たすことのできない日本人少年を描くことによって、一面では被植民者としての朝鮮人と宗主国人の日本人の、ねじれた、屈折した関
を浮かび上がらせようとしたのである。しかし、その「性欲」は、対象となる異性を持たなかった。「性欲のある風景」、そして「族譜」は、そうした「性欲」(恋愛といってもよい)の対象を持たない(持たせない)ことによって書かれた「植民地小説」であり、その主人公たちが「僕」や「梶」として、いわば作者の梶山季之の「私小説」であるかのように擬装したのは、田中明のいう「個人的な事情」、まさに「私小説」的な「父と子」の関係に由来するものであるように思える。

 『性欲のある風景』は、よくある終戦(敗戦)記念日「8月15日」に、15歳の「性」を対峙させた小説だと思います。13歳のときに18歳の妻を娶った両班の少年・金本が登場したからといって、「梶」少年の父親が朝鮮総督府の役人だからといって、これを「植民地小説」するのは乱暴で、「植民地の朝鮮において「性欲」を満たすことのできない日本人少年を描くことによって、一面では被植民者としての朝鮮人と宗主国人の日本人の、ねじれた、屈折した関係」と読むのは穿ちすぎ、というか「自虐史観」。むしろ梶山版「遅れてきた少年」と読むほうが健全でしょう。「歴史的、民族的、文化的な解決や清算は、まだ済んでいない」という史観で、15歳の少年の「性欲」を片付けるのはどうかと思います。

 川村湊先生の解説は、文句たらたらですが面白かったです。

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