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伊集院 静 ミチクサ先生 下 (2021講談社) [日記 (2022)]

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 続きです。
留学
 漱石は熊本で結婚し人生の新たなスタートを切ります。慣れない結婚生活で夫人が神経症となり入水自殺を図るなどの影の部分もありますが、長女も生まれ漱石は概ね幸せであったというのが作者の見方です。

名月や十三円の家に住む
安々と海鼠の如き子を生めり

 旧制高校は大学の予備校でもあり、漱石は入試のために課外授業をし落第生の救済までする熱心な教師だったようです。漱石は五高教授からイギリス留学を命じられます。文部省から課せられた英語教育の研究は放擲、ケンブリッジにも通わず個人教授を受けシェークスピアを研究します。本を買うため乏しい留学費用を切り詰め、下宿で英文学と格闘する姿を見て、ロンドンの日本人が「夏目狂セリ」と電報を打つ始末。

 他人には「狂っている」と写る漱石も彼なりの楽しみも見出し、盛んに美術館を巡りをしています。『坊っちゃん』には赤シャツの語るターナーの風景画が登場しますが、この時観た絵画、ミレイ『オフェリア』、リヴィエラー『ガダラの豚の奇跡』、ウォーターハウス『人魚』『シャロットの女』が作品に登場するそうです。検索してみましたが、精神分析の対象となりそうな絵ばかりですw。
 下宿の主人に、神経症を直すには旅行と運動がいいと言われ、漱石は自転車の練習をしています(自転車日記)。
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 子規の訃報に接したのもロンドンです。

筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋

 ロンドン留学の2年間は暗いイメージで捉え勝ちですが、美術館巡り、スコットランド旅行、自転車練習と、楽しいこともあったということでしょう。

小説家
 高浜虚子が漱石に小説執筆を依頼します。漱石は留学中に虚子に頼まれ『ホトトギス』に『倫敦消息』を書いて載せています。虚子は原稿(猫)を読み、掲載号の部数を2倍に決定します。『ホトトギス』明治38年1月号に『猫』が掲載され、これが評判が良く完売?、虚子は通常の2倍の原稿料を払います。原稿料を前にした鏡子は、

「あら、ずいぶんと頂くものなんですね」
虚子が金之助に礼を述べながら差し出した原稿料の入った封筒を覗いて、鏡子が言った。
「これ、こんなところで中を見るんじゃない。高浜君が目の前にいるんだよ」

見てきたような話ですが、これは評伝ではなく小説。単行本となって発売されると初刷1,000部がたちまち完売で印税150円。さらに1,000部刷りまたも印税150円が入り、鏡子夫人はニンマリ。この時の漱石は、帝国大学の年俸が800円、一高が700円で計1,500円。

 4月号には、『猫』の続編に加えて『坊つちやん』が掲載されます。句誌『ホトトギス』は通常1,000部売れればいい方ですが、4月号は5,500部売れたそうです。
 明治30年代後半から、40年代前半にかけて、旧高校は7校に増え、大学も東北、九州に帝大が新設され、慶応義塾、早稲田、明治、法政など専門学校が大学となり、そこに学ぶ学生が読者として小説家・漱石を支えたことになります。

 日清、日露戦争で読者を増やした新聞が、新しい書き手として漱石に目を付け、漱石は明治40年、朝日新聞に入社します。結果的にですが、漱石は博士、帝大教授を蹴ったわけで、40歳の華麗なる転身です。何故漱石は朝日新聞に入社したのか?。明治40年正月の菅虎雄と高浜虚子に宛てた手紙には、

もうつくづく教師の仕事は嫌になった。イギリスから帰国して、自分がこれから何をすべきかを考えてみた。わかっていたことは、安寧に毎日を送ることだ。それが私の神経には一番良いらしい。ところが、千駄木の家から帝国大学にむかって道を歩くと、学舎が近づくにつれ、胸の奥からイライラとする黒いかたまりが湧いて来て、門をくぐる頃には、もう爆発しそうになってしまう。いつ爆発してしまうか、私にもわからない。
うつ病、適応障害です。そうした折に朝日新聞から入社の誘いがあり、朝日新聞の示す入社の条件は、

月給二百円。賞与は二回。賞与のうち六月には五十円の特別賞与も加える。新聞社に出社するのは、月に二回。ただし、新聞小説の連載が始まれば欠勤してよい。金之助は朝日入社を決意し、契約書にサインした。十日後、帝国大学へ退職願を提出した。帝国大学では金之助の待遇について大変に気遣い、英文学の教授に迎えようとしていたところだった。

 明治41年6月、朝日新聞に『虞美人草』の連載が始まり、大正5年絶筆『明暗』まで、漱石は律儀に小説を書き続けます。
 「漱石」というと構えてしまいますが、肩の凝らない読み物としてそれなりです。『猫』から読み返してみようか...。

タグ:読書
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