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司馬遼太郎 耽羅紀行(街道をゆく28) [日記(2019)]

街道をゆく〈28〉耽羅紀行 (朝日文庫)  耽羅国とは、朝鮮半島の南に浮かぶ済州島のことです。『韓のくに紀行』の十数年後、作者は済州島を訪れます。

耽羅国といえば、常世の国といったふうの夢の異国のようにも思えるし、また一方『魏志』倭人伝の末盧国に似た風俗があったようにも思え、また大きく海上に円を描けば古代の倭国と仲間の文化圏を構成していたのではないかという想像も、ひろびろと広がってくるのである。

朱子学
 『韓のくに紀行』では、古代の文化的近親性から朝鮮をノスタルジックに描きました。『耽羅紀行』では、李氏朝鮮の儒教政策(朱子学)とそれが朝鮮史に及ぼした影響を手厳しく批判します。500年続いた李朝は、中国同様「科挙」によって官僚を採用します。

その試験は朱子学をもって唯一の学派とし・・・このことは、朝鮮史に凄惨な災禍をもたらした。朱子学は、考証や訓詁といった実証性よりも、大義と名分を重んじ、それについての異同を飽くなくたたかわせる学派なのである。・・・中国人や朝鮮人ほどに、精神の活力に富んだ民族が、世界が近代に入ってゆくもっとも大切な五世紀を、この屁理屈のような学問のために消耗したというのは、くやまれてならない。

 朝鮮史の凄惨な災禍とは「戊午士禍」などの「士禍」を指し、その党派闘争によって破れた官僚や知識人の流罪先が耽羅国=済州島だったようです。さらに、

(朱子学は)極度にイデオロギー学だった。正義体系であり、別の言葉で言えば正邪分別論の体系でもあった。朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪かということを論議することだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅が狭く鋭くなり、ついには針の先端の面積ほども無くなってしまう。その面積以外は、邪なのである。

 と手厳しいです。相対性の欠如、唯我独尊に対する批判です。また、

ーー韓国と日本の文化の違いは、韓国には知識人がいるだけで、日本のように知的な奇人がいなかったということだ。ということを、十年ばかり前、韓国人の文章の中で読んだことがある。
 ・・・私はこの人は李朝と江戸期を比較しているのだと思った。江戸期には太田蜀山人や平賀源内だけでなく、秋田の殿様で精妙な昆虫分類学者もいたし、大阪の傘職人で蘭学の研究をした人もいたし、伊予宇和島の仏壇修繕屋だったハンパな職人が銅板張りの蒸気機関を作ったりもした。
 それらは、商品経済が活性化した社会が生み出す人間の精神の一分化で、人種論的なものではない。

 大阪の傘屋は橋本宗吉、伊予宇和島の仏壇修繕屋は前原巧山、秋田の殿様はちょっと分かりません。としたうえで、「車」(大八車)の有用性を主張した李氏朝鮮時代の実学の徒・朴趾源に話が及びます。

そのころ朝鮮には肩引きや動物に引かせる車さえ無かったというのは、文明史的な驚異である。朝鮮人ほど思弁的能力の高い民族が、形而下的な面になると車も持たなかったというのは、要するに朱子学的な政治のせいではあるまいか。

朴趾源の18世紀に、朝鮮には物資を流通させるための車が無かった?!。500年の朱子学偏重の李朝支配は、商品経済の停滞をまねき、商品経済が活性化した社会が生み出す人間の精神の活性、多様性に乏しかった、という話です。「偏狭」に対する憤りが繰り返し語られます。これは、著者の朝鮮、ひいてはツングースへの強い想いの裏返しなのでしょう。

海女
ナショナリズムは、どの民族、郷党にもあって、わるいものではない。

ただ浅はかなナショナリズムというのは、老人の場合、一種の呆(ボ)けである。壮年の場合は自己についての自信のなさの一表現かもしれぬ。若者の場合は、単に無知のあらわれでしかない。
日本にもこの種の浅はかさはいつの時代にも存在するが、韓国にもある。
「潜水漁法は、済州島の海女が、日本の海女に教えたのだ」

 著者は、潜水漁法が南アジア一帯で行われていた漁法であることを述べ、話は済州島の海女に及びます。20世紀初頭から済州島の海女は、対馬、日本、朝鮮南岸から遠くはウラジオストック、中国青島まで出稼ぎに行ったらしい。20世紀に限ったことではなく、平安時代中期に編纂された『延喜式』に「耽羅鰒(あわび)六片」という記述があり、済州島の海女たちが日本に出稼ぎに来て採ったアワビが「調」として差し出されたのではないかと言います。これも、古代の日本と朝鮮半島の一情景、古代の倭国と仲間の文化圏という著者の好む風景です。

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