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和泉式部日記のまとめ [日記 (2022)]

和泉式部日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
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続きです。 和泉式部は、越前守・大江雅致の娘で和泉守・橘道貞の妻となったため、和泉式部と呼ばれたようです。本名不詳、この時代、貴族であっても女性の履歴は記録に残ること無かったようです、紫式部もしかり。蜻蛉日記の作者は藤原道綱母、更級日記の作者も菅原孝標女。式部というのは、 式部省の役人、または女官の呼び名だそうで、藤原彰子の女官であった紫式部や和泉式部が式部と呼ばれますから、後者でしょう。

受領階級
 父親・大江雅致の経歴も不明ですが、大江匡衡の兄とするなら式部省の高官で朝廷の文官。菅原氏と並ぶ学問の家柄だそうです。中流貴族の娘がこれも中流貴族の和泉守・橘道貞の妻となります。橘道貞は、和泉守、陸奥守などを歴任した地方官僚で、受領階級。受領階級の娘が為尊親王、敦道親王の皇族と浮名を流し、敦道親王の正妻を追い出したわけですから、スキャンダルで非難もされるはずです。
 敦道親王が式部の邸を訪れた際に、姉妹の下を訪れた男の牛車を見て式部の浮気を疑いますから、和泉式部には姉妹がいたようです。

 995年に橘道貞と結婚して娘が生まれますが、1001年には為尊親王と関係していますから、この6年の間に離婚したようです。『日記』の親王から同居を提案をされた下りで、式部は「一の宮のことも聞こえきりてあるを」と一の宮(敦康親王、一条天皇の第1皇子)からも誘いを受けたと記しています。この6年は、源少将、治部卿の名も見えますから、式部はモテモテだったようです。道長に「浮かれ女」と揶揄されるのも、もっともです。
 清少納言もバツイチ、紫式部も離婚しているようです。一夫多妻で妻問婚、財産は娘が相続するこの時代、貴族の女性の離婚は普通だったのかも知れません(道綱の母は離婚していませんが)。女の下に3日連続して通えば結婚成立、夫が通わなくなったら事実上の離婚と、婚姻はわりと緩やかな関係だったと想像します。

『和泉式部日記』以降
 和泉式部は1003年敦道親王の邸に入り、4年生活を共にします。1006年には岩蔵の宮が誕生していますから、まぁまぁ幸せだったのではないでしょうか。1007年親王が急逝し、式部は姉妹の住む自分の邸に帰ったと思われます。1008年、敦道親王を亡くした喪失感と「浮かれ女」の濡れ衣を晴らすため、手記である『和泉式部日記』が執筆されます。
 1009年頃、藤原彰子に仕えています。1005年に彰子に仕えた紫式部は同僚で先輩(紫式部が数歳歳上?)。この二人と一条天皇の皇后・定子の女房であった清少納言を加えた3人が、宮廷の才媛として覇を競ったようです。紫式部は、日記に和泉式部を「怪しからぬ方」と書き、清少納言のことは「威張っている」と記している辺りにこれが伺えます。道長は、中宮・藤原彰子の下には紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔と錚々たる歌人、才媛を集め、一大サロンを作ったわけです。

 和泉式部は敦道親王と死別した後、1013年35歳の頃20歳も年の離れた藤原保昌と結婚しています。式部が道長の娘・彰子の女房であったこと、保昌が道長の側近であったことから想像すると、この結婚には道長が介在していそうです。保昌は式部よりも20歳も歳上ですから、「花盗人」の逸話から、保昌が式部に懸想したのでしょう。藤原保昌は、1020年に丹後守に任ぜられ、のち大和守、摂津守を歴任していますから、和泉式部も同行したのでしょう。
 1025年、48歳の頃、娘の小式部内に先立たれる不幸を経験し、夫保昌は、1036年式部が59歳の時に亡くなっています。式部の没年は不明ですが、この後も生き長らえたことになります。敦道親王との4年間が式部の頂点であったとすれば、その後30年以上の「余生」を生きたことになります。『日記』の4年間は夢幻で、『日記』後の30年が彼女の実人生かも知れません。

和泉式部 年譜
和泉式部日記④ 妻妾同居、親王の死、和泉式部日記の誕生
和泉式部日記③ 和泉式部外泊する、牛車での逢瀬、一緒に住もう
和泉式部日記② 後朝(きぬぎぬ)の別れ、浮かれ女
和泉式部日記① 花橘、暮にはいかが
王朝日記の魅力 和泉式部日記
王朝日記の魅力 蜻蛉日記② 新しいライバル、嫉妬
王朝日記の魅力 蜻蛉日記① 安和の変、一夫多妻、色好み

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