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梶山季之 族譜・李朝残影 ① (岩波書店2007) [日記 (2020)]

族譜・李朝残影 (岩波現代文庫) 李朝残影
 川村湊の『妓生―「もの言う花」の文化誌』で、気になる記述があります。日韓併合下の朝鮮で、日本人の画家と妓生(朝鮮の芸妓)の関係を描いた梶山季之『李朝残影』について

宗主国(支配する者)と植民地(支配される者)を、男女の性的な関係に重ね合わせてイメージする「植民地主義」的な物語の組み立て方がある。

という記述です。梶山だけではなく、中島敦、田中英光などの同様の小説は「植民地主義」的だというのは、「自虐史観」ではないかと思ったので現物に当たってみました。

 『李朝残影』は、「妓生」と日本人の青年の関わりを描いた小説ですが、前提が付きます。
前提1)
 妓生はこの時代には、酒席に連なり春を売る存在に堕ちていますが、李朝時代の妓生は宮廷に深く関わり吉原の花魁も遠く及ばない存在であった。英順の宮廷舞踊は朝鮮という国の伝統の象徴でもある。
前提2)
 舞台は日韓併合時代。主人公・野口は宗主国である日本の青年で、朝鮮を支配する側の人間。
前提3)
 ヒロインの金英順は、日本が支配する植民地・朝鮮の女性。「芸は売るが体は売らない」誇り高い美貌の妓生。支配者である日本には媚びず、日本の男とは絶対に寝ないと宣言している。

 京城(ソウル)の学校で美術を教える野口は、鐘路の裏通りの飲み屋で医大の教授と知り合い、妓生の舞う朝鮮宮廷舞踊に出会うことになります。美しい金英順の舞いにたちまち魅せられ、彼女に絵のモデルを依頼しますが、厳しく撥ねつけられます。熱心に口説き、踊る姿をデッサンするくらいなら、と渋々の承諾を得ます。英順に、朝鮮の踊りを描きたいのか私を絵にしたいのかどっちだ、と聞かれ、

僕が絵にしたいのは、宮廷舞踊でも、あなた自身でもない。踊りのなかに、あるいは、あなたの中に隠されている……なんというか、朝鮮の美しさなんだ。滅びつつある朝鮮の風俗、それの持つ哀しい美しさを、僕はかいてみたいんだけど……

 英順は、野口が口にした「滅びてゆくものの美しさ」という言葉に心打たれ、モデルを引き受けます。

朝鮮の美しさとは、野口良吉にとっては、自分より三歳年上の、金英順という女性の美しさではなかったのか。日本人の男とは寝ないことを宣言し、あらゆる権力に反抗している妓生が、金英順なのだ。梨薑酒のように不可思議な匂いと味をもった朝鮮の女……。それが金英順ではないのか。野口は、舞の美しい線よりも、朝鮮民族には珍しく彫りの深い顔立ちよりも、彼女のもつ影の部分、なぜ、そんな冷たい態度をとるのかという、暗い過去の部分を、まさぐり取ろうとしていたのではなかったろうか?

 野口は、宮廷舞踊の「滅びてゆくものの美しさ」よりも「梨夏酒のように不可思議な匂いと味をもった朝鮮の女」金英順に魅いられたのです。宗主国の青年が、日本と日本人を嫌う植民地の女性に恋をしたわけです。英順は頑なに日本人を拒否しますから、叶わぬ恋。ふたりの間にある溝は、国家と民族、支配と被支配の関係。野口は、英順は、この溝をどうやって飛び越えるのか?。
 軍人であった野口の父親が、朝鮮独立運動家であった英順の父親を弾圧・虐殺した事実が浮かび上がり、野口はあっさり振られます。なんだ・・・たかが朝鮮の妓生じゃないか!。腹立ち紛れとはいえ、日本人・野口にも朝鮮人に対する蔑視があるわけです。

 野口が英順を描いた『李朝残影』は朝鮮総督府主催の「鮮展」に入選しますが、モデルが妓生であること、題名の「李朝」という文字が民族主義的であるという理由で、憲兵隊は題名の変更を迫ります。憲兵隊長が英順に執心し、手厳しく撥ねつけられたという裏の事情まであります。野口は抵抗し、『無題』と付け「鮮展」出展を拒否したことで留置所に放り込まれ暴行を受けます。「鮮展」は、国家が後押しする国家の催しですから、国家に対する反逆だというわけです。

 整理すると
1)英順は父親を日本人に殺され、日本と日本人に恨みを抱いている →日本人に媚びず日本の男とは寝ない
2)野口は英順に恋し、踊りを口実に近づくが手厳しく撥ねつけられる。野口の欲しかったのは、英順の「心」であり、「体」だった。
3)野口の父親が英順の父親を殺したことが判明し英順に振られるが、日本人であることと彼女の父親殺害は、野口自身に責任はない。
4)野口の父親が英順の父親を殺したのは、英順の父親が過激な朝鮮独立運動に加わったため。軍人であった野口の父親は職務としてこれを弾圧し殺した。
5)野口が『李朝残影』の改題を拒み「鮮展」に出展を拒んだことは、憲兵隊(日本帝国)の支配の論理に抗うことになる。

つまり、すべては日本帝国の朝鮮支配に収斂することになります。

 作者・梶山季之は、支配(日本)・被支配(朝鮮)の関係を野口と英順の関係に持ち込み、日本人であるが故に野口は英順を失い、英順の矜持(宮廷舞踊=朝鮮)を守るために日本(憲兵隊)に抗う日本人を描いたことになります。

川村湊は、『妓生―「もの言う花」の文化誌』で、

ここには、宗主国(支配する者)と植民地(支配される者)を、男女の性的な関係に重ね合わせてイメージする「植民地主義」的な物語の組み立て方がある。支配する性としての男性が宗主国側であり、支配される性としての女性が植民地側のものであるという紋切り型の筋立て

と書き、野口が憲兵に暴行を受けることは、作者の「自己処罰」だとします。これをもって「植民地主義的」とするのか?、小説『李朝残影』はもっと別のところで成立しているように思います。

 梶山季之は、1930年京城で生まれ中学まで朝鮮で過ごし、敗戦によって15歳で日本に引き上げています。少年時代を過ごした朝鮮への郷愁、少年・梶山季之が京城の地に埋めてきたものを、「梨薑酒のように不可思議な匂いと味をもった」と形容される美しい舞姫・英順の姿として描いたのではないか。
 梨薑酒を飲んでみたくなる小説です。

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