SSブログ

江藤淳 漱石とその時代 第二部 (1) [日記(2016)]

漱石とその時代 第2部 (新潮選書)
【 事件 】
 夏目金之助の松山滞在はわずか1年でしたが、五高教授となった熊本では4年3ヶ月を過ごすことになります。その間、中根鏡子と結婚して一家を構え、五高の同僚には大学時代の友人菅虎雄、山川信次郎、狩野亨吉がいるなど、子規への手紙に「僻地師友なし」と書いた松山よりは快適に過ごせたようです。後に『草枕』の舞台となる小天温泉や阿蘇山への旅行、五高生徒の寺田寅彦等に推されて俳句結社を主宰するなど、外見上の金之助の生活は平安に見えます。

 漱石の妻、鏡子は悪妻として有名ですが(実はそんなことはありません)、新婚の熊本で自殺未遂を引き起こして金之助を悩ませます。事件が起きたのは明治31年6月。前年6月に鏡子は流産し、これが引き金となってヒステリー性の錯乱を起こしたということです。

或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋つないで寐ねた。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
妾(わたし)の赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら其所そこにいるじゃありませんか。桔槹(はねつるべ)の中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」
流産してから間もない彼女は、抱き竦すくめにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。
細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆(たなびい)ていた。彼は心配よりも可哀想かわいそうになった。弱い憐あわれなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉うれしそうな顔をした。(『道草』78)

 神経衰弱から被害妄想にとり憑かれて東京を逃げ出し、松山では「僻地師友なし、当地下等民のろまの癖に狡猾に御座候」と孤独な日々をおくった金之助に、やっと巡ってきた熊本の春も決して安穏なものではなかったのです。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋つないで」、鏡子に「より大いなる慈愛」を注ぐ金之助は、やっと得た精神の小康を繋ぎとめようとする必死な様が見て取れます。
 後に金之助は、このヒステリー性の錯乱を起こして鏡子を苦しめ、離婚寸前にまで行きます。この時は、鏡子が大いなる慈愛の雲で金之助に対します。皮肉と言えば皮肉です。

【留学】
 明治33年6月、金之助に「英語研究ノ為ニ満二年間英国ヘ留学ヲ命ズ」という辞令がでます。金之助は、留学の目的が「英語研究」なのか「英文学研究」なのかにこだわり、文部省からは柔軟に考えろという返答を得ています。金之助は、「文学」にこだわり、生得の言葉ではない英語で「文学」を研究する困難が後に神経症を引き起こしています。

 留学中の手当は年額1,800円、家族に支給された留守手当は年額300円。この年額1,800円が英ポンドでどの程度のものか分かりませんが、留学先を決めるためにケンブリッジを訪れ、

書生が運動シャツと運動靴で町の内を「ゾロゾロ」歩いている。これは船を漕いだり、丸を投げたり、または自転車へ乗る先生方であって、而して大学生の大部分は此の先生方である。
大学の様子を聴いて見ると、先ず普通四百ポンド至五百ポンドを費やす有様である。此の位使はないと交際などは出来ないそうだ。もっともやり方でもっと安くも出来るが、世間がそういう風だから衣服その他これに相応して高い。月謝も高い。留学生の費用では少々無理である。(明治34年2/9狩野亨吉他宛)

 金之助がケンブリッジを諦めたのは、学費の都合もあったでしょうが、運動シャツと運動靴で町の内を「ゾロゾロ」歩いている船を漕いだり、丸を投げたり、または自転車へ乗る学生に対して、顔にアバタのある五尺三寸の東洋の三等国から来た貧乏留学、 を意識したためではないでしょうか。

 金之助はケンブリッジを諦めて、シェイクスピアの研究家であるウィリアム・クレイグの個人指導を受けます。留学といえば、しかるべき大学に席を置き、卒業なり修学なりの資格を得ることだと思うのですが、当時は大学に通わずに元大学教授から個人指導を受ける「留学」も許されたのでしょう。ロンドンで親しくなる池田菊苗(グルタミン酸ナトリウムの発見者)は、ドイツ・ライプツィヒ大学で研究しています。森鴎外も明治17年から4年間ライプツィヒ大学に留学しています。

 ロンドンの金之助は、クレイグの個人指導を受ける以外は出歩きもせず、下宿に閉じ籠って「英文学」と格闘していたようです。乏しい留学費は書籍の購入に費やし、昼食には固いビスケットをかじる様な生活と、思うように進まない英文学研究のなかで、次第に精神のバランスを失ってゆくことになります。

nice!(10)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0