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現代史資料 1 ゾルゲの見た昭和(1) 二・二六事件 [日記 (2023)]

2023021700002_3.jpeg 山王ホテル前の反乱軍
日本における諜報活動
 検事は治安維持法、国防保安法違反で起訴するため、ゾルゲの諜報活動の詳細を洗い出します。ゾルゲは1933年(昭和8)9/6に来日し、1941年(昭和16)10/18に逮捕されます。この間、国際連盟脱退、二・二六事件、日中戦争、ノモンハン事件、日独伊三国同盟、太平洋戦が起こりますから、ゾルゲは文字通り昭和史の激動の中で諜報活動をしたことになります。ゾルゲが自供した主な諜報活動は、

1934年(昭和9年) フォン・ディルクセン大使来朝の使命
1936年(昭和11年) 二・二六事件
1936年(昭和11年) 日独防共協定
1937年(昭和12年)~1938年(昭和十三年) 独逸による日支間の平和斡旋交渉
1937年(昭和13年) 日本の軍事情報
1938年(昭和13年) リシュコフ事件
1939年 (昭和14年) 日独同盟問題の提起と平沼内閣
1939年 (昭和14年) 日本の第二次欧州大戦に対する態度
1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年) 独逸補助巡洋艦に対する物資補給交渉
1940年(昭和15年) 日独伊三国同盟
1940年(昭和15年)~1941年(昭和16年) 松岡外務大臣と独大使オットとの関係
1941年(昭和16年) 独逸の「対ソ」攻撃の意図とその準備
1941年(昭和16年) 六月以後独逸が日本を「対ソ」戦に参加せしめんとした努力
1941年(昭和16年) ウォルタート使節の来朝
1941年(昭和16年) 日米交渉 (現代史資料 1 p252)

 ゾルゲは日本での活動の8年間、モスクワに送った電文は650通に及ぶと言われています。電文の他、ゾルゲ自身、クラウゼンの妻アンナが上海からクーリエを通じてマイクロフィルム等を送っています。実に精力的に諜報活動をしたものです。

 『資料』を読む限りゾルゲ供述は淡々と進みます。捕まったのが1941年(昭和16)10月18日、本書の『調書』は同年12月の2か月後、クラウゼン、ヴーケリッチ、尾崎、宮城も逮捕されていますから、覚悟の上の供述でしょうか。むしろ自分の諜報活動を誇るかの様です。尋問者の検事・吉河光貞は昭和の国際政治の舞台裏を見たことになります。

 これらの諜報活動を通じてゾルゲが日本をどう見ていたか?。

ディルクセン ドイツ大使
ソ聯の事情に通じたディルクセン大使をして此のソ聯に対抗して日独両国で提携せしめ様と策して居たのであります。即ち日本は西暦一九三三年(昭和八年)三月、先に国際連盟から脱退しましたが、独逸も之に次で同年十月国際連盟から脱退しましたので、此の事実を日独両国協力の基調として、独逸は日本との関係を緊密にすることに依ってヴェルサイユ平和条約を打破する一助にしようとしたのであります。詰り独逸は当時ソ聯打倒と云ふ積極的政策を採ると共に、他面国際連盟を脱退してヴェルサイユ平和条約を破棄しようとして居たのであります。そして独逸の政略は日本と反共戦線を結成して其の指導者となり英国や仏国をして此の事実を承認される代りに、ヴェルサイユ平和条約の負担を軽減するか又は之を破棄することを強要しようとしたのであります。 (252)

 ロシア侵攻を目論むナチス・ドイツは、国際連盟を脱退した日独で防共同盟を結ぶために前ソ連大使ディルクセンを駐日大使に指名したわけです。ナチスの党員でもあるディルクセンは、1933~38年駐日大使として在任し、1936年日独防共協定を調印しています。

ニ・ニ六事件
 尾崎、宮城、日本の諜報団を動員してニ・ニ六事件の情報を集めます。これによってディルクセンやオットよるゾルゲ評価は益々高まり、『東京に於ける軍隊の反乱』をゲオポリティークに寄稿し、当然モスクワにも報告します。

ディルクセン大使は此の事件に対して皮相な観察を下して居り同事件は日本軍部の無智から起きたものであり小さな社会的改革と云ふ様な政治的指導方法を実施することに依って容易に解決出来るものと判断して居りました。

又オット武官の報告書はディルクセン大使よりも少し調察力のある観察を下して居り、此の事件は日本軍の無智と云ふが如きものに因るのでなく、
農民の悲惨な社会的状態と日本軍が近年非常に政治化されて居ることに因るものであり、斯様な日本軍の政治化は全く不可なことで、斯様に日本軍が政治化して居たのでは仲々一朝一夕には此の禍根を除去することが困難であると云ふ判断を懐き、最後に日本政府は此の事件に依って起された事態を収拾する為大規模な内政改革を遣るであらうが、若し左様なると之が為日本軍の予算は相当削減されざるを得ないであろうと云ふ予測を述べて居りました。(254)

ゾルゲの「ニニ六事件」の分析は、ディルクセン大使の報告を皮相とし、「オット武官の報告書はディルクセン大使よりも少し調察力のある観察」とすることで察せられます。事件後日本はファシズム色を強め、大規模な内政改革と軍事予算の削減はありません。

モスコウ中央部では独大使館側の報告書の内容が真実であるか否かと云ふことよりも、独逸の責任ある当路者が此の事件に対して如何に判断し、且如何に対処せんとして居るかと云ふことを重要視して居た訳でありまして、事件の真相に関する報告は、寧ろ私の諜報グループが別に報告すべきことであったのであります。斯様な訳で、私はディルクセン大使の此の事件に対する見解のみならず日本政府当局が如何にして此の危機を切抜けようとするのかと云ふ問題に対する同大使の判断もモスコウ中央部に報告し、又オット武官がディルクセン大使の為に献策した之等の問題に関する報告も同様に報致したのであります。(254)

モスクワが知りたかったのは、事件の本質ではなく、ドイツは事件をどう理解したか、事件を前に日本陸海軍がどう動いたか、と云うことです。ゾルゲは翌1937(昭和12)に、農村の土地所(地主と小作の関係)、農民の負債など経済問題を分析し「日本の農民が、如何に悲惨な生活状態に在るかを論じた『日本の農業問題』を執筆しています。(238)

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