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ノートPCのキーボード交換(張替え) [日記 (2023)]

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 ノートPCのEnterキーがいよいよおかしくなり、キーボード交換しました。PCは、2011年発売のDynabook R731で、今時誰も使っていない骨董品です。A4サイズで1.3kgと軽いのでSSDに換装し、スマホのテザリング経由でモバイルPCとして使ってきました。キーボードは、海外サイトで購入した《USキーボード》です。骨董品のキーボードの交換(張替え)など誰もしないでしょうが、せっかくやったのでご紹介。

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分解
 PC裏面の20本のネジを全部外します(ネジは長短2種類ある)。キーボードと本体がフラットケーブルで繋がっている(画像4)ので、これを外しておきます。→画像1

キーボードを外す
 キーボードは、両面テープで本体に張り付ける構造です。マイナスドライバでキーボードの隅を起こし、後は手で「ベリベリ」という感じです。外したキーボードは2度と使えません。→画像2

両面テープを張る
 キーボードが浮かない程度に両面テープを張ります(画像3)。フラッとケーブルを繋ぎ(画像4)、20本ネジを締めれば完成。

USキーボード
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 管理者権限で「ハードウェア キーボード レイアウト」を《英語キーボード(101/102キー)》に変更する必要があります(設定→時刻と言語→言語→日本語→オプション→レイアウトを変更する)。これでキートップの表示通りに使えます。

 Enterキーも正常動作で、キーボードは新品になり仮名表示が無いのでスッキリしましたが、キータッチは変わらずイマイチです。R731互換とはいえどうも「まがい物」。Enterキーが小さくなって使い勝手はこれもイマイチです。デスクトップはiMac、ノートはwindows、スマホとタブレットはAndroidとバラバラ。Macbookを入手するまでノートはこれで頑張りますw。

タグ:パソコン
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映画 マリアンヌ(2016米) [日記 (2023)]

マリアンヌ [DVD]  原題”Allied”、形容詞「同盟の」。ロバート・ゼメキス、ブラッド・ピットのコンビのサスペンスです。時代設定が1940年代の第二次世界大戦下というのも個人的なポイント。

 連合軍のマックス(ブラッド・ピット)がフランス領のモロッコにパラシュートで潜入し、カサブランカでマックスを受け入れるのがフランス・レジスタンスのマリアンヌ(マリオン・コティヤール)。ナチスのフランス侵攻が1940年ですから、モロッコはナチスの支配下で、連合軍の工作員と仏レジスタンスが居てもおかしくはありません。レジスタンスvs.ナチスなら、もっと適当な舞台があるはずですが、観客に映画『カサブランカ』を連想させる仕掛けなんでしょう。

 連合軍の将校とレジスタンスは夫婦を演じます。二人はオフィシャルでは夫婦、プライベートでは他人。マリアンヌは、他人の目がある時にはキスをねだり夜になるとマックスを屋上に追いやります。観客の期待通りマックスとマリアンヌは恋に落ちます。このクスグリと、二人よるナチス暗殺の落差が前半の見せ場です。面白いのは、マックスの素性。マリアンヌはマックスを「ケベック人」と呼ぶように国籍はカナダです。?と思うのですが、仏人のマリアンヌとフランスの入植地をルーツとし公用語が仏語のケベック人のマックスが仏領カサブランカに夫婦として居てもナチスの注意は引かないわけです。ケベック人という設定はなかなかのモノ。

 ロンドンに帰った二人は結婚するわけですが、マックスの上司は、作戦で知り合った男女が結婚しても上手く行く筈はないと言います。これが後半の主題です。なんと、マリアンヌにナチスのスパイ疑惑が浮上します。罠を仕掛けてマリアンヌ正体を暴き、マックスが彼女を殺す命令が下ります。果たしてマリアンヌはスパイなのか?、マックスは彼女を殺せるのか?、となります。マリオン・コティヤールが演じているわけですから、彼女がただのレジスタンスだったとはオチにもなりませんから...という映画です。

 1940年代の車、飛行機、ファッションが楽しめます。『フォレスト・ガンプ』のロバート・ゼメキスですから、手堅くまとまっています。恋あり、サスペンスあり、アクションありと、休日にボーッと観るにはいいです。

監督:ロバート・ゼメキス
出演者:ブラッド・ピット、マリオン・コティヤール

タグ:映画
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今年もドクダミ酒 [日記 (2023)]

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 草むしりのついでにドクダミチンキ(左)ドクダミ酒(右)を作りました。
 ドクダミ酒はベランダに吊るして乾燥させ焼酎に浸けるだけ。ドクダミチンキは、花を摘んで焼酎を注ぐだけ。虫除け、虫刺されにけっこう効きます。タオルに吹き付けて首に巻いておけば虫除けになります。半年ほど寝かせる必要があるので、来年用です。
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4/9ヒマワリ発芽            6/4、子供と背比べ

タグ:絵日記
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現代史資料 1 ゾルゲの見た昭和(1) 二・二六事件 [日記 (2023)]

2023021700002_3.jpeg 山王ホテル前の反乱軍
日本における諜報活動
 検事は治安維持法、国防保安法違反で起訴するため、ゾルゲの諜報活動の詳細を洗い出します。ゾルゲは1933年(昭和8)9/6に来日し、1941年(昭和16)10/18に逮捕されます。この間、国際連盟脱退、二・二六事件、日中戦争、ノモンハン事件、日独伊三国同盟、太平洋戦が起こりますから、ゾルゲは文字通り昭和史の激動の中で諜報活動をしたことになります。ゾルゲが自供した主な諜報活動は、

1934年(昭和9年) フォン・ディルクセン大使来朝の使命
1936年(昭和11年) 二・二六事件
1936年(昭和11年) 日独防共協定
1937年(昭和12年)~1938年(昭和十三年) 独逸による日支間の平和斡旋交渉
1937年(昭和13年) 日本の軍事情報
1938年(昭和13年) リシュコフ事件
1939年 (昭和14年) 日独同盟問題の提起と平沼内閣
1939年 (昭和14年) 日本の第二次欧州大戦に対する態度
1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年) 独逸補助巡洋艦に対する物資補給交渉
1940年(昭和15年) 日独伊三国同盟
1940年(昭和15年)~1941年(昭和16年) 松岡外務大臣と独大使オットとの関係
1941年(昭和16年) 独逸の「対ソ」攻撃の意図とその準備
1941年(昭和16年) 六月以後独逸が日本を「対ソ」戦に参加せしめんとした努力
1941年(昭和16年) ウォルタート使節の来朝
1941年(昭和16年) 日米交渉 (現代史資料 1 p252)

 ゾルゲは日本での活動の8年間、モスクワに送った電文は650通に及ぶと言われています。電文の他、ゾルゲ自身、クラウゼンの妻アンナが上海からクーリエを通じてマイクロフィルム等を送っています。実に精力的に諜報活動をしたものです。

 『資料』を読む限りゾルゲ供述は淡々と進みます。捕まったのが1941年(昭和16)10月18日、本書の『調書』は同年12月の2か月後、クラウゼン、ヴーケリッチ、尾崎、宮城も逮捕されていますから、覚悟の上の供述でしょうか。むしろ自分の諜報活動を誇るかの様です。尋問者の検事・吉河光貞は昭和の国際政治の舞台裏を見たことになります。

 これらの諜報活動を通じてゾルゲが日本をどう見ていたか?。

ディルクセン ドイツ大使
ソ聯の事情に通じたディルクセン大使をして此のソ聯に対抗して日独両国で提携せしめ様と策して居たのであります。即ち日本は西暦一九三三年(昭和八年)三月、先に国際連盟から脱退しましたが、独逸も之に次で同年十月国際連盟から脱退しましたので、此の事実を日独両国協力の基調として、独逸は日本との関係を緊密にすることに依ってヴェルサイユ平和条約を打破する一助にしようとしたのであります。詰り独逸は当時ソ聯打倒と云ふ積極的政策を採ると共に、他面国際連盟を脱退してヴェルサイユ平和条約を破棄しようとして居たのであります。そして独逸の政略は日本と反共戦線を結成して其の指導者となり英国や仏国をして此の事実を承認される代りに、ヴェルサイユ平和条約の負担を軽減するか又は之を破棄することを強要しようとしたのであります。 (252)

 ロシア侵攻を目論むナチス・ドイツは、国際連盟を脱退した日独で防共同盟を結ぶために前ソ連大使ディルクセンを駐日大使に指名したわけです。ナチスの党員でもあるディルクセンは、1933~38年駐日大使として在任し、1936年日独防共協定を調印しています。

ニ・ニ六事件
 尾崎、宮城、日本の諜報団を動員してニ・ニ六事件の情報を集めます。これによってディルクセンやオットよるゾルゲ評価は益々高まり、『東京に於ける軍隊の反乱』をゲオポリティークに寄稿し、当然モスクワにも報告します。

ディルクセン大使は此の事件に対して皮相な観察を下して居り同事件は日本軍部の無智から起きたものであり小さな社会的改革と云ふ様な政治的指導方法を実施することに依って容易に解決出来るものと判断して居りました。

又オット武官の報告書はディルクセン大使よりも少し調察力のある観察を下して居り、此の事件は日本軍の無智と云ふが如きものに因るのでなく、
農民の悲惨な社会的状態と日本軍が近年非常に政治化されて居ることに因るものであり、斯様な日本軍の政治化は全く不可なことで、斯様に日本軍が政治化して居たのでは仲々一朝一夕には此の禍根を除去することが困難であると云ふ判断を懐き、最後に日本政府は此の事件に依って起された事態を収拾する為大規模な内政改革を遣るであらうが、若し左様なると之が為日本軍の予算は相当削減されざるを得ないであろうと云ふ予測を述べて居りました。(254)

ゾルゲの「ニニ六事件」の分析は、ディルクセン大使の報告を皮相とし、「オット武官の報告書はディルクセン大使よりも少し調察力のある観察」とすることで察せられます。事件後日本はファシズム色を強め、大規模な内政改革と軍事予算の削減はありません。

モスコウ中央部では独大使館側の報告書の内容が真実であるか否かと云ふことよりも、独逸の責任ある当路者が此の事件に対して如何に判断し、且如何に対処せんとして居るかと云ふことを重要視して居た訳でありまして、事件の真相に関する報告は、寧ろ私の諜報グループが別に報告すべきことであったのであります。斯様な訳で、私はディルクセン大使の此の事件に対する見解のみならず日本政府当局が如何にして此の危機を切抜けようとするのかと云ふ問題に対する同大使の判断もモスコウ中央部に報告し、又オット武官がディルクセン大使の為に献策した之等の問題に関する報告も同様に報致したのであります。(254)

モスクワが知りたかったのは、事件の本質ではなく、ドイツは事件をどう理解したか、事件を前に日本陸海軍がどう動いたか、と云うことです。ゾルゲは翌1937(昭和12)に、農村の土地所(地主と小作の関係)、農民の負債など経済問題を分析し「日本の農民が、如何に悲惨な生活状態に在るかを論じた『日本の農業問題』を執筆しています。(238)

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現代史資料 1 スパイ・ゾルゲ スパイマスター  [日記 (2023)]

スクリーンショット 2023-05-31 6.29.37.png ドイツ大使館
スパイ・ゾルゲの昭和
スパイマスター
 「諜報方法は如何?」と検事に問われ、ゾルゲはこう答えます。

元来諜報機関の長たる者は自分自から積極的な情報や資料の蒐集をせず、専ら自分の成員に対して指命を発して色々な諜報活動を遂行させ、斯くして集められる各種の情報をば綜合判断して一定の報告を取纏めるのが普通一般の遣り方でありますが、私は之に反して自分自から諜報活動の先頭に立って独大使館を中心に各種の貴重な情報や資料を蒐集した訳でありまして、私の此の独大使館内に於ける諜報活動は既に申上げた通り殆んど完全に近い合法偽装の下に遂行されたのであります。 (249)

 ゾルゲ諜報団には、無線担当で赤軍参謀本部所属のマックス・クラウゼン、写真担当でアヴァス通信(AFP)の記者ブランコ・ヴーケリッチ、近衛内閣嘱託で朝日新聞記者・尾崎秀実、アメリカ・コミンテルン出身の画家・宮城与徳などがいます。尾崎は、独ソ戦の勝利を決定付けた日本の南進政策を掴み、宮城は軍事情報を蒐集します。それぞれ重要なパートを担いますが、ドイツ大使館に食い込みバルバロッサ作戦、日独防共協定、三国同盟などの情報をスクープしたのはスパイマスター・ゾルゲ自身です。「自ら諜報活動の先頭に立って」と自負する所以です。

スパイの方法
 ドイツ大使館という組織、閉鎖集団の中で、一ジャーナリストのゾルゲが如何に情報収集したのか?。

即ち、其の諜報方法としては先づ最も簡単な方法として議論、相談、資料の研究等の方法を使ひ、次にはより大きな情報を得んが為に小さな情報を提供すると云ふ方法、換言すれば小さな情報を餌にしてより大きな情報を聞出すと云ふ方法を用ひたのでありました。そして入手した之等の情報や資料を保存する技術としては記憶したり、紙片や手帳に録取したり、又は写真に撮影すると云ふ様な方法を採ったのであります。(250)

嗅ぎ廻るのではなく相手に喋らせる誘導尋問です。人間の心理を巧みに突くのも優れたスパイの要件です。

オットの政治的協力者として独大使館内では極めて高い道徳的地位を持って居りましたので自分の方から何も働き掛けないのに拘らず、同大使や武官等から積極的に種々な問題に就て色々と話し掛けられたり、又は相談を持ち掛けられましたので、私は少しも労せずして情報を聴取することが出来ました(250)

 大使館のトップ、オットの信頼を得たことが大きいでしょう。陸軍武官、大使と親しい(オットの私設顧問)のですから、大使館員は安心してゾルゲと論議し相談することが出来ます。大使館ではオットとゾルゲを中心とした二つのコミュニケーション集団が出来上がったわけです。日本社会にあるドイツ村という閉鎖空間がこれを助長したことでしょう。
 ゾルゲはジャーナリストとして国際情勢のプロであり、日本の政治については尾崎、宮城たち諜報団のバックがあります。ゾルゲの知識と分析が遺憾なく発揮されたのが、ニ・ニ六事件であり支那事変です。

又色々困難な問題があると、先方から「我々は現在斯う云ふことを聞知して居るのだが君は聞いては居らぬか、君は之に就て如何に考へるか、」と云ふ様に情報を持って来て相談を持ち掛けられたこともありました。尚又大使等が重要な電報か報告文書を起草する場合に、予め其の原稿を私に見せて呉れ之は如何か何か意見は無いか君の意見の様に変へるなら如何に変へるのかと云ふ風に意見を求められましたので、私は極めて重要な電報や報告文書迄も諜知することが出来たのであります。
 私は又時には大使や武官等に伺って、現に日本で問題になって居る色々な事件や問題に就て私の方から進んで自分の判断や意見を申述べますと相手の方では、君の云ふことは正しいとか若くは間違って居るとか申して、色々と議論をして居る裡に確実な情報を知らせて呉れることがあり、前に申上げた様に大使や武官に頼まれて諸論説を研究執筆した際、資料を提供して貰って之を入手したこともありました。(250)

大使がスパイに重要な報告文書の添削を頼むわけです。

 例えば二・二六事件についてモスクワが重要視したのは、事件そのものよりも二・二六事件について「独逸の責任ある当路者が此の事件に対して如何に判断し、且如何に対処せんとして居るかと云ふこと」だと言います。ゾルゲは、事件の分析をオットに提供し、ドイツがどう反応したかをモスクワに報告します。オットの報告書そのものがゾルゲの分析ですから、大使館とドイツの「判断と対処」はゾルゲの掌の上です。自作自演です。

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