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ゾルゲ伝 (4)マックス・クラウゼン [日記 (2023)]

ゾルゲ伝――スターリンのマスター・エージェント (新資料が語るゾルゲ事件)
受信機.jpg クラウゼンの手作り無線機     

マックス・クラウゼン
1935年、ゾルゲはモスクワに戻ります。目的の一つは、無能な無線係ヴェントの代わりに上海での仕事仲間クラウゼンを東京に呼び寄せることでした。

クラウゼンは、技術的にも、常に危険の中で働くことができるという点でも、ゾルゲから見て圧倒的に優れた無線技師であった。しかし、上海と広東でゾルゲと最後に仕事をしてから二年の間に、クラウゼンの第四部との関係はほとんど崩壊に近いほどに悪化していた。厄介であったのは、クラウゼンの妻アンナであった。 アンナ・ワレニウスの亡き夫は、ボリシェヴィキに工場を没収され、夫妻は持てるものだけで上海に逃げることを余儀なくされた。・・・ベルジン(赤軍 第四部 諜報部長)はアンナを厄介者扱いし、一時はマックスとの結婚をすら承認せずにいた。一九三三年秋、ハルビンの無線技師を最後に、クラウゼンがモスクワに呼び戻されたとき、第四部はアンナを中国に残すよう主張した。中国のビザはクラウゼンの配偶者にも発行記載されていたため、モスクワに戻るためにあるソ連諜報員をダミーの妻として用意するということさえ提案した。(p188)

 アンナは反ソ的な人物として赤軍情報部から忌避されていた様です。クラウゼンは、2度までモスクワの呼び出しを無視しますが、3度目に応じゾルゲの招聘に応じ1935年東京に赴任します。1936年にはアンナも来日します。

⁠クラウゼンは文化アパートメントに部屋を借り、即席の送信機の製作に取り掛かった。・・・クラウゼンの「技術的能力と仕事への熱意は限りなく高かった」とゾルゲは記している。彼がこつこつと作り上げた無線装置はヒース・ロビンソンの装置と似ていたのかもしれないが、その性能は格別であった。 受信機のために、クラウゼンは日本製の普通のラジオ部品を代用し、ースとスピーカーを捨てヘッドホンにし、ラジオ部品の店で見つけたアメリカ製真空管三本を追加して短波受信用に改造した。送信機は木箱にベークライト板を貼り付けたもので、真空管とコイルは簡単に取り外すことができた。チューニングコイルは京橋の金物屋で購入した自動車用のガソリンチューブで作った。 この装置はスーツケースの中に収まるように作られていた。

クラウゼンはハンドメイドで無線機を組み立てたのです。当時、ラジオの契約数は1931年の100万が1940年には500万と急速に普及しています。無線機を組み立てる部品は容易に入手でき、部品の購入も怪しまれなかったのでしょう。

 クラウゼンは、最初は林業機械の輸入を試み、次に強力なツェンダップのオートバイを輸入していた(そのうちの一台をスピード狂のゾルゲに売ったが、後にこれが運命的な結末を迎えることになる、ツェンダップ・フラットツィンK500)。だが、最終的に成功したのは設計図複写機の製造・販売であった。 一九三七年初め、第四部の最新の秘密営利事業は正式に「M・クラウゼン商会」として登録された。(p215)

 ゾルゲが東京で乗り回し事故を起こしたバイクは、クラウゼンが輸入したものだった様です。事故後、ゾルゲはダットサンを乗り回しています。後に、ゾルゲが二重スパイを疑われ資金の供給が半減させられた時、諜報団は「M・クラウゼン商会」の利益で生き延びます。
ツェンダップ.jpg olddatsun2.jpg
 ゾルゲの愛車ツェンダップ       ダットサン

一九三六年二月、クラウゼンは機器のテストを始めた。屋外にアンテナを設置することはできないため、シュタインの家の天井に七メートルもある錫メッキの銅線を二本張り巡らせた。また、送信機は持ち運びできるが変圧器は持ち運べない。そこで、クラウゼンはシュタインの家の屋根裏に常設変圧器を置き、その後も送信に使用する場所には必ず新しい変圧器を置くことにした。この変圧器の大きさを除けば、クラウゼンの装置は驚くほど目立たないものであった。一〇分で梱包を解き、五分で解体することができた。最初の実験から一週間も経たずに、クラウゼンはかつて上海から通信していた、ウラジオストク「ヴィースバーデン」のお馴染みのソ連軍通信機と最初のコンタクトをとった。装置には波長測定機器がなかったため、クラウゼンは即興で送信用波長を三七三九メートル、受信用波長を四五四八メートルとした。 その予想は見事に的中した。(p205)
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クラウゼンによってモスクワとの安定した通信回線が確保され、ヴーケリッチが作成したマイクロフィルム(伝書使によって上海に運ばれた)とともにゾルゲの「成果」は赤軍に届くことになります。

アンナ・クラウゼン
 クラウゼンの妻アンナは1938年にゾルゲ諜報団の伝書使となり、以後18回も上海にマイクロフィルムを運びます。アンナはマイクロフィルムと交換に諜報団の経費6,000ドルを受け取ります。

アンナはすぐに自分へのご褒美として毛皮のコートを七百ドルで買い、ハンブルクの夫の個人口座に五百ドル送金し、さらに香港上海銀行の個人口座に一千ドル入金した。夫の仕事のためにさらに買い物をした後、金はほとんどなくなった。 何年も前から諜報団の経費を捻出するために、ゾルゲはマックスの仕事の利益を自由に使っていたので、クラウゼン夫妻から見れば、完全にフェアな状態であった。・・・第四部の現金のほとんどはクラウゼン一家の懐に入り、モスクワの金で設立された事業の利益が、クラウゼンにあるのかセンターにあるのか、どちらに権利があるのか、という不可避の問題が発生する。この問題は一九三九年初めに、ゾルゲが諜報団会計業務をクラウゼンに委任したことで、自分の給料と経費だけでなく、ブランコとエディット・ヴーケリッチの給料も支払わなければならないという事実により、らに複雑になった。(p263)

アンナもなかなかやりますw。こんな面白い話の原典は『ゾルゲ事件 現代史資料集3』で、本書の多くは、ゾルゲ事件容疑者の供述をまとめた『現代史資料集1~3』です。

日本軍の軍事費が大幅に増加し、さまざまな技術的な依頼を受けるようになったことで、クラウゼンの設計図ビジネスは大いに潤います。

 一九三九年末までに、クラウゼンは自分の工場を開き、年間一万四千円の純利益をあげていた。彼は日本陸軍のために奉天に支店を開設し、三井、日立、中島の機械製造工場や海軍省とも契約していた。 クラウゼンはメルセデスを乗り回し、妻はミンクの毛皮を身にまとっていた。(p285)

クラウゼン商会の成功とともに共産主義への信奉と諜報活動に疑問を抱くようになり、1940年11月からゾルゲの報告書の一部を破棄したり、省略して送信するようになります。(p303)

東京での数年間で、日本人はプロレタリアート独裁がなくても十分に満足しているように見える、とクラウゼンは感じるようになった。 「この国に共産主義は必要ない」と彼は判断したのだった。 クレムリンにいる幹部たちについては、スターリンがロシア帝国再建のために共産主義の夢を犠牲にしたと感じていた。かくして、「スパイの仕事は無意味だ」と結論づけた。モスクワからの命令で、個人的に資金を提供するよう指示されたことが、クラウゼンの最後のとなり、彼はついに「モスクワと関わらない」ことを決意した。どうやら、ゾルゲの怒りを恐れていたクラウゼンは一九四一年一月まで「そのような指示は受け入れられない」と上司に伝えずにいたらしい。だが、その間にも彼はゾルゲ センターそしてかつての卑屈な自分自身への、ささやかな報復を果たした。一九四〇年十一月から、クラウゼンはブルゲの報告書の一部を破棄し始めた。

 クラウゼンはゾルゲと共に1941年逮捕され無期懲役の判決を受けますが、1945年の終戦で開放され、アンナと共にソ連経由で東ドイツに渡り、1979年に亡くなっています。ドイツ大使であったオイゲン・オットと共に、ゾルゲ事件の数少ない生き残りです。 続きます。

(2) 諜報団

タグ:ゾルゲ 読書
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