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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 2』⑤ 日韓併合(1) (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 2: 近現代 (世界歴史大系)朝鮮総督府.jpg 朝鮮総督府
日韓併合
 1910年8/29、「韓国併合ニ関スル条約」により、朝鮮は日本の植民地となり、大韓帝国は消滅して朝鮮は日本の一地方となります。朝鮮人に日本国籍は付与されますが、日本戸籍と朝鮮戸籍は厳密に区別されます。

 併合によって、統治機構は統監府から「朝鮮総督府」となり、初代朝鮮総督には寺内正毅が就任します。寺内は陸軍大臣兼任ですから、総督府の軍事的側面が伺われます(以後も朝鮮総督は全員軍人)。総督は天皇に対してのみ責任を負い、陸海軍の指揮権、法律制定権、行政権、司法への指揮監督権など絶大な権限をもっています。

 総督府の初期の支配を特徴づけるものとしてまずあげられるのが武断 政治である。武断政治とは文字通りむき出しの暴力によって朝鮮を支配したやり方を象徴的に表現した言葉であるが、その前提条件となったのは憲兵警 察制度であった。

 「むき出しの暴力によって朝鮮を支配した」根拠が、憲兵が警察として使われたことだというのは、短絡的過ぎます。義兵運動もありますから、憲兵に警察役割を担わせたとしても不思議ではありません。著者には、内地(日本)での思想警察としての憲兵=拷問の先入観があると思われます。憲兵は、3ヶ月以下の懲役100円以下の罰金など軽微な犯罪について、裁判なしの即決権を持っていましたから、そう言われても仕方がない面もありますが。

同化主義
西洋の帝国主義諸国の植民地が基本的に本国から遠く離れた地に存在していたのに対して、日本は自らを中心に隣接地域に向かって拡大していくタイプの帝国主義であった・・・異民族である朝鮮人を異民族として支配するのではなく、いわゆる「日鮮同祖論」なども援用しつつ朝鮮人を日本人化して支配することを志向した。その方針がもっとも先鋭に表出したのが教育政策であった。(P80)

 同化主義を、朝鮮民族と朝鮮文化の抹殺と考えるか(民族史観)、日本による朝鮮の近代化(植民地史観)、と考えるかです。総督府は1911年の「朝鮮教育令」によって普通教育に力を入れ、普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校、専門学校(農業、工業、商業)を創設し、半島の教育レベルを引き上げます。ハングルや漢文、朝鮮史の教育と平行して国語(日本語)日本史が必須とされ、

民族主義の勃興を押さえ、日本語に堪能で日本に従順な労働者、日本の支配への追随者の創出目的とする教育方針が採られたのである。

「私立学校の取り締まり」や、四書五経を教える私塾「書堂」が16,000から25,000に殖えた記述はありますが、小学校数が100(1910)→5,960(1943)に増え、就学率は1945年には男子76%,女子33%、識字率が6%(1910)→22%(1943)上がった(呉善花『韓国併合への道』)ことなどは記されていません。「日本に従順な労働者、日本の支配への追随者」を作るための6,000もの小学校を作るとはとても考えられません。
 本書は7人の歴史学者による共同執筆ですが、この第2章「植民地支配下の朝鮮」の著者(東京大学準教授)は民族史観による記述が目立ちます。

土地調査事業
 日本の土地搾取の元凶とされる「土地調査事業(1910)」です。所有関係の明確な民有地は問題なかったようですが、問題は李朝時代の国有地。地方官の収奪を免れるために名義上皇室や政府機関に寄進した土地で、本来は民有地考えられる土地が土地調査事業によってすべて国有地となります。この調査により、それまで240万町歩であった農地面積は434万町歩となります(wikipedia)。調査をやり直したら土地が180%増えることなどありえません。おそらくは、税のピンハネしていたといわれる観察使や郡守など地方役人の汚職の温床になっていたと思われます。
 林野については1908年「森林法」施行されます。全土の7割以上を占める山林の大半は農民が共同利用していた「無主公山」で、この大部分が国有となります。朝鮮の山林は、暖房の燃料として木を伐るために禿山が多く、洪水によって農地を荒らすために、総督府はこの禿げ山にせっせと植林したようです。

こうして拡大した国有地は、東洋拓殖株式会社(東拓)をはじめとする日本人地主に払い下げられていった。さらに、土地所有権と地価が確定し、それを国家が認定する(土地登記制度の確立)ことで土地の商品化が進み、日本人を含む地主層が形成される法的条件が整った。また、土地の売買が促進されたことはそこから排除される農民を生み、農民層分解が進んだ。この結果、事業が完了した1918年にはわずか3%の地主が耕地面積の約半分を所有し、水田の65%、畑の43%が小作地となり、農民の77%が小作農・自小作農となった。

産業政策
 総督存の産業政策は、朝鮮を日本のための食料・原料の供給地、および商品市場に再編することを基軸とした。
まず着手されたのがインフラ、とくに交通インフラの整備である。朝鮮内部の、さらに朝鮮と日本との物流ルートを確保することは、効率的な植民地支配にとって不可欠であった。

 鉄道は、併合前に京仁線(京城―仁川)、京釜線(京城—釜山間)、京義線(京城―新義州)が開通しており、併合後には京元線(京城ー元三1914)、湖南線(大田ー木浦)が完成します。1911年には鴨緑江橋梁が完成し、南満洲鉄道(満鉄)と京義線とが接続され、これによって朝鮮と満州は軍事的・経済的に結びつきます。
 道路については、1917年に京城と道庁所在地を結ぶ2700kmの道路網が整備されます。港湾については併合前から整備が進められ、新義州、鎮南浦、平壌、清津、城津、元山、仁川、群山、釜山、馬山が修築され、主要な港は鉄道網と連結されます。こうして、船、鉄道、道路を用いて日本と朝鮮、さらには中国東北部を結ぶ物流ネットワークが構築されたわけです。

 434万町歩に増えた農地には「朝鮮を日本の食糧供給地化する観点から・・・日本人の嗜好に合う品種の栽培が強制」されます。米の生産量は、1000万石(1911)→1700万石(1933)→2200万石(1940)と飛躍的に伸び、米の対日輸出高は25万石(1912)→280万石(1919)へと10倍以上に急増します。日本の工業に原料を供給するという観点からは綿花栽培と養蚕業に対する関与が重要視され、綿花については、日本の紡績業に適合的な繊維の長い棉の栽培が強制され、養蚕業についても生産性を上げるため日本蚕種と改良桑苗が強制的に配布されます。

そして、さらに重要なことは、こうした農事関連の政策が警察や憲兵、あるいはその武力を背景にした農業技術官吏によって実施されていたということである。指導に従わなければ台刑に処されることすらあったというこの農政は「サーベル農政」「武断農政」ともいわれ、三・一運動で爆発する怒りのエネルギーが蓄積される大きな要因となった。

 大日本帝国は、朝鮮半島・満州侵略のために鉄道を敷き、食料確保と綿花・生糸のために朝鮮に「サーベル農政」「武断農政」を行ったというのです。日本の農政技術者は、洪水を防ぐために植林し、土壌を改良し、輸出に適した品種を推奨し、新品種を持ち込んで養蚕業を活性化させたわけです。歴史認識が異なれば、これが「サーベル農法」となるわけです。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

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