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村井章介 中世倭人伝 (3)~異国の中の中世~ (1993岩波新書) [日記 (2021)]

中世倭人伝 (岩波新書) IMG_20210923_0001.jpg 三浦(サンポ)
三浦
 15世紀になって、李朝は、倭寇に貿易を認め(興利倭人)日本の諸勢力の使者という名義での来朝を許可し(使送客人)、国内居住を認める(恒居倭)などの倭寇懐柔策をとります。1407年頃、この倭人の貿易船・興利倭船のために慶尚道の富山浦(釜山)、金海の乃而浦を開港します。1426年には対馬の者早田左衛門太郎の要請に応じて蔚山の塩浦が追加され、富山浦・乃而浦・塩浦の三つを「三浦(サンポ)」と総称するようになります。三浦には「倭館」よぶ接待所兼商館が設置されます。金海≒任那の日本府と云う辺りが面白い。

たてまえ上は三浦はたんなる入港場にすぎず、倭人の滞在は、ソウル往来のさいの行き帰りや、浦所倭館での取り引き期間のみ許されるにすぎなかった。だが倭人たちは、取り引きの不調、風待ち、船の修理などさまざまな理由をつけて滞在をひきのばし、ついには三浦に家を建てて住みつく者があらわれた。しかし朝鮮は、倭寇懐柔という原則から、あくまで居住を阻止するという態度はとらなかった。ほどなく三浦は事実上の倭人居留地へと姿を変えていく

 三浦に許可されたの居住人数は1436年には266人、それが1466年にはなし崩し的に1650人、1494年には3105人まで膨れ上がります。

 三浦は、李朝の役人の警察権が及ばず遠隔のため対馬の宗氏も取り締まりも緩く無法地帯だったようです。倭人の活動は貿易にとどまらず、漁業をやり田畑を買って農業にまで手を出すというやりたい放題。李朝は課税を考えたようですが、すでに宗氏の役人が住民から手数料を取っているため諦めざるを得ない、と打つ手無し。で、三浦の倭人はというと、

港に住みつく倭人には、商人も遊女もおり、使送船や興利船が入港すると、むらがって客引きをし、男女の嬌声がひびく。他の港からも酒を売りにくる者がいる……。まるで瀬戸内の港町を思わせる光景だ。

 元々は倭寇をなだめるために認めた三浦が、倭人の居留地・自由都市となってしまったわけで、李朝としてはまさに踏んだり蹴ったりです。
 この章のタイトルは「三浦ー異国の中の中世」、まさに朝鮮半島に中世日本が出現した感があります。

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