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ゾルゲ伝 (2) ゾルゲ 東京へ [日記 (2023)]

ゾルゲ伝――スターリンのマスター・エージェント (新資料が語るゾルゲ事件) ゾルゲ 東京へ
 1932年12月にゾルゲは上海からモスクワに召喚され、次の任地東京が命じられます。

満州侵攻後の日本の対ソ政策如何は、クレムリンにとって最も緊急性の高い関心事であった。第二次世界大戦が近づくにつれ、その関心はますます高まっていた。ゾルゲの主な役割は「日本がソ連攻撃を計画しているかどうかという問題を、最も注意深く観察すること」であり、「それが私の日本での任務の唯一の目的であったと言っても過言ではない」と、後にゾルゲは日本人尋問官に語っている。(p125)

 ソ連は、1905年の日露戦争の敗北、1910年の朝鮮半島併合、1918年のシベリア出兵と、3度にわたって日本の「侵略」を受けています。元をただせば、ロシアの南下政策が原因であり、日本は安全保障上戦争に踏み切り、朝鮮を併合したわけです。シベリア出兵は、英米と歩調を会わせたロシア革命への干渉戦争です。必要以上の大動員だったことも事実でバイカル湖にまで軍隊を送り樺太(サハリン)を占領しましたから、日本の領土的野心を疑われても仕方が無い部分はあります。ロシアの南下が安全保障上の脅威であったように、ソ連にとっては背後の日本の存在が脅威だったようです。他国への侵略には侵略される恐怖が付きまとういう悪循環です。

 赤軍四部がゾルゲに与えた任務は、日本の対ソ政策を探ることでした。それは7項目からなります。
1)日本はソ連を攻撃する計画があるのか?。 
2)ロシアに向けられるかもしれない日本陸軍と航空部隊の再編成強化の兆候はあるのか?。
 3)ドイツと日本は同盟を結ぶ予定があるのか?。
4)日本は中国でのさらなる拡張を計画しているのか?。
5)ソ連を包囲するために日本はイギリスやアメリカと何らかの取引をする可能性があるか?。 
6)日本陸軍の国策に対する影響力は増大しているか?。 
7)日本の猛烈な工業化はどうなっているのか?。

つまりゾルゲの仕事は、日本が単独で、あるいはドイツと同盟を組んでソ連に侵攻する意図があるかどうか、そのための装備がどの程度整っているかをモスクワに知らせ続けることであった。(p187)

1)について、御前会議の南進策をスクープして日本にソ連侵攻の意図が無いことを知らせ、ソ連は極東の戦力を東部に移動し独ソ戦に勝利します。結果的にゾルゲは十二分に任務を達成したことになります。

ゾルゲの諜報網
 1933年9月に横浜に上陸したゾルゲは、ベルリンで入手した紹介状よってドイツ大使館と交誼を結び、ワシントンで駐米大使から入手した紹介状によって外務省の情報部長・天羽の歓迎を受け…と人脈を広げてゆきます。

 東京の外国人の拠点は帝国ホテル。帝国ホテルの近くにはバーやレストランを備えナチス党の会合が開かれるドイツ倶楽部があります。また、銀座にはドイツ料理店「ローマイヤ」やビアホール「ラインゴールド」があり、ゾルゲはこれらの施設や店でドイツ人コミュニティーでの交際関係を広げたものと思われます。10月にはオイゲン・オットを名古屋の連隊に訪ね、これを機にふたりは関係を築き、後にオットは大使館武官、大使となって多くの情報をゾルゲにもたらします。

 ゾルゲの諜報網は、1)ゾルゲが直接統括する尾崎、宮城、ブーケリッチ、クラウゼンのグループ(ゾルゲ諜報団)、2)オットを頂点とする大使館、3)ドイツ人グループ、4)ゾルゲが特派員として所属する「フランクフルター・ツァイトゥング」周辺のジャーナリストの4グループです。1)は裏の諜報網、2)3)4)は表の情報網。ゾルゲは在日のナチ党員グループの長に推されるほどの信用をドイツ人社会で得ていた様です。ジャーナリストとしても、ゾルゲの情報量と分析よって、一目置かれていたはずです。

ゾルゲ諜報団
 10月、赤軍四部の無線係ブルーノ・ヴェントが来日し、先に来日していたユーゴスラビア人ヴーケリッチの二人がゾルゲに合流します。後にヴェントはゾルゲに無能の烙印を押され、クラウゼンと交代させられますが。ヴーケリッチは、イギリス、フランス、アメリカ人コミュニティへのスパイとして、写真の現像、マイクロフィルムの作成など諜報団の写真家として活動し、自宅は無線局の基地となります。
 ヴーケリッチは、コミンテルンのメンバーでアメリカから帰国していた宮城与徳に向けて「ジャパン・アドバタイザー」紙に浮世絵を買いたいと広告を出し、1933年12月、二人は二つに切ったドル紙幣を使いお互いを確認します。ゾルゲは上野の画廊で宮城と会い、ヴェント、ヴーケリッチ、宮城のゾルゲ諜報団が成立します。ゾルゲは宮城に満足せず、上海時代のメンバーであった尾崎秀実(当時大阪朝日外信部記者)をリクルートします。宮城が尾崎を訪ね、ゾルゲと尾崎は奈良の猿沢池の畔で接触します。

尾崎の自白は、彼がモスクワのスパイであることを最初から意識していたことを示唆している。

「私は…我々の活動の諸部門の中でソ連防衛の一役は最も重要なものの一つであると考えていました」 「ソ連を防衛する手段として対ソ進撃の世界的勢力の中で最も有力なる日本内部の各般の事情を的確にコミンテルン乃至はソ連政府に通報して之が対策を講ぜしむると云うことは、私たちにとって最も重要な任務でした…私は日本に於ける共産主義者としては此の困難な割の悪い仕事に従事することこそ、寧ろ誇るべきことであるとまで密かに考へることもあった様な次第であります」

と、尾崎は後に警察に語っている。(p169、原典は『現代史資料・ゾルゲ事件2』p131)

1934年、朝日新聞のシンクタンク「東亜問題調査会」が設立されて尾崎は東京に転勤、尾崎を加えたゾルゲ諜報団が完成されます。さらに、ドイツ大使ディルクセンが病気となり、東京に帰っていたオットが大使館の実施的トップとなります。同年9月、オットは満州を公式訪問しますが、ゾルゲが公式随員として同行しています。

 わずか1年の間に、ゾルゲは、赤軍情報部との通信回線を確立し、諜報団を組織し、独大使館への浸透を図ったわけです。

(2) 諜報団

タグ:ゾルゲ 読書
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