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映画 禁じられた遊び(1952仏) [日記 (2023)]

禁じられた遊び [DVD]
 原題、Jeux interdits。今さらですが『禁じられた遊び』を観ました。観てないが、ナルシソ・イエペスのギターは知っている、粗筋は知っているという有名な映画です。パリから来た5歳の戦争孤児ポーレットと土地の少年ミシェルの「禁じられた遊び」の話です。
 冒頭、ドイツ軍から逃れる途中、機銃掃射でポーレットの父母と愛犬が殺されます。孤児となったポーレットはミシェルと出会い、ミシェルはポーレットを自宅に連れ帰ります。貧しい農民がドイツ軍によって両親を殺された孤児を家族同様に養うという、戦争の残酷さと人の情けです。

 「禁じられた遊び」がはじまります。ポーレットは廃屋の水車小屋に犬を葬り、ミシェルが隣にモグラやヒヨコの死体を埋め、ふたりは十字架を建てて墓地をつくる遊びに熱中します。戦争で日常となった死と弔いが、5歳の少女と少年の「遊び」の目線で描かれます。戦争による死が動物の死に代替されるわけで、ルネ・クレマンの企みです。これが『禁じられた遊び』が反戦映画と目される所以ですが、戦争による死は冒頭のポーレットの父母の死だけです。

 ミシェルは教会や墓地から「墓」に建てる十字架を盗み、これが父親バレて問い詰められますが、ミシェルとポーレットは十字架のあり場所を白状しません。やがて大人の世界がふたりの「禁じられた遊び」の世界を侵し出します。父親はポーレットを孤児として警察に引き渡します。ミシェル家の貧しさを考えると致し方のない判断でしょう。ミシェルは、十字架のある場所を教えるから連れていかなでくれと頼みますが、ポーレットは赤十字に送られます。

 赤十字で一人になったポーレットは、「ミシェル」と呼ぶ声を聞きます(ミシェルはありふれた名)。彼女は「ミシェル」「ママ」と叫びながら声の後を追います。気丈にもポーレットはここまで「ママ」とは一言も弱音を吐きませんでした、ここで映画は”FIN”。

 ルネ・クレマンは、フランスの農村を舞台に孤児のポーレットとミシェルの「禁じられた遊び」が大人の世界に飲み込まれてゆく様を詩情ゆたかに描いたことになります。それにしてもルネ・クレマンはずるい。いたいけない子供を正面に据えれば、誰だってポーレットとミシェルに振りかかった運命=戦争を呪うことになります。
 音楽はかの有名なナルシソ・イエペスの「愛のロマンス」。聞くところよると、予算不足で全編ギターだけになったそうですが、映画にとってもこれが幸いしたようです。

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監督:ルネ・クレマン
音楽:ナルシソ・イエペス
出演:ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリー

当blogのルネ・クレマン
海の牙(1947)・・・uボートの話です、潜水艦映画にハズレなし?。
禁じられた遊び(1952)・・・このページ
太陽がいっぱい(1960)・・・アラン・ドロン
危険がいっぱい(1964)・・・アラン・ドロン
雨の訪問者(1969)・・・チャールズ・ブロンソン
パリは霧にぬれて(1970) ・・・フェイ・ダナウェイ
狼は天使の匂い(1973)・・・ロバート・ライアン
予定 →鉄路の斗い(1945年)、鉄格子の彼方(1949年)、パリは燃えているか(1966年)

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夏休みの宿題・読書感想文 田渕久美子 ヘルンとセツ(2022NHK出版) [日記 (2023)]

ヘルンとセツ
思い出の記
 毎年この時期になると、夏休み宿題用の「読書感想文」をblogにupしています。そもそも、今でもそんな宿題があるのかどうか知りませんが、8月後半になると「読書感想文」のアクセスが増えるので、学校によってはあるんでしょうね。私が中高生の頃には必ずありました、恐怖の「読書感想文」。
 この1年読んだ本のblogから、面白そうなものを1冊取り上げていますから、blogの二番煎じでWポストです。

 今夏は、標題の一冊。ここの焼き直しです。面白いのは、有名な小泉八雲の『怪談』は妻セツの「語り」によって生まれたことです。暗い部屋で、セツが円朝の如く怪談を語り、ハーンがそれを聴き”Kwaidan”が生まれたようです。

### 読書感想文 本文 ###

田渕久美子 ヘルンとセツ   1年1組 駄犬ターボ
 ヘルンとは『怪談』の著者・小泉八雲ことラフカディオ・ハーン、セツはハーンの奥さん小泉セツ。セツがハーンに日本の民話、伝説を語り聴かせ、それが『怪談』になったと言われています。

 ハーンは、1890年(明治23年)新聞記者として来日し、島根県松江でお雇い外国人の英語教師となります。小泉セツは明治元年、松江藩の武士の家に生まれ、実家が没落したためハーンの住み込み女中となります。セツは離婚歴があり小泉家の多額の借金のため、お雇い外国人の女中兼「お妾さん」となったわけです。
 ハーンがセツに望んだのは、出雲地方の民話を語り聴かせることでした。新聞記者の取材は、後に『知られぬ日本の面影』、『怪談』に結実します。

 ハーンはとりわけ恐ろしい話が好きで、幽霊の話をするときは、

灯火の芯を短くして明かりをしぼった暗い部屋で、ハーンは見える方の目を見開きながら、セツの話を聞いていた。その姿は、怪談以上におそろしいものだった。(p190、元ネタ小泉節子『思い出の記』p42)

と作者は書いています。暗い部屋で女が出雲方言で「怪談」を語り、日本語のおぼつかない隻眼の異国の男が目を輝かせて聴いている、その光景そのものが「怪談」です。

 セツは憶えている噺を筆記しそれを読むと、ハーンは読むのではなく、「話して聞かせろ」と注文をつけます。セツはそれからは、前もって物語を暗記し、まるでそれがいま目の前で起こっているように語ります。”Kwaidan”(1904)は「噺家」セツの「語り」によって生まれたのです。

それにしてもとハーンは思う。セツはすぐにハーンの癖を憶え、何が好きか嫌いか、まるで自分のことのように理解して動く。これもまたハーンには「魔法」だった。この「察する」能力は日本人の美徳のひとつであると思っていたが、セツは飛び抜けているようだった。(p224)

このセツの「察する」能力が、言葉の壁を越えたのでしょう。1891年ハーンはセツと結婚し第五高等学校の英語教師として熊本に赴任します。ハーンは、4歳で 母親に、7歳で父親に捨てられ、大叔母に育てられたといいます。肉親の情の薄いハーンは異国に来て家族を得、セツとの愛情を育み『怪談』を生み出した話はなかなか感動的です。

###感想文、ここまで###

感想文.jpg Libreofficeで原稿用紙にしてみました。
 
原稿用紙3枚程度です。本書が面白い様でしたら、ネタ元の小泉節子『思い出の記 』(1914青空文庫)をお勧めします。
 芥川龍之介『南京の基督』(青空文庫)、六草いちか『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』もお薦めです。芥川はテーマがはっきりしているので書き易く、おまけに青空文庫で読めます。『鴎外の恋』は『舞姫』のモデル・エリスの謎を追ったノンフィクションで、ミステリとして読んでも面白いです。もっとも当blogの一番人気は山際淳司『スローカーブを、もう一球』、坂口安吾『ラムネ氏のこと』の2編です。

【当blogの読書感想文】

小林多喜二 『蟹工船』・・・青空文庫利用
芥川龍之介 『藪の中』・・・映画併用、青空文庫利用
山際淳司  『スローカーブを、もう一球
須川邦彦  『無人島に生きる十六人』 ・・・青空文庫利用
坂口安吾  『ラムネ氏のこと』 ・・・青空文庫利用
藤沢周平  『蝉しぐれ』・・・原稿用紙約3枚
吉村昭   『漂流』 ・・・原稿用紙約3枚
笹本稜平  『春を背負って』 ・・・原稿用紙約3枚
遠藤周作  『沈黙』 ・・・原稿用紙約3枚
百田尚樹  『海賊とよばれた男
夏目漱石  『こころ』・・・定番!
西村 淳  『面白南極料理人』・・・映画もあり
佐藤 剛  『上を向いて歩こう』・・・お馴染みの歌の話
門井慶喜  『銀河鉄道の父』・・・宮沢賢治です
馳星周   『少年と犬』・・・1910文字
伊集院静  『ノボさん』・・・1100文字
司馬遼太郎 『故郷忘じがたく候』・・・原稿用紙約3枚
川村裕子    『現代語訳 和泉式部日記』・・・原稿用紙約5枚
田渕久美子   『ヘルンとセツ』・・・原稿用紙約3枚、このページ

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中野孝次 ブリューゲルへの旅(1976、2004文春文庫) [日記 (2023)]

ブリューゲルへの旅 (河出文庫) 1.jpg 
 『ハラスのいた日々』つながりで、本棚から表題の本を引っ張り出してきました、再読です。中野孝次は、1976年に本書で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し世に出ます。本書は著者の処女作といってよさそうです。

紺の絣
 「そもそものはじめは紺の絣かな」とうたった詩人がいて、わたしはこの句にひどく感心した。・・・それはたとえばわたしの父の中心にたしかに生きていた世界であり、・・・果てしなく遡りうる無名の人びと全部のうちに、疑いもない人間の生の原型 としてあったなにかであろう。初めにはいつもそういう濃い深い闇の恐怖と、安らぎにつつまれた世界があったのであろう。

ブリューゲルへの旅は、日本の土俗的(前近代的)なものを象徴する「紺絣」から始まります。著者によるとそれは、闇の恐怖であるとともに安らぎに世界だと言います。

雪中の狩人
 中野少年は、紺絣からの脱出を図ります。何処へ?、それは隣家の旧制高校生の蓄音機から流れるチャイコフスキーであり、印象派の絵画であり、『トニオ・クレーゲル』の世界です。中野少年は独学で旧制高校に入学し、東京大学を経て大学教授へと「身を立て」ます。そんな著者の前にブリューゲルが現れたのです。

絵を見ながら連想は次から次へとび、それからわたしは、嘲るように一つの声を聞いた、「身を立て、名を挙げ、やよはげめよ」。結局われわれはこの百年間、この掛声に駆りたてられて盲目的に走ってきただけなのかもしれない。(p25)

「雪中の狩人」は、子供たちが遊び、人々が道を急ぐ姿を遠景に、三人の猟師が乏しい獲物を背に犬を連れとぼとぼと帰っていく冬の情景です。猟師は後ろ向きで顔さえ描かれていません。

わたしはその前で自分自身の半生と(わたしはそのとき四十一歳だった) 会話をかわしていることを発見したのである。・・・(ブリューゲルは)戦時下でさえ色濃くのこっていた(旧制)高校の教養主義的雰囲気へ、そしてそういうなかで芸術を日常的な世界とちがう異次元の価値にたかめてきた青年期以来のことへと運んだ。・・・わたしは、なんだか自分が途方もなく間違った道を歩いてきたような気がした。目の前に疑いもなく存在していたものを見ないために、ばかばかしいほどの迂路を通って、抽象的な観念世界をつくりあげてきたような気がした。だがここでは、ただの無名の人びとの日常世界が、 あるがままの姿でほとんど聖性にまで純化されているのである。(p24)

「雪中の狩人」を前にして、日常的な世界にも芸術があること、「紺の絣」を否定してそこからの脱出を図った自分の半生が果たして正しかったのかと考えたわけです。「濃い深い闇の恐怖と、安らぎにつつまれた世界」への回帰です。

雪中の東方三賢王の礼拝
 キリスト誕生の絵は、「ヨーロッパの美術館にはこの主題の宗教画はくさるほどあって、うんざりさせる」と記し、ブリューゲルの絵は、

ただ北国の冬の日の憂愁をおびた茶褐色の家々と、そこに営まれる日常を描いているだけである。・・・そのなかで、村人とほとんど見わけのつかぬ一団がいる。画面を斜めに走る路地のはずれに、なかば画面から追い出されかけて傾いた藁屋があり、そこにいる嬰児を抱いた被衣の女に二人の男が跪いているのだった。だが男たちも、それに従う者も、荷を積んだロバも、同じ茶褐色のなかにまぎれ、頭にも肩にも背にも、 一様に雪がしんしんと降り積って、すべては雪の中の景色にすぎない。だが、この目立たぬフランドルの寒村で、村人のだれからも気づかれずに起っていることこそ、あの人類史上の重大な出来事なのだった。やがて、悲しむ者、貧しい者、病める者、苦しむ者、彼の接した人びとすべての上に限度をしらぬ優しいなぐさめの手をさしのべるであろう人の誕生祝が、 このだれからも見捨てられたような一隅で起っているのだった。(p76)

キリストの誕生というという「聖」なる事件が、フランドルの寒村で村人に気づかれることもなくひっそりと起こっているのです。日常的な世界にも「聖性」があるわけです。ブリューゲルは「農民の画家」と呼ばれるように農民や庶民、時には障害者(いざり)を描いています。

(ブリューゲルの描いた世界は)農民の特性を少しも見逃さずに描きながら、見る者にこれが人間の営みだ、これ以外に人間の生はないのだ、これだけで充足して いるのだと感じさせる何かがある。「神の作ってくれた幸福な人間である」という安らぎと慰藉がある。

 本書は、戦中戦後を生きた知識人の、一種の精神的「退行」の告白であり、「紺絣」に戻ってやり直そうという転向の書です。ブリューゲルの絵画案内と思って読むとあてが外れます。
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雪中の狩人                                          雪中の東方三賢王の礼拝

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macメモ(12) ジャンクiMac改造 敗退記 [日記 (2023)]

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 ジャンクの液晶割れのiMacを半年ほど使い、最近ではすっかり常用PCです。あれこれアプリを入れて使っている間に、レインボーカーソルが回るようになりました。インターネットなどアプリを単独で動かす時にストレスは無いのですが、複数のアプリを動かすとモタツキます(メモリは8G)。で、SSDに換装しようと分解しました。 →但し敗退記ですw。

躓き1 iMac2012はUSB2.0だった →3.0でした
 コメントで、Macは外付けHDD、SSDからでも起動できると教えて頂き、外付けSSDにOSをインストールしようと考えたのですが...。USBポートの色が白、3.0は青の筈なんで本当に3.0?(そう云えばTimMachineのバックアップも遅かった)。Appleの仕様ではlate2012はUSB3.0なのですが、「このMacについて」を見ると2.0。2.0の転送速度は480Mbpsで3.0は5Gbpsですから、2.0です。2.0だとSSD換装の効果はあまり期待できない。外付けSSDは諦めてHDD→SSDに換装することに。 USB接続で起動可能です。

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液晶を外しSSDを載せる
 HDDの無いiMacで経験済み。ディスプレイ(液晶)は両面テープで本体に固定されているので、カードかヘラで剥がせば分解できます。ディスプレイと本体は2本のケーブルで接続されているため、このケーブルにストレスがかからない様に寝かせて作業
 Fusion Drive(HDD)はシリコンラバーのマウンタでビス4本で本体に固定されています。このラバーが静かな要因でしょうか。ビス4本は長さが異なりますから、対応をメモしておきます。トルクスドライバーが要りますが、マイナスドライバ+ペンチで十分外せます。慎重に分解してSSDに乗せ換えました。
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  FusionDrive             HDDマウンタ

躓き2 液晶割れ拡大
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 Windows?、 笑うしかない!     問題の破損箇所

 TimeMachineでバックアップを取ったHHDをつないでリカバリー・モードで立ち上げましたが、バックライトがつきません。こiMacは液晶割れで左上の隅が大きく破損し、クラックが何箇所かあります。破損部分を触ると一瞬立ち上がり、何とWindows10の壁紙が映りました。WindowsのノートからSSDそのまま移植したためでしょう →記念写真w。SSD換装そのもは上手くいったようです。元のHDDをつけるとCatalina島が一瞬映りますから、システムボードは生きているようです。SSD換装はうまくいったようです。
 敗退の要因は、ディスプレイの破損部分が分解に耐えられなかったことです。ヤフオクの説明には「割れが大きくなる可能性があります」とちゃんと書いてありました。この辺りがジャンクの難しいところで、動くか動かないか?のスリルと、動いた時の勝利感がジャンク漁りの醍醐味ですW。

 半年間Macで楽しく遊んだので、今回のジャンクは1勝1負。起動不良のiMacを探して、ディスプレイを移植してみます。インストールUSBメモリまで作って、2012Macに保証外のMontereyのインストールを目論んでいたので、後には引けませんw。

macメモ (1) iMac入手編
macメモ (3)  OSのアップデート
macメモ (5) iMac ジャンク
macメモ (7)  ここまでのiMac
macメモ(10)  外付HDDを使う
macメモ(12) SSDに入れ替え、失敗編・・・このページ

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江藤淳 犬と私(1966、1999三月書房) [日記 (2023)]

犬と私―第一随筆集  『ハラスのいた日々』に続き、亡くなった駄犬を偲ぶ第2弾です。著者は保守派の評論家・江藤淳。これも大昔読んだものの再読です。

犬と奥さん
 著者は犬(雌のコッカースパニエル、名前はダーキイ)を飼いはじめて3年、海外から招かれて2年の外国暮しとなります。奥さんは連れていらっしゃい、 犬は人間ではないから連れて来てはいけない、ということになります。で、著者は考えるわけです、

しかし、女房の本質と犬の本質は、それほど違うものなのだろうか。

話はアメリカのジェイムズ・サーバーの描く漫画に及びます。

私は、サーバーがその漫画に、女房をあたかも犬のように、犬をあたかも女房のように描いているのを見るたびに、ああなんという鋭い哲学的考察だろうそしてなんという繊細な男性的優しさだろうと、心から感心せずにはいられなかったのである。(p64)

奥さんも犬も同じ次元に存在しているわけです。著者は奥さんがいる部屋では原稿が書けないそうです。奥さんが出掛けて犬と二人きりになると、犬は書斎に入ってきます。

はいって来て、私の顔を眺めている。昔はおしっこが出たいのかと思ったものであるが、今は何をしに来たのかよくわかっている。彼女(犬)は私を憐んでいるのである。そして、男というものは、何でこんなつまらないことにむきになっているのだろうか、と変に智慧のありそうな眼で、少し首をかしげて不思議がっているのである。

犬がいると原稿が書けないとは言っていませんが、犬が自分を憐れんでいると感じるわけですから、同じことです。

犬を飼っているということは、二人女房を持っているようなものだ。・・・まったく同じ女房が二人いるという意味である。だから、女房を連れて来いというなら、犬も連れて行かなければならない。 犬を置いて行けというなら、どうして女房を置いて行ってはいけないのだろう。

犬が奥さんと同列の存在となっているわけで、逆に言うと江藤夫人も「二人の旦那がいる」と感じている筈です。結局、著者は犬を預けてアメリカへ旅立ちます。面白いのは、ダーキイもハラスも本当に懐いていたのは旦那の方ではなく奥さんの方だったということです。二匹とも奥さんの布団の端で寝ることで分かります。これは餌を与えるのが奥さんだと云うことと関係しているのかも知れません。ウチの駄犬もそうでしたw。

山川方夫
 犬の最期については記されていません。代わりにダーキイの散髪を扱った『犬のことなど』と『山川方夫のこと』の二篇はがそれに代わります。ダーキイは散髪すると全身がツルリと流線型になってオットセイかアザラシに似て来るそうです。 ツルリした印象が、交通事故で死んでしまった友人の山川方夫に重なります。

その山川と散髪したてのダーキイが向いあって坐っていたことがあったが、あれは何とも心愉しい光景であった。・・・もし私が突然この世を去ったら、ダーキイは同じように私を待つのであろうか? 「不在」と「死」との境界を犬は、 そして人間は、どこにもうけるのであろうか?。(p134)

『山川方夫のこと』で、著者は親友・山川から在米の著者に来た手紙を読み返し、

読み終って手紙の束を机の上に置くと・・・この手紙を書いた山川はもう地上のどこにも存在しないのだという現実が、否応なくおし寄せて来て私を耐えがたくさせた。それでもなお私には彼の死が信じ切れない。ある手紙に山川は書いている。「あるとき、君の家の電話のダイヤルをまわしかけ、われにかえってギクリとした。君は東京にいないのだった」まったく同じように、私は、彼の家に電話しようかと考えはじめている自分に気がついて、ときどきギクリとする。そしてあらためて思ったりする。(p287)

親友の喪失も愛犬の喪失同じことです。

山川はその前で私が「無私」になり切れる数少いというよりはほとんど唯一の友人であったとでもいうほかはない。(p289)

山川のことを書いているのですが、愛犬ダーキイにも通じる記述です。中野孝次が「遊びをせんとや生まれけん」と書いた犬のまえでは、江藤もまた、「無私」になり切れる数少いというよりはほとんど唯一の友人であった、筈です。問題は、「不在」と「死」との境界を何処に設けるかです。

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中野孝次 ハラスのいた日々 増補版 (1987,1990文藝春秋) [日記 (2023)]

ハラスのいた日々 増補版 (文春文庫 な 21-1)  本書は、ドイツ文学者、中野孝次が愛犬ハラスと暮らした13年を綴ったエッセーです。この手の本は、江藤淳『犬と私』、内田百閒の『ノラや』を読みましたが、保守論客の江藤の犬への溺愛振りや、『阿房列車』の洒脱な随筆家、内田百閒が居なくなった猫を恋々と綴る様を読むと、愛犬、愛猫は文人と言えど変わりありません。
 ハラスが亡くなって『ハラスのいた日々』が生まれ、愛猫ノラが失踪して百閒センセイは『ノラや』を書くわけです。犬なり猫なりが居なくなって生まれるエッセイです。

主人の帰りを待ちわびている犬が、主人と出会った際の描写です、

 人間にはとうてい不可能なくらい、犬は全身でよろこびをあらわす。跳び上がって主人にからだをぶつけ、手といわず顔といわず舐め、声をあげて安堵と歓喜のさまを示す(中野孝次『犬のいる暮し』)

ほんとうにその通りです。帰宅した時、犬が出迎えてくれる喜びは犬を飼った者にしかわかりません。

遊びをせんとや生まれけむ
 著者は志賀高原にハラスを連れて行った時のエピソードです。スキーヤーがゲレンデを去った夕刻からは、近所の15,16頭の犬たちの饗宴が始まるというのです。

(ハラス)は冬山に滞在中毎日、その夕方の犬の饗宴に加わるのを最大のたのしみとするようになったのである。犬たちが集ったり、散ったり、上になり下になり遊んでいる。 次第に暗さを増してゆく西空の最後の明るみの下で、なかば凍ったゲレンデ上の寒気に身慄いしながら、わたしはそのさまをいくら眺めていても倦きなかった。(p62)

著者は犬たちの臥い転ぶ(こいまろぶ)様子を見て「梁塵秘抄」の一節を思い浮かべます。犬と人間の至福の瞬間です。

犬と共に老いる
犬が人間にとって本当にかけ替えのないもの、生の同伴者といった存在になるのは、犬が老い始めてからだ。・・・老いの徴候をいやおうなく見せだしたあと、彼はなにか悲しいほど切ない存在になる。からだをまるめて眠っている姿を見つめていると、「生ハ悲シ」といった思いがふつふつと湧いてくるようである。(p159)

 「生の同伴者」たるハラスに最期が訪れます。著者が外出、奥さんが買い物に行っている間に主人を待つように門扉の内で亡くなります。

十三年間つねにそこにいた存在が突然いなくなった。だが、私と妻との感覚の中にはいまだに彼が存在しつづけていて、日常なにかの折に「ああ、もういないのだな」と意識させられるのである。(p192)

 いずれは死ぬと覚悟はしているものの、死は突然訪れます。ウチの駄犬(ターボ)は、8歳で我が家にやって来て家族の一員として9年近く共に暮らし、突然いなくなりました。動物霊園の共同墓地に埋葬したので、志賀高原のハラス様に他の犬と仲良く遊んでいることでしょう。

 本書に収められている荒畑寒村が愛犬マルに死なれた時に作った歌は胸を打ちます、

来ん世には犬と生れてわれもまた 尾をうち振りてマルと遊ばな

犬のいる暮し (文春文庫)KIF_0512.jpg 在りし日の駄犬ターボ

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アイザック・ウォルトン 釣魚大全 (グーテンベルク21) [日記 (2023)]

釣魚大全
 『チャリング・クロス街84番地』で、著者のヘレーンはロンドンの古書店から挿絵の綺麗な『釣魚大全』を手に入れます。ヘレーンが『釣魚大全』を手にするには、注文の手紙と納品で大西洋を隔て2週間以上かかったのではないかと思います。今ではインターネットの1クリックで、電子本であれば即時に入手できます。
 で、1クリックで読んでみました。待ち焦がれて手に入れた感動に比べると、如何にも安易、安直、感動の薄い御時世です。

 初版は1653年ですから370年前の本です。糸と針と竿で魚を釣るという一点においては、370年前も今も何も変わることはありません。ウォルトンによると釣りは「芸術」であり、「釣魚道」だそうです。何処が 芸術で道なのか?。例えば第4章「マスの餌について。 フライ(毛バリ)の作り方、生き餌の保存の仕方について」、

五月蝿の毛バリは、その胴を緑がかった刺繡糸か、萌黄色の刺繍糸で作るといいのです。つまり、蠟引きの絹糸で胴の大部分をくすんだ色に仕上るか、黒い糸で脇腹を作るかその脇腹の幾本かは銀糸で巻いたりしたらいいのです。 ウイング(翅)は、その季節に、いやいや、その日に、水の上を飛んでいる虫と同じ色にします。

羽虫に似せた毛バリの美しさは芸術的です。毛バリの「翅」にいたっては釣りの日に飛んでいる虫に似せてその場で作ると云うのですから、この拘りはまさに「釣魚道」です。

 「淡水の狼」と言われるパイク(カワマス)の話です。

パイクは実際、大胆・貪欲で、かつ残忍な性質を持っており、ゲスナーは、その猛烈さをこんな話で紹介しています。ある男が驢馬に水を飲ませようと池に連れてきたところ、突然パイクが水の中から飛び出してきて、驢馬の舌に食いついてきたのです。おそらくパイクはその池の魚を全部食いつくしてしまったのでしょうね。驢馬はパイクを水から釣りあげる結果になって、この男はこんな思いもかけぬ珍事で、魚を手に入れたという次第なのです。

わが国にも鹿を丸飲みしたというイトウ(サケ科)の伝説があります。釣り人にとって、獲物は大きいにこしたことはありません。

・・・この話と一緒にある賢人の「空きっ腹を説得することはむずかしい。なぜなら胃袋には耳がないから」という言葉をお伝えしておきましょう。

 笑い話です。パイクを釣る話に続いて、パイクを食べる話です。パイクの捌き方から始まって、

肝臓は別に残しておいて細かく刻み、タチジャコウソウとマヨナラ(ハッカ類の一種)と、少量の山紫蘇を混ぜ合わせ、それへ塩漬けの牡蠣少々と鰯二、三匹を加えます。 ・・・ それに生バターを一ポンド加え、細かく刻んだ薬草と一緒にし、全体をよく塩るのです。一、二切れの肉豆(ナツメグ)と一緒にこれをよく混ぜたものを、魚の腹の中に詰め、
葡萄酒と鰯とバタ―とを混ぜ合わせたタレをかけながら焼くそうです。釣った魚は自分で調理して食す、釣人の正しい在り方ですw。

 という様な釣りの蘊蓄が13章にわたって続きます。面白いかというと、370年の時間差は否めません。今なら、開高健の『私の釣魚大全』『フィッシュ・オン』でしょうか。

私の釣魚大全 (文春文庫 か 1-2)【電子特別版】オーパ! (集英社文庫)

タグ:読書
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Evernoteで「映画」index [日記 (2023)]

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イエスタデイを検索 → indexのイエスタデイ → blogのイエスタデイ

 こっちの続きです。 Evernoteで読書のindexを作ったところ以外と便利なので、映画のindexも作ってみました。暇に任せてNHK・BS、レンタル、最近ではAmazonPrime、2008年~2022年に観た映画は1,000本を越えていると思います。題名を見たただけでは内容が思い出せないので、blog検索用のindexです。
 最近面白い映画に出会っていないので、これを機会に古い映画のDVD探し出して観てみます。

タグ:スマホ
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iphone上陸15周年 [日記 (2023)]

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W-ZERO3 [es]とザウルス        SonyのPalmと初代Xperia 

 7/11はiphoneが上陸して15周年だそうです。iphoneは日本のスマホの7割のシェアを持っているそうで、ウチの家族も私を除いて全員がiphone。スマホという言葉が無い頃から「携帯端末」(昔はPersonal Digital Assistantと言った)を使ってきた身には、我が家の「猫と杓子」がiphone触っている光景をどう理解していいものやら...。私のスマホ歴は、

2004~5年頃:AH-K3001V(京ポン)
→ブラウザ搭載(eメールも)、スケジュール、アドレス管理が出来るガラケー。
2006年:W-ZERO3 [es](PHS、OSはWindows Mobile) に乗り換え、キーボード付きのスマホ。
2007年:iphone誕生。
2008年:7/11、iphone日本で発売
2010年:b-mobile(MVNO)+T-01A(Windows Mobile)に乗り換え
2011年:Xperia(android)に乗り換え
2012年:iijに乗り換え、Xperiaのrom焼き
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 結局、iphone登場以前に格安sim+androidでモバイル・スタイルが出来上がったため(例えばスマホで使うために広辞苑をepwing化、当時iphone用地図ロイドはなかった?)、iphoneに乗り遅れたわけですw。その間、何時の間にやらPalmとZaurusは脱落し、京ポン、W-ZERO3の後継は育たず、MSはmobileから撤退しAppleの一人勝ちとなりました。iphone上陸後の15周年は、残念なことに京セラ、シャープ、SONYなど日本勢の凋落の15年とも言えます。乗り遅れましたが、android載った怪しい中華スマホとFirefox、Evernote等でそこそこ快適なmobile lifeです。

 Macを使いだし相性のいいiphoneは使ってみたいです。あと、iphoneで映画が撮れるくらいですからカメラも気になります。  

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Balin,at your service [日記 (2023)]

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 何のことかと云うと、映画『ホビット』の話です。AmazonPrimeに、『ホビット 思いがけない冒険』の英字タイトル”The Hobbit: An Unexpected Journey”があります。右上の《字幕と音声》で、字幕、オーディオが選択でき、Englishを選ぶと英語、Françaisを選ぶと仏語になります(但し、日本語は無い)。
 英語の教材に適当ではないかと、試してみました。ビルボの家にドワーフのバーリンが訪ねてくるシーンです。字幕では「バーリン、お見知りおきを」。これをどう言っているかというと、”Balin,at your service.”。ナルホド。
 少し観たのですが、会話が速すぎて私の耳(頭)ではついて行けませんw。

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