SSブログ

李成市、宮嶋博史『朝鮮史 2』⑦  植民地支配下の朝鮮(1) (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 2: 近現代 (世界歴史大系)Sui-ho_Dam_under_construction.jpg 水豊ダム

 日韓併合から日本の敗戦までの朝鮮植民地支配の35年間は、およそ3期に区分できるそうです。

 1)武断政治:1910年の日韓併合から三・ー運動が勃発した1919年まで
 2)文化政治:武断政治の反省から1919年から1930年までの統治政策の変更時期
 3)皇民化:満州事変が起った1931年から,日中戦争,太平洋戦争のもとでの皇民化政策の時期

<文化政治>
三・一運動は朝鮮総督府にとって大きな衝撃を与えた。・・・大規模な反日運動の背景として、韓国併合そのものへの不満、日本人と朝鮮人のあいだの官吏待遇や教育の格差、慣習を無視した急激な制度改変、朝鮮人に対する日本人や朝鮮人下級官吏の侮蔑的態度などをあげている。同史料(騒擾ノ原因及朝鮮統治ニ関ニ注意スベキ件並ビニ軍備ニ就イテ)はこれらの問題の「改善」のほか、言論の自由の保障、警察官の増員、内地人と朝鮮人の婚姻奨励、軍隊の配置の変更などを政策の課題として提示する。朝鮮人に対する待遇改善や、権利の付与の反面、警察・軍事力の増強による反日運動取締りの強化が謳われており、統治の正当性は否定せず、決してその強度をゆるめようとするものでもなかった。

 三・一運動が組織的な独立運動であったかどうかは別にして、これを重くみた総督府は武断政治から「文化政治」へと舵を切ります。敗戦で実現はできなかったものの(徴兵制とワンセットですが)朝鮮人に参政権を与え、多大な資本を投下して工業化を推進するなど、本気で日本と朝鮮の一体化を目指したことも事実です。

 武断政治の1910年代においては、植民地的経済再編成のために、朝鮮総督府財政の基礎となる地税確保と土地所有権の確率を目的とした「土地調査事業」(10年~18年)、産業政策を遂行する上で不可欠な金融機構の再編(朝鮮殖産銀行の創設,および金融組合、東洋拓殖株式会社の設立など)、鉄道・道路・港湾などのインフラの整備などに経済政策の中心が置かれます。

 1920年代においては、本格的な植民地産業政策としての農業政策「産米増殖計画」(20年~34年)が遂行されます。これは「三・ー独立運動」によって顕在化した不満の解消、「米騒動」に象徴される当時の日本が抱えていた食糧・米価問題に対する解決策として実施されたものです。自家消費するにしろ輸出するにしろ、米の増産は半島を潤します。

産米増殖計画
1.jpg 平均寿命.jpg
 1912年の人口1431万人、米の生産高1160万石 → 1937年には人口2215万人、米の生産高1941万石となり、人口で155%、167%と増加します。朝鮮の山は、オンドルの燃料を切り出すために禿山となっています。これが洪水を引き起こし田畑が荒れる原因となっているため、総督府は植林を行います。土壌改良、日本品種の移植、北部の窒素肥料工場で生産される肥料などによって米の増産が図られます。
 本書では、米の日本への輸出と小作争議の著しい増加、朝鮮人の一人当たり米の消費が減ったことで、日本の搾取を印象付けます。一方で朝鮮人の平均寿命は1906~10年の23.53 →1942年44.94歳に伸びています(本書では触れられていない)。乳幼児の死亡率が影響していると思われますが、日本が米を取り上げたのであれば、この平均寿命の進化は何なんだと言うことです。

日本・満洲への移住
併合後、とりわけ第一次世界大戦の勃発(一九一四年)により、日本の工業化が急激に進展すると、労働者不足が深刻となり、日本の事業者のなかには朝鮮人労働者を募集するケースも多くみられた。内地在留の朝鮮人は、1915年には4000人程度であったが、1920年にはその約10倍の4万人程度へと急増することとなった。その背景には、朝鮮農村における前述のような離農傾向があったほか、教育を受けた社会的中層に属する朝鮮人でも、その成果を生かして朝鮮内に就職口を求めることが極めて困難であるという状況もあった。
朝鮮を離れ、満洲へ移住した朝鮮人の数も増加していった。・・・とりわけ1910年代半ばに朝鮮南部を襲った自然災害により、この地域の農民が満洲へと移住して、水田耕作などの農業に従事するようになった。1920年末の段階で満洲在住の朝鮮人は約46万人を数えるにいたった。日本政府は20年代、満蒙権益を確保するために朝鮮人の満洲移住を積極的に奨励した。朝鮮人の居住域は20年代後半には間島地域だけでなく、中・北満洲地域にまで広がっていき、満洲在住の朝鮮人は30年末の時点で約60万人に増えることとなった。
 日韓併合により朝鮮と日本の壁が取り払われたのですがら、朝鮮人は現金収入得られる日本に出稼ぎに来たわけです。その背景に総督府の農業政策や差別があったというのは、牽強付会でしょう。満州への移住も、日本政府の奨励もあったでしょうが、東北部の朝鮮族が半島南部よりも豊かであったことはイザベラ・バードも記していますから、これも必然の流れだと考えられます。

北部の開発と工業化
産業別生産額.jpg
 30年代に入ると日本帝国の大陸侵攻政策を背景に、朝鮮半島の工業化が図られます。

代表的企業の一つとして日本窒素肥料株式会社(日窒)をあげることができる。日窒は1926年に朝鮮水力電気株式会社を、1927年に朝鮮窒素肥料株式会社を設立した。そして、前者が咸鏡南道新興に赴戦 江第一発電所を、後者が同じく興南に窒素肥料生産の化学工場を建設し、以後も事業規模を拡大させていった。電気事業は工業化の基礎となり、のちに日窒以外の企業も参入して、長津江や鴨緑江など複数の地域で発電所が建設された。
この電源開発による窒素肥料生産が朝鮮の農業生産高を飛躍的に高めたと考えられます。朝鮮総督府の「統計年表」の農業、畜産、林業、水産鉱工業の「産業別生産額」を見ると、総額で5億円(1914)が1940年に45.3億となり、工業額では2.8千万円(1914)が11.87億円となっています。

(日本資本の半島進出は)30年代以降に推進された朝鮮総督府の工業化政策に呼応したものであった。その背景には、第一に、「満洲事変」以後、朝鮮が「大陸兵站基地」として工業化の重要な拠点となったことがあげられる。企業にとっても朝鮮は満洲という巨大市場を背景に中国進出の足がかりとして重要な拠点と考えられたのである。総督府は金融・稅制上、また用地確保などの面において朝鮮に進出してきた企業に便宜をはかったのである。もう一つの背景としては、農村問題をあげることができる。総督府は工業化の推進により、農村の過剰人口を工場内や工場建設のための労働者として吸収することを考えた。
 朝鮮総督府の工業化政策は、満洲事変以後、朝鮮を「大陸兵站基地」と位置づける日本帝国の意図が背景としあります。企業にとっても、朝鮮は満洲という巨大市場を背景に中国進出の足がかりとして重要な拠点と考えられたのです。
 赴戦江第一発電所(13万kW)、長津江第一発電所(14.4万kW)、長津江第二発電所(11.2万kW)、虚川江第一発電所(14.5万kW)の建設とその電力を使った朝窒(朝鮮窒素肥料)、製鉄などの重化学工業のコンビナートが形成されます。当時日本最大の発電所が4.5万kWですからその規模がいかに大きかったかが分かります。
1920年代末までは農業が総生産の80パーセント以上を占めるた朝鮮の産業構造は、1943年には農業と工業生産の比率は34%対38%に逆転し工業国へと変貌を遂げます。年間成長率は、1930年~1937年が年平均約17%、1937年~1943年は年平均約15%に及んだといいます。本書はこの工業化を日本の「帝国主義」の一言で片付けています。

 この日本による工業化、金融政策、鉄道港湾等のインフラ整備を含む近代化を、朝鮮にもあった資本主義の「萌芽」は日本によって摘みとられた(朝鮮は日本の手を借りずとも近代化出来た)とする民族史観「資本主義萌芽論」があります。李朝末期には近代的な工業は成立しておらず、日本による工業の移植が行われたことになり、資本主義萌芽論は歴史学の禁じ手”if”です(李朝が独力で資本主義の道を切り開いたとは、とても思えませんが)。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。