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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 2』⑥  三・一運動 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 2: 近現代 (世界歴史大系) 1.jpg パゴダ公園
三・一運動は朝鮮近代史上最大の民族運動であり、現在にいたるまでそのナショナリズムの原点の一つとなっている。その最大の要因はもちろん武断統治およびそのもとでの有形無形の朝鮮人に対する差別的・侮蔑的待遇にあった...

 日韓併合の歪がこの三・一運動(1919)として表面化します。現在の大韓民国憲法前文には「三・一運動で打ち立てられた大韓民国臨時政府の法統と不義に抗った四・一九民主理念を継承し……」とあり、3/1は祝日です。

 天道教主・孫兼熙を筆頭とする33名の「民族代表」が独立宣言書を作成し、2万部が印刷されて全国に配布されます。高宗国葬日に民衆が京城に集まる機会をとらえて3月1日にソウルのパゴダ公園で独立宣言書を朗読・発表する計画立てますが、混乱回避のため発表の場は公園から市内の料理店に変更され、そののち官憲に自首してしまいます。
 パゴダ公園に集まった数千の群衆を前に学生によって独立宣言書が朗読され、群衆は「独立万歳」を叫びデモ行進に移ります。総督府は軍隊を出動させ数万に膨れ上がったデモを鎮圧。京城(ソウル)以外にも朝鮮各地で同時多発的にデモが発生し、やがて地方都市、農村へと拡散していきます。

また、デモだけではなく、労働者のストライキや撤市(抗議の閉店)といった形態の闘争もみられ、さらには官吏の辞職続出により行政が麻痺する地域もあらわれた・・・運動は全国各地に拡散し運動参加者は100万人以上に達すると推定される。

 運動は武力闘争となり、鎌・斧・棍棒などで「武装」した農民が面事務所や憲兵隊派出所、駐在所などを襲撃して土地台帳や課税台帳を奪取、焼却する事例があいつぎ、総督府は憲兵、警察、軍を動員して弾圧を加え官憲の側にも死者が出始めます。こうした運動の高まりに対して

非武装のデモに対しても発砲し、なかには村人30人余りを教会に閉じこめて外から発砲したうえ教会ごと焼き払った京畿道水原の堤岩里事件のような極端な事案も発生した。また、逮捕者に対する拷問・虐殺も横行し、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、忠清 南道天安の運動を指導して十七歳で獄死した梨花学堂の女子学生柳寛順もこうした拷問による犠牲者の一人であった。こうした弾圧の結果、朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば朝鮮人の死者は7,500人以上におよんだという。

 『韓国独立運動之血史』の著者.・朴殷植は1919年には上海にいたそうですから、「死者は7,500人以上」は伝聞でしょう。政治的著作を取り上げ「...という」は研究者の発言とも思えません。

 どこまでが真実か分かりませんが、100万人規模の反日デモ、7500人の犠牲者、教会に火を放ち虐殺、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と独立運動を飾る道具立ては揃っています。この運動によって総督府の武断統治が文治統治へと変わりますから、それなりに意味のある暴動だったことになります。しかし三・一運動よって独立を勝ち取ったわけではなく、以後25年にわたって日本の支配は続きます。憲法の前文で謳うほどのものかどうか。

こうして、五月頃からは運動は下火となり、目標としていた独立をかちとることはできなかったが、その影響は大きかった。まず、三・一運動の発生は端的に武断統治の失敗をあらわしており、総督府は統治の方針をいわゆる「文化政治」へと転換せざるをえなくなった。また、・・・あらゆる属性をもった朝鮮人が、従来の運動の思潮や形態の差異を乗り越えて全国で挙族的に立ち上がったことで、民族独立の意志が強固で普遍的であること、民衆に民族運動を戦っていく力量があることが示された。

 一方、外からみると、三・一運動は第一次世界大戦の戦勝国の植民地で最初に発生した大規模な反帝国主義闘争であり、中国の五・四運動をはじめ、アジアの被圧迫民族の解放運動にさまざまな影響を与えた。さらに思想面では、列強の道義に期待して外交活動に従事していたグループが、欧米列強からは非常な冷遇を受けるなかで唯一ソ連だけが支持・支援を表明したことに感銘を受けて社会主義思想への傾斜を強め、国内に社会主義思想が浸透する一つのきっかけとなった。このことは、三・一運動で地域の指導者として成長した人物が、明確な帝国主義批判の論理をもった社会主義で武装し、運動の力量を証明した民衆を対象としてさまざまな運動組織を構築していくことに繋がったのである(P90)

 「反帝国主義闘争であり、中国の五・四運動をはじめ、アジアの被圧迫民族の解放運動にさまざまな影響を与えた」「三・一運動の指導者が、帝国主義批判の論理をもった社会主義で武装し、さまざまな運動組織を構築していく」とは少し妄想が過ぎるのでは?。
 憲法前文に「三・一運動で打ち立てられた大韓民国臨時政府の法統」とありますが、臨時政府は、三・一運動の後に、海外で朝鮮の独立運動を進めていた李承晩、呂運亨、金九らによって上海で結成された組織です。李承晩はハワイ、呂運亨は上海に亡命しており三・一運動とは無関係。朝鮮にいた金九はテロリストの顔も持っているので、三・一運動の武力闘争に加わっていたかも知れませんが、33人の「民族代表」に名前はありません。憲法で謳う「三・一運動で打ち立てられた大韓民国臨時政府の法統」と言うには無理があります。

 「臨時政府」とは、元々政府があり国がナチスに占領されたためロンドンに臨時政府を置いたフランスやポーランドの亡命政府をいいます。1919年に大韓民国政府は存在しないわけですから、李承晩らが勝手に臨時政府を名乗っただけとも言えます。フランスやポーランドの臨時政府はロンドンから故国のレジスタンスを指揮しますが、大韓民国臨時政府にそうした事績はありません(光復軍という小規模な軍事組織もあったが、中国国民党の支配下にあり日本軍と戦った事実はない)。臨時政府は、三・一運動に刺激されて李承晩らが上海に作った「臨時政府」を名乗る一組織に過ぎないと言えます。後に大韓民国の大統領となる李承晩が、臨時政府の初代「大統領」だったため、その連続性が憲法に謳われた様です(大韓民国憲法は1987年の制定)。韓国は日本の敗戦によって独立を果たします。自ら勝ち取った独立ではなく連合軍(アメリカ)による他律的開放ですから、憲法を作るに当たって、「三・一運動」 →「臨時政府」 →「大韓民国」という独立の物語が創作されたわけです。

 三・一運動についてはいろんな評価があるようです。

「民族代表」には従来いわれてきたような学生との連合や全民族的示威運動などの計画はなく、日本の「理性」に訴えて「自治」もしくは独立を実現させるといった妥協的性格、欧米帝国主義列強の「同情」に依頼するという外勢依存的性格、自分ら一部のグループだけによる上層運動的性格をもつものであったとされている。(p91)

 独立宣言の発表を公園から料理屋に変更し、揃って自首しているのですからそう言われても仕方がありません。運動は全国各地に拡散して運動参加者が(話し半分の)100万人に膨れ上がり、「武装」した農民が面事務所や憲兵隊派出所、駐在所などを襲撃したわけですから、独立宣言に呼応する総督府への憤懣は十分にあったわけです。三・一運動は33人の「民族代表」に率いられたのではなく(そもそも自首して捕まっている)、「独立宣言」が引き金となって起きた運動(暴動)だとも言えそうです。
 金完燮『親日派のための弁明』によると、独立宣言を読み上げた33人の「民族代表」は、キリスト教徒16人、天道教徒15人、仏教徒2人であり、三・一運動は、広範な国民によって起こされた運動ではなく、キリスト教と天道教(東学党)よって起こされた運動だといいます。逮捕者2万人のうち、キリスト教徒が3,300人、天道教徒が2,200人ですから、この二派が運動を牽引したことを物語っています。甲午農民戦争(東学党の乱)を連想しますが、全琫準に率いられ、李朝政府に全州和約を飲ませたこちらの方が運動としては一枚上です。

 独立運動だったことは事実ですが、組織されたものではなく、「三・一運動で打ち立てられた大韓民国臨時政府の法統」と言うにはやはり無理があります。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

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