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大平 裕 知っていますか、任那日本府(2013PHP研究所) [日記 (2021)]

知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史 街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)  『知っていますか、任那日本府』 →知らない、となるんでしょうか?。
 高校の日本史で、ヤマト王権の半島経営の出先機関として朝鮮半島南部に「任那日本府」があったと習いました。1970年代以降には、政治的思惑によって任那日本府は教科書から消えたようです。前々から気になっていたので調べてみました。朝鮮・韓国史はバイアスのかかった論議が多いですが、本書は史実中心でバイアスはかかっていません。で、任那日本府はあったのか無かったのか?。

九州、南朝鮮文化圏
 たとえば、司馬遼太郎 「韓のくに紀行」にはこんな文章があります(2/12は「菜の花忌」でした)、

朝鮮の民間伝承でも、
「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」
というのがあるそうだ。上代では、駕洛国だけが、他の韓人とはちがった風俗をもっていたともいわれる。
ちかごろになると、
「倭というのはかならずしも日本人のみを指さない。上代のある時期までは、南朝鮮の沿岸から北九州をふくめての地域の呼称もしくは諸族の呼称であった」
という説得力に富んだ説まで出ている。
・・・まだ日本が、日本という国名さえなかったころ、
「おまえ、どこからきた」と、見知らぬ男にきく。
「カラからきたよ」
と、その男は答える。こういう問答が、九州あたりのいたるところでおこなわれたであろう。カラとは具体的には駕洛国をさし...云々(司馬遼太郎 「韓のくに紀行」街道をゆく2)p57~58

 駕洛国は伽耶、金海国、狗邪韓国、任那で、国というより部族あるいは地域を指すと思われます。小説家の妄想ですが、古代日本と朝鮮の関係を適確に言い当てた妄想だと思います。本書は、この妄想を史実から裏付けます。著者は『後漢書』『魏志倭人伝』『三国志』の記述から、半島南部の倭=ヤマト王権の姿を明らかにします。

1)大倭王は邪馬臺国に居住している。楽浪郡の南の境界は、邪馬臺国から一万二千里
も離れており、倭の西北と境界をなす狗邪韓国(慶尚南道金海郡地方)から七千余里離
れている。(後漢書・倭伝)

2)帯力郡より倭に行くには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓族の国々をへて、乍(しばらく)は南に、乍は東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。 この間の距離は七千余里である。(魏志倭人伝)

3)馬韓は西にあり、五十四国がある。〔馬韓の〕北は楽浪郡と、南は倭と接している。(中略)弁辰は辰韓の南にあって、これまた十二国ある。弁辰の南もまた倭接している。(後漢書・韓伝)

4)韓は帯方郡の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と〔境界を〕接している。(三国志 魏書韓伝)

5)弁辰は、辰韓と入り雑って生活している。(中略)〔弁辰の〕潰盧国は倭と〔境界を〕接している。(三国志 魏書弁辰伝) (p87)

半島の南端には、ヤマト王権の出先機関どころか「倭」そのものがあったことになります。
朝鮮半島.jpg(世界史の窓さんから借用)
 魏に朝貢していた倭から見れば、北九州、対馬の向こうには狗邪韓国があり、馬韓を経て帯方郡から中華に至るという仮想空間があったことになります。『魏志倭人伝』他は馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と書いていますから、3世紀末には、朝鮮半島南部には倭がありヤマト王権の勢力は朝鮮半島の南部まで及んでいたことになります。そこに「日本府」があっても何の不都合もありません。

 広開土王碑には、倭の新羅に侵攻し高句麗が百済・倭の連合軍と戦ったことが記されていますから、碑に記載された「任那加羅」に倭の兵站基地があったと考える方が自然です。兵站基地を作るなら、半島の南端の筈です。兵站というより、倭人が住み江戸時代の「倭館」のような役所があったかも知れない。逆にいうと、北九州に朝鮮勢力の出先機関があり、対馬海峡を挟んで北九州と任那伽耶の地はひとつも文化圏を作っていたと想像できます。朝鮮半島に倭があった、これには驚きました。
・・・続きます

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