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田川建三 イエスという男 ③ ~ローマ帝国、ユダヤ教支配~(1980三一書房) [日記 (2020)]

イエスという男―逆説的反抗者の生と死 イエスという男 第二版 増補改訂 続きです。
第一章 逆説的反抗者の生と死
第二章 イエスの歴史的場
第三章 イエスの批判─ローマ帝国と政治支配者
第四章 イエスの批判─ユダヤ教支配体制に向けて
第五章 イエスの批判─社会的経済的構造に対して
第六章 宗教的熱狂と宗教批判との相克

預言者の墓を建てる者
 イエスの舌鋒が向かう先はローマ帝国とユダヤ教です。イエスが主に活動したガラリアはヘデロの直接支配地であり、ローマ権力は直接には顔を出さないことが多いそうです。従って、イエスが批判するのはパレスチナの社会支配の基礎的枠組を作っていたたユダヤ教、ユダヤ教の律法学者です。

ユダヤ教は宗教ではない。・・・古代のユダヤ教とは、社会支配の体制であった。それは、一つには、宗教的権威の外皮を伴って、民衆の全生活の内容を一々規定してくるイデオロギー的な力であったが、同時に、その、イデオロギー的力を支える社会的内実が存在した。ユダヤ教の主たる担い手である宗激的上層階は、同時に、経済的社会的にも明瞭に支配階級だったのである。(p118)

 一世紀のパレスチナにおいてユダヤ教を批判することは、宗教批判に止まらず社会構造の批判となったといいます。だから殺されたわけです。

禍いあれ、律法学者どもよ。お前らは昔の預言者の墓を建立しているけれども、それはお前らの先祖が殺した預言者ではないか。先祖たちが殺した預言者の墓をお前らが建てる、というそのことによってまさに、お前らは先祖の預言者殺しに同意しているのだ。(ルカ11・47~48、マタイ23・33以下、Q資料)

 有名な?フレーズです。吉本隆明が「関係の絶対性」という概念を導き出す手掛かりとなった一節だそうです。そう言えば、学生時代にそういうフレーズ聞いたような、『マチウ書試論』でしょうか。世を惑わす「予言者」という存在は、時の権力者やその追随者(律法学者)にとっては邪魔物に他なりませんから、迫害し殺してしまったんでしょう。この預言者はユダヤ教の預言者でかつ律法学者だと思われます。ユダヤ教の律法学者が同じユダヤ教の律法学者の預言者を殺すというところがこの話の要です。後の律法学者がその予言者の墓を建てるという行為は、

現在のパリサイ派系のユダヤ教指導者どもは、自分達があたかも旧約時代の預言者の正義を継承するような顔をして、預言者の墓をたて、安息日ごとに預言者の書物を読みあげ、その精神を説教しているけれども、そのくせ、我々キリスト教徒の「預言者、知者、律法学者」をば迫害したり、殺したりしているではないか。偽善者なる現在のユダヤ教主流には、必ずや、最後の審判において、これら一切の血の報いがふりかかるに違いない。(p151)

ということです。勝手に解釈すれば、冤罪を着せて菅原道真を太宰府に流した張本人が、(祟りを恐れ、鎮魂の為に)道真を天満宮に祀るようなもの。つまり、墓を建てる律法学者は予言者殺しに他ならない、とイエスは言ったのです。著者は菅原道真云々とは言ってませんが。

 イエスが言ったその通りに、律法学者は予言者イエスを十字架に架けて殺してしまいます。

蛇よ蝮のすえよ。どうして汝らが地獄の審きをまぬがれよう。汝らのもとに我(キリスト)は、我が預言者、知者、律法学者を派遣するが、汝らは彼らを殺したり十字架にかけたり、汝らの会堂で鞭打ったり、町から町へと迫害していくのだ。その結果、義人アベルの血から、汝らが神殿の聖所と祭壇の間で殺したバラキヤの子ザカリヤの血にいたるまで、地上に流された一切の義なる血が汝らの上にふりかかることになる。そうだ、はっきりくり返すが、これら一切の義なる血の報いが汝ら今の世代にふりかかる。(マタイ22/33三以下)

 蛇よ蝮のすえよとは強烈な呪詛、憎しみの表現です。前段と合わせて読むと、お前たち律法学者は、預言者イエスを十字架に架けて殺した。先祖と同じことをしている。それ故、義なる血の報いが汝ら今の世代にふりかかる、つまり神の罰が下るいう呪詛になるわけです。

 キリスト教がユダヤ教から分かれた一派ですから、ここで語られているのは、同根のふたつの党派の争いでありマタイの記者によるユダヤ教に対する激しい近親憎悪です。

旧約の預言者のことが気になるのなら、あんたら自分も預言者と同じように生きればいいんだよ。何も預言者の墓を飾りたてることはない。そうやって過去の預言者を絶対的権威に仕立て上げ、実はあんたらは自分自身にその絶対的権威の後光をかぶせたいんだろ。よしなよ。かつて預言者を迫害したのはあんたらみたいな連中だったんだぜ。(p158)

イエスと旧約律法
 当時シナゴグ(ユダヤ教会)では誰でも説法ができたようです。イエもまた説法をし、その説法に人気が出て人々に知られるようになった、と著者は想像します。

イエスがだんだんと自らの言葉を自らの主張をもって語るようになると、会堂の管理者の側もそれを好もしく思わないようになり、イエスの方でも会堂での説教という枠から積極的に外に出て行ったのではないだろうか。イエス登場の前史として、ほぼこの程度のことは想像できる。・・・発言の場所は、そこここの家の中であり、屋外であり、行きあわせた場所での論争であった。しかしそういう場所でのイエスの話に人気があり、人がおのずと集ったのは、イエスが会堂の中ですでに律法解説の枠を一歩踏み出る話をして、かなり人々に知られるようになっていたからであろう。(p161)

 史的イエスを彷彿とさせる想像であり記述です。イエスは「ラビ」と呼ばれたこともあり(マルコ10-51)、裁判の調停者になるように頼まれたこともあった(ルカ12-13)ようですから、旧約の知識は深かったと思われます。イエスは旧約を自分流に解釈して説教し、新約にあるような逆説的なイエスの説法はユダヤ教とユダヤ体制批判になった。だから民衆に熱狂的に受け入れられたのでしょう。

イエスが目ざしたのは、宗教復興でも原点への回帰でもない。イエスが、律法学者が預言者の墓を建てている、と言って批判する時、彼らが実際には虚妄にみちておりながら、おのれらの行為を預言者に帰せられた絶対的権威の後光を借りて権威づけようとしていることを批判しているのである。そういう形式的権威にかつぎだされたのでは預言者達の活動の意味は死んでしまう。だからこそ彼らは預言者殺しに加担している、と言われる。(p162)

「権力の尻尾」にぶら下がる律法学者(パリサイ派)にとって、イエスは抹殺すべき存在となります。

タグ:読書
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