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映画 二十四時間の情事(1959仏日)  [日記(2018)]

二十四時間の情事 ヒロシマ・モナムール アラン・レネ HDマスター [DVD]  原題、”Hiroshima mon amour”、『ヒロシマ・モナムール』。広島に「平和」に関する映画撮影に来たフランスの女優と日本人男性の24時間の恋を描いています。原爆が背景にありますから反戦映画と見るか、それともラブストーリーと見るかです。”Hiroshima”を取るか”mon amour”を取るかですが、じつは分かちがたく結びついています。


君はヒロシマで何も見なかった(男)
全てを見た、病院へ行った、資料館に4回行った(女)

と男女の会話と女のモノローグにのせて、情事の映像(手と背中だけ)と原爆のニュース映像が交互に映し出されます。映画撮影で広島を訪れた女優と日本人男性が恋に落ち情事に発展したようです。いきずりの恋です。女は明日帰国するため、ふたりに残された時間は24時間、これが邦題の由縁です。
 ふたりの出会いも、名前も明らかにされません。名前が無いことも、この映画の企みです。ヒロシマ1.jpg ヒロシマ2.jpg
 冒頭の男女の会話がこの映画で重要な意味を持ちます。会話はほとんど女のモノローグで、彼女はニュース映像や資料館の原爆の惨状を語り出します。

 (原爆投下後)二週間後、広島は花に覆われた、焼け跡から花が咲く (女)
 それは作り話(男)

それは記憶の美化だと男は言います。

 愛の中にもそんな幻想はある
 決して忘れないという幻想
 ヒロシマを前に 忘れないという幻想を抱いた
 愛の幻想と同じ

 あなたのように私も忘却を知っている(女)
 君は忘却を知らない(男)
 私にも記憶がある 忘却も知っている(女)
 君に記憶はない(男)
 あなたと同じように 私も全力で忘却と闘った
 あなたと同じ 私も忘れた
 私も癒やされぬ記憶を持ちたかった 影と石の記憶を
 私も全力で闘った
 なぜわすれてはならないかを 見失う怖さを相手に
 あなたと同じ 私も忘れた
 記憶が要るのは当然なのに なぜ否定するの?(女)

 男が記憶を失ったという発言はありませんから、「あなた」とは男ではなく擬人化された「ヒロシマ」ではないかと思われます。ヒロシマの記憶とは、ニュース映像であり、原爆ドーム、資料館に残された原爆の資料です。戦争が終わって14年の1959年、ヒロシマは原爆の記憶は風化し、女もまた「全力で忘却と闘った」記憶が風化したということの様です。
 話はヒロシマの原爆から「記憶の忘却(風化)」に、女の「癒やされぬ記憶」に移ります。「愛の幻想」という言葉が出てきますから、愛に関わる記憶なのでしょう。

 女の記憶が徐々に明らかになります。女はヌヴェール(仏エニーヴル県)で育ち、18歳の時ドイツ兵と恋に落ちます。ヴィシー政権下でナチス・ドイツがフランスを占領していた頃です。20歳の時、それはフランスがドイツから解放される時、ドイツ兵と女は駆け落ちを約束し、待ち合わせの場所でドイツ兵は村人に殺されます。敵兵と関係を持った女は村人の制裁を受け、髪を切られ丸坊主にされます。これが女の記憶です。
 女は「全力で忘却と闘った」にもかかわらず、記憶は忘却の淵に沈みつつある。原爆の記憶の風化と自分の愛の記憶の風化を重ね、ヒロシマで男と出会い、男の中にドイツ兵を見つけ行きずりの恋に落ちます。

 ラストの男と女の会話、

 あなたの名はヒロシマ(女)
 君の名はヌヴェール(男) ・・・FIN

 ヒロシマとフランスのヌヴェールが繋がり、時空を越えてふたつの記憶が出会う物語です。これが男と女に名前が与えられずアノニマスであった理由です。『夜と霧』のアラン・レネが描いたもうひとつの「戦争」です。

監督:アラン・レネ
脚本:マルグリット・デュラス
出演:エマニュエル・リヴァ 岡田英次

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絵日記 久々に自転車 大威徳寺の紅葉 [日記(2018)]

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 大威徳寺(岸和田)の紅葉を見に行ってきました。自転車で自宅から17kmほどですが、300mまで登るのはキツいです(もちろん帰りは楽ちん)。今回も、地図ロイドで”ルート作成”して臨んだので迷うこと無く、久々にサイクリングを楽しみました。サイクリング用のアプリはいろいろあるようですが、山歩き兼用の地図ロイドがスグレモノです。
 坂を下る爽快さを体験すると、また何処かへ行きたくなります。
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タグ:自転車
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映画 緑の光線(1986仏) [日記(2018)]

緑の光線 (エリック・ロメール コレクション) [DVD]  原題、”Le Rayon Vert”。パリの若い女性のヴァカンスの顛末を描いています。というか、若い女性がペチャクチャお喋りする映画です。ほんとうによく喋ります。

【バカンス】
 デルフィーヌ(マリー・リヴィエール)は、間際になって友人からギリシアへのヴァカンス旅行を断られます。フランス人にとっては「人間が生きていくため必要なもの」だそうですから、1ヶ月もあるバカンスをパリで暮らすなどとんでもない話。特に若い男女にとっては、バカンスは”aventure”に他なちません。デルフィーヌがピアリッツで出会うスェーデン娘などはその典型で、男との出会いを求めてフランス、スペインを旅行しています。恋人と別れたデルフィーヌのバカンスの目的もそれに他なりません。恋人と別れて2年、この夏もまたひとりかと思うとため息が出るわけです。
 一人で旅行するのは嫌、団体旅行も嫌、でも男とは出会いたいと逡巡するデルフィーヌは、友人に「白馬に乗った王子様の出現を待つか、行動するか?」と言われていしまいます。

【シェルブール】
 友人の一人が、デルフィーヌをシェルブールの別荘に誘ってくれます。友人の家族に囲まれてそれなりのヴァカンスなのですが、一人で海で泳ぎ、食事では菜食主義だと肉料理を断り、ヨットに誘われても酔うからと断ります。
 君に何か言うと 返事はいつもこうだ
 興味ないわ やめておく
と家族は評します。男が声を掛けてきますが、何だかんだ言って一歩が踏み出せず、ヴァカンスを楽しめないデルフィーヌはパリに戻ります。

【ビアリッツ】
 パリに帰っても孤独。元恋人の滞在する山岳地帯(アルプス?)に向かいますが、再開をためらい会わずにパリに戻り、友人の誘いでビアリッツに向かいます。ホテルの一室でひとり食事を摂り、砂浜でひとり日光浴。
 浜辺でスェーデン娘と出会います。彼女は男との出会いを求め(男をヒッカケに)ひとりでフランス、スペインを旅行しています。デルフィーヌは、
 私には何もない 何かあればとっくに恋人はできている
 取り柄があれば 人も寄ってくる 恋人に捨てられたのも 自分のせい
 誰も近づいてこないのは 私に何の価値もないから
と涙を流す始末。恋人とは、別れた、振ったから捨てられたに変化していますから、これがデルフィーヌの本音でしょう。スェーデン娘はデルフィーヌのために男をひっかけますが、臆病な彼女はホテルに逃げ帰ります。一歩が踏み出せない、冒険が出来ない。臆病というよりも、自意識過剰でしょう、それは。

 ピアリッツで、道端のオバサンたちの会話から「緑の光線の」の意味が明らかにされます。「緑の光線」は、太陽が沈む時に見られる珍しい現象で、それを見た人は幸福になれるという言われているそうです。

【リュズ】
 パリに帰るために駅で列車を待っていると、デルフィーヌが読んでいたドフトエフスキーの『白痴』が契機となって(そんな本読んでるから恋ができない?)、ひとりの青年と知り合います。ここまで来ると、デルフィーヌも自分の性格に嫌気がさしていたのかもしれません。青年はリュズに帰るところで、いい街だからとを誘います。デルフィーヌはついに一歩を踏み出します。ふたりはリュズで降り、岬に行って「緑の光線」を見るわけです。
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 これだけの話です。男に臆病な娘がシェルブール、アルプス、ピアリッツと放浪し、リュズで恋に出会った「かもしれない」という話で、その後どうなったのかは描かれません。キャサリン・ヘプバーンの『旅情(1955)』を連想します。面白いかというと、デルフィーヌに感情移入できるかどうかでしょうね。スレッカラシのオジサンには、小娘がゴタクを並べている?、という感想です。エリック・ロメール66歳の作品だということには脱帽します。私がタイトルをつけるとすれば、『見るまえに跳べ』(大江 健三郎)ですね。

監督:エリック・ロメール
出演:マリー・リヴィエール

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映画 いとこ同志(1959仏) [日記(2018)]

いとこ同志 クロード・シャブロル監督 Blu-ray  原題、”Les Cousins”、邦題はそのまま「いとこ同士(志)」。生い立ちも性格も異なる従兄弟同士シャルル(ジェラール・ブラン)と ポール(ジャン=クロード・ブリアリ)の物語です。
 シャルルは大学に入学し、従兄弟ポールのアパートに同居することになります。前途洋々たる新入生の生活が始まる冒頭のBGMはまるで葬送曲のようで、この映画の結末を暗示しているかのようです。

いとこ同士
 ポールは広いフラットに住みスポーツカーを乗り回しすいう裕福な学生。ポールの子供を身ごもったという女性が現れますから女性関係も派手。連日パーティを開いて騒ぎ、遊び回っています。四畳半の下宿と60年安保という当時の日本の学生とは雲泥の差です。
 一方のシャルルは、地方からパリに出て来て裕福な従兄弟のフラットに間借りしますから、こちらは普通の学生。母親の期待に答えるため真面目に大学に通い、故郷に手紙を書き、愛読書はバルザック。自分の学生時代を振り返るとシャルルの方に感情移入しますね。
フロランス
 シャルルがフロランス(フローレンス、ジュリエット・メニエル)に一目惚れしたことから、ストーリーは動き出します。フロランスはポールのパーティの常連ですから、彼同様勉強より遊びが優先の学生。都会の洗練されたフロランスは、この地方から出てきた真面目なシャルルに興味を懐きます。これを聞いたポールの友人はフロランス言います、
大勢の男と寝ていて 童貞相手に処女気取りか
清純なフリで騙すのはよせ 寝るか関わらないかだ
 けっきょくフロランスはポールと関係を持ち、この事実を告げられたシャルルは、
恨んだりしない 順番を待つよ

何だそれは!。フロランスはポールのフラットで暮らし、フロランス、ポール、シャルル3人の奇妙な共同生活が始まります。
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アリとキリギリス
 学生ですから試験があります。資格試験なのか進級試験なのかよく分かりませんが、シャルルはこの試験のため一生懸命勉強してきたわけです。試験をひかえ、シャルルは試験勉強を勧めますが、ポールは
勉強が足りないぶんは 俺の巧妙なやり方で補える
おれはここぞというときの勝ち方を知っている
とうそぶくのみ。
 周囲は、シャルルは合格するだろうが、遊び呆けてきたポールは落第すると見ています。ところがポールは合格(詰まりは不正を働いた)。ポールの合格を祝ってドンチャン騒ぎのため、翌日の試験(シャルルの試験はポールより1日遅い)に備えて最後の追い込みが出来ずシャルルは不合格。

 「アリとキリギリス」の寓話を真逆でゆく結末に疑問をいだいたシャルルは、壁に掛かっている拳銃に1発だけ弾を込め眠っているポールにロシアンルーレット。弾は発射されずセーフ。ここまで来ると結末は想像がつきます。翌朝、ポールはソファーに放置された拳銃を手に取り、シャルルに向けて戯れに引き金を引きます。弾は発射されシャルルは死にます。

 ヌーベルバーグ版「アリとキリギリス」の映画です。

監督:クロード・シャブロル
出演:ジェラール・ブラン ポール:ジャン=クロード・ブリアリ ジュリエット・メニエル

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映画 ヘッドライト(1956仏) [日記(2018)]

ヘッドライト HDリマスター版 ジャン・ギャバン/フランソワーズ・アルヌール [DVD]  原題”Des Gens Sans Importance”、「重要でない人々」が何故「ヘッドライト」になるかというと、主人公がトラック運転手だからです。原題の方が映画の雰囲気をよく伝えています。監督は『地下室のメロディー』『ダンケルク』のアンリ・ヴェルヌイユ、主演は『望郷』『大いなる幻影』のジャン・ギャバン。この顔ぶれでモノクロとくれば渋いという他はない映画です。


 パリ、ボルドー間500kmを往復するトラック運転手のラブストーリーです。ジャン・ギャバンはどちらかと言うと強面のギャングのイメージがありますが、四十歳超えてラブストーリー?。

 ジャン(ジャン・ギャバン)は、トラック運転手の溜まり場のカフェに立ち寄り、1時間半眠らせてくれと部屋に上がります。『バグダッド・カフェ』のようなところです。ジャンはベッドに横になり、2年前のクリスマスイヴに思いを馳せます。
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 ジャンはボルドーに近いこのカフェで、ウェイトレスのクロチルド(通称”クロ”、フランソワーズ・アルヌール)と出会います。ジャンはパリの線路際のボロアパートに住み、17歳の娘を頭に3人の子持ち。仕事がら家を留守にしがちで、たまに帰れば妻、娘と喧嘩が絶えず安息の場が無いという存在。クロもまた、母親と継父のいる実家には居づらく田舎のカフェでウェイトレスをしているという境遇。タイトル通りの”Des Gens Sans Importance”。ふとしたはずみで父娘ほど歳の離れたジャンとクロが恋愛関係になります。父親のいないクロはジャンに父性を求め、妻との折り合いのジャンは、若いクロに青春の幻影を見たのかも知れません。ジャンとクロの行く末は、モノクロームの映像の如く”noir”。この映画にカラーは似合いません。似合うのは、青空ではなく夜と霧と雨。

 二人の逢瀬は、ジャンがカフェに立ち寄る束の間。時間が無ければ短い言葉を交わすだけ。おまけにパリとボルドーの遠距離不倫。ボルドー往復の度にカフェに立ち寄ることが会社に知れ、ジャンは路線変更を命じられ会社を辞めます。待てどもジャンはカフェに現れず、クロは妊娠を告げる手紙を書き、返事がないためパリに行きホテルの掃除婦として働き出します。クロとの仲、クロが妊娠していることが妻と娘に知れジャンは家を出ます。失業し不倫がバレて家出、愛人は妊娠という八方塞がりの中で、クロは子供を中絶します。

 ジャンは牛を運ぶ仕事に就き、クロとの新しい生活を始めるために彼女をトラックに乗せてボルドーへ向かいます。中絶手術で体調を崩したクロは、500kmのトラックの旅に耐えられず、夜の雨と霧の中くしくもジャンと出会ったカフェで命を落とします。

 1時間半が過ぎて、ジャンは2年前のクリスマスイヴから始まった恋の回想から現実に立ち帰ります。中年のトラック運転手とウェイトレスの恋と死、エミール・ゾラの国の映画です。

監督: アンリ・ヴェルヌイユ
出演:ジャン・ギャバン フランソワーズ・アルヌール

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映画 最高の人生のつくり方(2014米) [日記(2018)]

最高の人生のつくり方 [DVD]  邦題の「最高の人生のつくり方」に似たタイトルは、『最高の人生の見つけ方』『最高の人生のはじめ方』などなど、どれも監督がロブ・ライナーです。「作り方」「見つけ方」「はじめ方」ですから、笑ってしまいます。原題は”And So It Goes”。「そういうもの」「そういうこと」とでも訳すのでしょうか、こちらのほうがシャレてます。
 出演はマイケル・ダグラス(1944~)、ダイアン・キートン(1946~)で、爺さん婆さんのラブストーリーです。人生100年時代の昨今では、60代は熟年かもしれません。こういう映画が成り立つというのは、アメリカのベビー・ブマー(団塊の世代)が、爺さん婆さんになったからでしょう。まさに、ベビー・ブマーのベビー・ブマーによるベビー・ブマーのための映画です(笑。

 不動産屋のオーレン(マイケル・ダグラス)は、妻を亡くした独り身、性狷介で嫌味な爺さんです。自宅を860万ドルで売りに出し、これも自らが所有するアパート「リトル・シャングリラ」に住んでいます。自宅が売れたら仕事から足を洗って故郷に帰り、悠々自適の生活を送ろうかという結構な身分。嫌味な爺さんで、アパートの住民は敬遠気味。日本でも、こういう人はいますねェ。
 音信の途絶えていた息子が、刑務所に入るから一人娘のサラを預かってくれと突然現れます。模範囚なら半年で出られるから短期間でいいと、おまけに野良犬付き。息子は、かつて薬物に溺れオーレンに勘当されていたようです。気ままな生活を乱されては堪らないと、オーレンは孫の養育を拒否します。「私が預かる!」と割って入るのが、オーレンの隣に住むリア(ダイアン・キートン)。夫を亡くし、クラブ歌手をしている64歳。こうして、爺さん婆さんが10歳の孫娘と犬を養育する話が始まりますが、孫娘はストーリーの取っ掛かりで、本筋はオーレンとリアの老年の恋です。

 老年の恋でも恋は恋、女心は変わりません。事の終わった後オーレンが直ぐにベッドを離れたため、リアは傷つきます。68歳のダイアン・キートンはなかなか可愛いです。マァなんだかんだあって、孫娘を仲立ちにふたりは和解し、わだかまりの溶けたオーレンは息子に弁護士を付け息子を刑務所から助け出します。家が売れますが、オーレンは故郷に帰らずリアと暮らす「人生のつくり方」を選択します。
 そんなうまい話はないだろうとは思いますが、団塊の世代見果てぬ夢でしょう。

監督:ロブ・ライナー
出演:マイケル・ダグラス ダイアン・キートン

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司馬遼太郎 胡蝶の夢(3) [日記(2018)]

胡蝶の夢〈第3巻〉 (新潮文庫) 胡蝶の夢〈4〉 (新潮文庫) 続きです。
 松本良順、伊之助(司馬凌海)、関寛斎を主人公とした『胡蝶の夢』は、蘭方医学が江戸時代の身分制を突き崩して行く物語です。良順は将軍を診る奥御医師ですが出自は町医、伊之助は佐渡の質屋の伜、寛斎は農民。蘭学、医学を学ぶことで身分制度的の垣根を越えます。作者は「江戸身分制社会というものを一個のおきものとして作者地震が肉眼で見たい」ためにこの長い物語を書き始めたということです。

 江戸の身分制は、日常生活のなかでは「分際」という言葉で人々を縛ります。作者によると、
 分際とは、封建制のなかで、身分ごとに(こまく分ければクラスの数が千も二千もあるがずである)互いに住みわゆくための倫理的心構えもしくはふるまいのことで、封建制を構成するための重要な倫理的要素だ
といいます。「分際をわきまえない」と共同体から制裁を受け分際を教え込まれ、人は身分制の殻に閉じこもることになります。伊之助が周囲から受けた迫害?や「いじめ」「意地悪」はこの分際をわきまえなかったことによります。

 江戸末期になると、身分と分際を超える道が開かれます。武芸と学問です。技術を身につけることで、身分の垣根を超えることが可能と可能となります。多摩の農民の息子が直参旗本「格」となり、周防の村医が講武所教授を経て兵部大輔となるのは、いずれも武芸と学問によるものです。学問の習得と社会階層の上昇がワンセットになった明治維新の功利主義は、後の学歴偏重と無縁ではなさそうです。

 ポンペが長崎で始めた無差別診療は、江戸の身分制の一角を切り崩しました。「医者は病者と共にある」とうポンペの教えを受けた良順は、被差別民の棟梁・弾左衛門を治療し、差別の撤廃を老中に働きかけます。将軍の侍医で医学所頭取、海陸軍医総裁が弾左衛門を治療するなど一昔前であれば考えられないことであり、蘭学、医学という客観的事実を重視する思考方法は、身分、分際という観念的ものを吹き飛ばしたということです。

す。作者流に言うなら
 (ポンペやカッティンディーケが教えた)蘭学ー医学、工学、兵学、航海学ーといった技術書の叙述に本質的に溶けこんでいるオランダの市民社会のにおいから、それを学ぶものはまぬがれることはできなかった。

 教育、学問が明治維新どう準備したかという興味で、『胡蝶の夢』を読み始めました。蘭学、蘭方が身分制を破壊してゆくあたりは圧巻です。

タグ:読書
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ジョン・フォード 駅馬車(1939米) [日記(2018)]

駅馬車(デジタルリマスター版) [DVD]  今更ですが、『駅馬車』です。西部劇のベスト10には必ず顔を出す名作中の名作。何故これほど評判がいいのか?。インディアンが駅馬車を襲うという危機に、駅馬車に乗り合わせた人々の物語が絡むというところに尽きます。この偶然乗り合わせた乗客という設定は、『駅馬車』独自のものではないそうで、wikipediaによるとモーパッサンの『脂肪の塊』がヒントになっているらしいです。



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 乗客とは、アル中の医者ブーン(トーマス・ミッチェル)、娼婦のダラス(クレア・トレヴァー)、美人の妊婦(そうは見えない)、ギャンブラーのハットフィールド(ジョン・キャラダイン)、酒商人銀行家。途中から脱獄囚のリンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)が乗り込んで総勢7人+御者と保安官。この保安官が乗り込んでいるのがポイント。
 アル中の医者と娼婦は街を追い出され仕事を探しに駅馬車の次の到着地ローズバーグ(ニューメキシコ州)へ、妊婦は夫の騎兵隊大意のもとへ、ギャンブラーは妊婦の護衛を買って出、銀行家は横領して逃亡、脱獄囚は家族を殺された仇を追っている等、それぞれがそれぞれの事情をかかえて駅馬車に運命を託します。アル中の医者は酒商人のサンプルの酒を飲み、ギャンブラーは美人の妊婦を気遣い、銀行家は挙動不審、脱獄囚は悠然と構え、インディアンの襲撃の危機迫る駅馬車は疾駆します(駅馬車ゆく駅馬車はゆく♫)。

 途中の宿駅で妊婦が産気づき、飲んだくれの医師が子供を取り上げます。この赤ん坊の誕生は一行の行末に希望を暗示しているかのようです。騎兵隊三部作にある恋模様は、脱獄囚と娼婦の恋。駅馬車はインディアンの襲撃を受け、御者とギャンブラーは撃たれ弾が尽き絶体絶命のなか、騎兵隊の突撃ラッパが響き渡るあたりは西部劇の王道です。

 ローズバーグに到着し、脱獄囚は娼婦を残して敵討ちの決闘に臨みます(決闘まであるんです)。決着をつけた脱獄囚は保安官に自首しますが、保安官は逮捕せず脱獄囚と娼婦を馬車に乗せて送り出し、HappyEnd。
 インデアンの襲撃あり、騎兵隊あり、決闘ありという西部劇の王道に、駅馬車の乗客の七人の人生があり、脱獄囚と娼婦の恋まであります。この辺りが名作と言われる所以でしょうか。

監督:ジョン・フォード
出演:ジョン・ウェイン トーマス・ミッチェル クレア・トレヴァー

【当blogのジョン・フォード】
* 駅馬車(1939) ジョン・ウェイン トーマス・ミッチェル
* モホークの太鼓 (1939) ヘンリー・フォンダ クローデット・コルベール
* 怒りの葡萄(1940) ヘンリー・フォンダ ジェーン・ダーウェル
* タバコ・ロード(1941) チャールズ・グレープウィン エリザベス・バターソン
* 荒野の決闘(1946) ヘンリー・フォンダ ヴィクター・マチュア
* アパッチ砦(1948) ジョン・ウェイン ヘンリー・フォンダ
* 三人の名付親(1948) ジョン・ウェイン
* 黄色いリボン (1949) ジョン・ウェイン、ジョアン・ドルー
* リオ・グランデの砦(1950) ジョン・ウェイン モーリン・オハラ
* 長い灰色の線 (1955) タイロン・パワー モーリン・オハラ
* 捜索者(1956) ジョン・ウェイン ジェフリー・ハンター
* バファロー大隊(1960) ジェフリー・ハンター ウディ・ストロード
* 馬上の二人 (1961) ジェームズ・スチュアート リチャード・ウィドマーク
* 西部開拓史(第3話)(1962) ジョージ・ペパード
* リバティ・バランスを射った男(1962)  ジョン・ウェイン ジェームズ・ステュアート
* シャイアン(1964)  リチャード・ウィドマーク キャロル・ベイカー

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ジョン・フォード 長い灰色の線(1955米) [日記(2018)]

 原題”The Long Gray Line”。「長い灰色の線長い灰色の線 [DVD]」とは、その服装からウケストポイントの士官候補生を指します。士官学校の格闘主任助手を50年にわたって勤めたアイルランド移民マーティー・マー(タイロン・パワー)の話です。

 士官学校の食堂のウェイターとして働き、後に陸軍に入隊し士官学校の格闘主任に気に入られその助手となります。士官学校は士官を養成する学校ですから、卒業すれば少尉に任官されます。マーはに入学したわけではなく、昇進しても下士官。舞台はウエストポイントですが、描かれるのは士官候補生を支える格闘技主任の助手の50年の人生です。身分は伍長、軍曹で、士官学校アメフトチームの監督、世話役のようなものでしょう。とは言っても、華々しい活躍が描かれわけではありません。マーが主人公たる所以は、軍人を育て、彼らに父の如く慕われた裏方の一生を描くことで、(アメリカ人の大好きな)愛国や正義を裏から描く意図があったのでしょう。士官候補生ではなく一介の教官助手が主人公であることがこの映画のポイントです。

 もうひとつはアイルランド移民。ジョン・フォード自身アイルランド移民の子ですから、アメリカという国が移民によって成り立っていることを、マーティー・マーに仮託しているのでしょう。マーはアイルランド女性(モーリン・オハラ)と結婚し、ふたりは父親と弟を米国に呼び寄せています。

 先に来た移民が既得権に居座り、後から来る移民を排斥するドイツ移民の子孫は、『長い灰色の線』をどう見るでしょうね。

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 面白いと言うほどのことはありません。西部劇以外のジョン・フォードということであれば『怒りの葡萄』が見ごたえがあり、『タバコ・ロード』『静かなる男』『わが谷は緑なりき』があります。

監督:ジョン・フォード
出演:タイロン・パワー モーリン・オハラ

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絵日記 やっと屋根修理 [日記(2018)]

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 台風21号で瓦がずれた屋根の修理が、やっと完了しました。垂木や漆喰を修理したりで2日がかり。今回来ていただいた職人さんの車のナンバーは、熊本と水戸!。聞いてみると、職人が足りず応援だそうです。

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