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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 2』③ 日露戦争 、韓国の保護国化(2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 2: 近現代 (世界歴史大系) 日露戦争.png
 中国とアメリカの間で揺れ動く現在の韓国は、末期李朝(大韓帝国)を彷彿とさせ、現在のイギリスと日本の接近は1902年の「日英同盟」を連想します。韓国・中国・アメリカの関係は、李朝・ロシア・日本の関係に置き換えること面白いです(中国=清は滅亡(1912)一歩手前で、日露に割って入る力は無かった)。朝鮮史は面白いです。
 
日露戦争(日韓議定書→第一次日韓協約)
 日露関係が緊迫する情勢下で、1904年1月、韓国政府は中立を宣言します。日本はこれを無視して2/6連合艦隊を出動させ半島南部の馬山の電話局を占領し、2/8には仁川に上陸、旅順港夜襲、仁川沖海戦によって日露戦争が開始されます。 
 2/23、日本は漢城(ソウル)を制圧して韓国に「日韓議定書」を結ばせ、韓国の独立と安全補償と引き換えに、内政干渉、日本軍の朝鮮半島での行動と韓国政府の便宜供与を認めさせます。
 議定書は一方では韓国皇室の安全康寧の保証、韓国の独立および領土保全の保証を謳っていたが、軍事・内政・外交のすべての面にわたって日本の干渉や無制限に近い行動を許すものであり、韓国の独立は危機に直面することになった。
 
 8/22には第一次日韓協約が結ばれ、日本政府は顧問を送り込み、財政・外交の実権を握ります。内政まで奪われた高宗は、日本の敵国であるロシアに密使を送って泣きつき、これが1905年3/26に露見し、協約第3条(外交は日本政府と協議)違反で第二次日韓協約締結に至ります。
 
韓国の保護国化
 (1905年4月)日本政府は「韓国保護権確立の件」を閣議決定し、韓国の外交権を奪って保護国化する方針を定めた。日本はこれに基づいて、ほかの列強から韓国の保護国化への同意を取りつけていった。7月にはアメリカと桂・タフト協定を、8月にイギリスと第二回日英同盟を結んで、アメリカのフィリピン支配、イギリスのインド支配を承認するのと引き換えに、日本の韓国保護国化を承認させた。9月には日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、ロシアも日本の韓国保護国化を承認した。

 これが帝国主義の世界です。アメリカがフィリピンを、イギリスがインドを支配したように、日本が朝鮮を支配したのです。イザベラ・バードが『朝鮮紀行』で「 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない(朝鮮紀行)」と見抜いた改革=支配を実行したわけです。イザベラ・バードは、1894~1897年の間に4度朝鮮を訪れています。1898年出版の『朝鮮紀行』で1904に始まる日本の韓国併合を予見していたわけです。

 インドに比べ、これといった産物もなくマーケットとしても人口の少ない朝鮮を、日本が植民地にするメリットは余り無いわけです。植民地経営というより、日本が支配しなければいずれロシアの植民地になるという安全保障上の理由で、朝鮮に進出したと思われます。ロシアの南下政策と日本の恐露病が半島で角突き合わせ、朝鮮は日本に飲み込まれたのです。
 独立を保つためには、李朝は近代化による富国強兵政策を取る必要があったと思われます。急進開化派の金玉均、朴泳孝は、明治維新をモデルに朝鮮近代化を目指し「甲申政変」を起こしますが守旧派に潰されます。イザベラ・バードの言うように内部改革の能力が無かったのです。中国の冊封を受け何事も中国に寄りかかる歴史(朱子学の事大主義)が改革の芽を詰んだといえます。
 
第二次日韓協約 (1905)→ 第三次日韓協約(1907)
 11月17日、日本軍が漢城市内に出動するなか、伊藤大使、林公使はその臨席のもとに慶運宮内において韓国政府の会議を開かせた。伊藤大使は各大臣に保護条約案への賛否を問い、反対した参政大臣韓圭尚を室外に連れ出させた。外部大臣朴斉純、法部大臣李夏栄は反対意思の表示が不徹底であったために賛成とみなされ、学部大臣李完用、内部大臣李址鈴、軍部大臣李根沢、農商工部大臣権 重 顕は条文のわずかな訂正を条件に賛成した(度支部大臣閔泳綺は反対した)。これに続いて朴斉純をして林権助公使とのあいだに条約に調印させた。これが「乙巳保護条約」(第二次日韓協約)である。伊藤大使の圧力に屈して条約案に賛成した六大臣のうち李夏栄を除く五大臣は「乙巳五賊」と称され、売国奴として厳しく指弾されることとなった。(P61)
 
 伊藤博文の有無を言わせぬ強硬姿勢が目に見えるようです。第二次日韓協約により、外務省が韓国の外交を監理指揮し、条約の締結を禁止し、全条約を引き継ぎ、韓国の外交権をすべて取り上げます。
 1907年に、高宗は協約の無効を訴える密使をハーグで開催されていた「第2回万国平和会議」に送り(ハーグ密使事件)、これが露見して高宗は退位させられ長男の純宗が皇帝に即位し、第三次日韓協約が結ばれます。この協約によって日本は官吏の任免権を握り、韓国政府の重要ポストに日本人を送り込みます。
1906年2月、統監府が設置され、3月には初代統監として伊藤博文が着任した。駐衛軍は一個師団に半減され、
駐筍憲兵隊も縮小され、駐筍軍の軍律や治安警察権の範囲もやや縮小された。その反面、顧問警察は要地に警務分署、分遣所、分派所をおいて増強された。伊藤統監は韓国政府の大臣を統監府に召集し、「韓国施政改善に関する協議会」を開いて、重要法案・政策を審議し、事実上決定した。こうして韓国政府は傀儡化させられたのである。また、日本人顧問官とその付属機関を通じて内政を掌握した。(P61)

 1902年の日英同盟によってロシアを牽制して日露戦争を開始し、日韓議定書で半島の軍事行動を認めさせ、第一次日韓協約で韓国の財務・外交の実権を握り、英米に韓国の保護国化を認めさせ、第二次・第三次日韓協約で外交・内政を奪うという、外交、戦争を使った朝鮮侵略の離れ業です。


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