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六草いちか 鴎外の恋 舞姫エリスの真実 (2)(2011講談社) [日記 (2023)]

鴎外の恋 舞姫エリスの真実 (河出文庫 ろ 1-1)IMG_20230118_0001.jpg1886年、ドイツ時代の鷗外(右端)
 1880年代に、単身ではるばる日本にやって来たエリーゼ・ヴィーゲルト(Elise Wiegert)とはどんな女性だったのでしょうか?。在独20年の著者ならではの追跡が始まります。

(エリーゼを)「路頭の花」と呼び、一族総出で追い返して「人の言葉の真偽知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末」と蔑み、「誰も誰をも大切に思っているお兄い様(鷗外)にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした」と書くなど、そんな非情なことがありえるだろうか。

森一族の仕打ちと小金井喜美子、杏奴の発言にカチンと来た著者は、エリーゼの名誉回復のためにエリーゼとはどんな女性だったのかと、彼女の真実の姿を追いかけます。豊太郎がエリスに会う下りです

或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。・・・今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。(舞姫)
 豊太郎は下宿に帰る途中、ベルリンの「クロステル巷の教会」の前でエリスに会います。エリスは教会の扉に寄りかかって声を殺して泣いていたのです。豊太郎は事情を聞きエリスを自宅に送って行きます。

早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。(舞姫)

 エリスの住まいは教会の筋向かいの建物の4階(ドイツでは5階、屋根裏部屋)。著者は、エリスの住所が分かればエリスを特定出来ると、「クロステル巷の教会」と筋向かいの建物を探しますが、クロステル街には教会が6つもあって特定することが出来ません。120年の前の、しかも戦火で多くの資料が失われたベルリンでそんな調査が可能なのか?と思うのですが、紆余曲折の後探し当てるのですから著者の執念たるや、です。連邦、州、市、教会の公文書館、国会図書館、船会社などなどに足繁く通い、資料の袋小路を行ったり来たり。その調査過程が本書の中核であり、そこがミステリーもどきで面白いわけです。

鷗外が望みもしないのに無理やり追いかけてきたと喜美子は書いたが、本当にそうだったのだろうか。 ・・・真のエリーゼは、小金井(良精)のような男の前でなど決して涙を見せないだけのプライドと精神を持ち合わせた、聡明な女性だったのではないだろうか。・・・それを証明するためには、エリーゼの正体を知るしか方法がないと思っていた。 ・
・・ねえ、こうして探されるの…いや?
エリーゼに話しかけた瞬間、エリーゼが目の前に現れた。(p274)

 ドイツでは、住民登録や教会の信徒名簿がマイクロフィルムで残り、誰でも閲覧できるようです。教会は信徒の洗礼、結婚、出産、死亡を記録し保存しています(日本の過去帳の様なもの?)。そのマイクロフィルムの中からエリーゼの姿が浮かび上がって来ます。
 エリーゼの本名は、エリーゼ・マリー・ロリーネ・ヴィーゲ  Elise Marie Caroline Wiegert。1866年9月15日、当時独領だったポーランドのシュチェチン生まれ。父親はベルリンの銀行の出納係で、後ベルリンに引っ越し2年後に妹が生まれ、父親はエリーゼが14歳の時に亡くなり、姉妹は母親に育てられます。エリーゼと鷗外が何時出会ったかは不明ですが、鷗外がベルリン滞在した1887年4/16~1888年7/5の間に2人は出会い、この時エリーゼは20~21歳。
 母親の職業が「お針子」と記録されているところから、母親は裁縫で姉妹を育てたようです。住所録によると、青春期のエリーゼたちの住まいは、1880年アレクサンドリアン通→1881年ブランデンブルク通→1882~83年ルッカウ通に住んでいたことが判明しています(頻繁な引っ越しはよくある話)。貧しい人は部屋の又貸り(又貸し)しで暮らすことが多かった当時、「借家人」として住所録に載るエリーゼの母親はシッカリした生活基盤を持った婦人だったようです。

 記録は日本から帰国した10年後の1898に飛び、その後の1904年までの6年間は、帽子製作者としてベルリン東地区ブルーメン通りに住みます。母親の職業が裁縫ですから、エリーゼが帽子製作者というのは不自然ではありません。当時婦人にとって帽子は必需品だったようで、帽子の需要は多かったといいます。小金井喜美子の手記にある「帽子製造云々」の記述とも平仄が合います。日本から帰ったエリーゼは帽子を作りながら自活していたようです。
 ではエリーゼはどんな容姿だったのか、

我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、・・・彼は優れて美なり。 乳の如き色の顔は燈火に映じて微紅を潮したり。手足の繊(かぼそ)く裊(たおやか)なるは、貧家の女に似ず。(舞姫)

 鷗外が教会の前で泣いているエリーゼに出会ったというのは創作でしょうが(ダンサーという職業も)、ベルリンの何処かで出会い「物問ひたげに愁を含める目」のエリーゼに一目惚れしたのでしょう。美人だったようです。愛し合うようになり同棲して、鷗外は結婚するつもりで彼女を日本に連れ帰ります。一族に反対されひとまずエリーゼをドイツに帰し後を追う積りだったものの、5ヶ月後には登志と結婚してしまいます。そして言い訳のように『舞姫』を発表したわけです。↑ の写真はドイツ時代(1886年)の鷗外(右端)のものです。明治の軽薄男子の見本のような顔つきですw。

 面白いので一気に読みました。ここまでではエリーゼが「涙を見せないだけのプライドと精神を持ち合わせた、聡明な女性だった」かどうかは分かりません。『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影 』なる続編があるそうなので読んでみます。→読みました

タグ:読書
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