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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 2』⑧ 内鮮一体、創氏改名、慰安婦 (2017山川出版) [日記 (2021)]

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内鮮一体、皇民化政策
1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中間の全面戦争が始まると・・・戦争に動員するシステムの構築をはかった。・・・神社参拝、宮城遥拝、学校や職場における「皇国臣民ノ誓詞」の唱和などを強要したほか、陸軍特志願兵令の公布(三八年二月)により「国体観念」を注入し、軍事教練をおこなう制度を設け、また、朝鮮教育令の改正により学校制度を日本と一元化し、それまで必修科目だった朝鮮語を選択科目にし、「国語」(日本語)教育の比重をより高めた。

 植民地というと、大英帝国とインドを思い浮かべます。大英帝国がインドを原料工場且つ市場として経営し、住民を政治的・文化的に抑圧支配する構図です。そもそも朝鮮には日本が必要とする原料があったのかどうかですが、原料も生産物を売る市場も存在しなかったように思われます。在るのは荒れ果てた農地と禿げ山であり、マーケットは絶対王制の下で暮らす貧しい農民と、農民に寄生する支配階級の1700万人(1918)で、植民地としてのメリットは殆どありません。日清日露の2度の戦争までして朝鮮が欲しかったのは、幕末からの仮想敵ロシアに対する橋頭堡です。この大国に挟まれた半島という地政学上の「位置」が日韓併合の根本原因です。
 日露戦争で手に入れた朝鮮を経営するために、山に木を植え土地を改良し、ダムを造って電力を起こし、窒素肥料を生産することから始めねばならなかったわけです。

 「内鮮一体」「皇民化」などのスローガンを考えると、日朝の関係は19世紀の帝国主義と植民地の関係とは少し違うように思われます。日本民族が朝鮮民族を支配しようとする「植民地主義」には違いありません。植民地化したわけではない「併合」だ自己弁護しても、朝鮮を土足で踏みにじった野蛮で暴力的な国だと言っても仕方がありません。帝国主義はそういうものです。列強の餌食にされるのが嫌だったら大院君や高宗は朝鮮の近代化(富国強兵)を進めればよかったのです、アヘン戦争の情報も入っていた筈ですから。日本はアヘン戦争に震え上がって開国に舵を切り、維新への道を突っ走ったわけです。
 中国の唱える「一帯一路」は、見方によっては新たな植民地主義です。19世紀に李朝が大国の間で揺れ動いたように、現在の韓国もこの新たな植民地主義に翻弄されているように見えます。

 例えば国籍。韓国併合によって朝鮮人は日本国籍を持つことになりますが「国籍法」は適用せず、朝鮮戸籍令(1922)を制定し、朝鮮戸籍から内地戸籍への転籍を禁止します。「内鮮一体」を謳いながら、朝鮮戸籍令を用いて朝鮮人と日本人を法的に峻別したわけです。ちなみに満州帝国には国籍法が無く、「暫行民籍法」を制定し、満州国の「民籍」に記載された者は満州国人民ととなり、日本人であっても、満州国の「民籍」に記載されれば、日本人であると共に満州国の国民でもあったようです。

創氏改名
1940年2月には、「朝鮮民事令改正ノ件」「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」が施行され、「創氏改名」がおこなわれた。「創氏」は日本式の「氏」を創設し、社会生活上の呼称を転換させて、日本式の家族制度を導入しようとする政策であった。・・・朝鮮の従来の家族制度では、父方の祖先の「姓」が子に継承され、夫妻間では姓を異にした。つまり朝鮮人の姓は血統を中心とした称号であった。しかし、総督府はそれに対し、家系の称号である氏を創設し夫妻と子どもにすべて同じ名字を名乗らせることで、家族制度の改変を迫ったのである。

 有名な「創氏改名」は「内鮮一体」の象徴的な政策でしょう。男女の結婚を基本とした日本的「家族制度」によって、父系の血統を重んじる儒教社会を壊そうとしたわけです。朝鮮の社会改造と民族の思想改造を狙ったわけです。日韓併合は、朝鮮の植民地化ではなく、民族の同化だったのです。
 自ら氏を届ける(設定創氏)か、期限までに創氏の届けが無かった場合は自動的に戸主の姓を氏とした(法定創氏)ようです。

 所謂「徴用工」と「従軍慰安婦」はどうかというと、

徴用工
戦争の長期化にともない、日本での労働力がおおいに不足することになった。そこで、日本政府は国家総動員法や1939年の国民徴用令公布によって内地・外地における労務動員計画を立てた。当初朝鮮人労務者は「募集」形式で動員する計画となっていたが、「募集」とはいえ、実際には行政や警察などが強く「勧誘」していた。日本に連れてこられた朝鮮人労務者はおもに土木、炭鉱、鉱山などで苛酷な労働に従事させられた。42年には「募集」形式から「官斡旋」形式へと変更され、対象業種も金属、化学、航空機、運輸などにまで拡大された。また、国民徴用令は公布時には朝鮮人は除外されていたが、44年9月から朝鮮人にも適用された。45年10月の厚生省の調査では、39年から45年までの間で、内地へ割り当てられた朝鮮人の数は約91万人、実際に動員された朝鮮人労務者は約67万人であったとされる(厚生省勤労局「朝鮮人集団移入状況調」1945年10月)。

 募集→勧誘→官斡旋→1944年9月より徴用ですが、「「募集」とはいえ、実際には行政や警察などが強く「勧誘」していた。」、「朝鮮人労務者はおもに土木、炭鉱、鉱山などで苛酷な労働に従事させられた」と記されます。どう読んでも、日本の官憲が朝鮮人を徴発し過酷な労働に従事させた、と読めます。
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私の散歩コースにも朝鮮人労働者の慰霊碑が建っています。1930年の光明池築造工事に300人の朝鮮人労働者が動員され、10数人が犠牲となったようです。

慰安婦
日中戦争以降、日本、中国、東南アジアに軍が直接・間接的に関与するかたちで設けられた軍慰安所で将兵たちの性の相手をさせられる日本軍「慰安婦」も存在した。彼女たちは、多くの場合、経済的な貧困にあえぐ未婚女性であって、警察や軍隊と繋がった朝鮮人の徴集業者を介在して就業詐欺や人身売買などによって「慰安婦」とさせられた。慰安所は軍や業者の経営する軍専用のものもあれば、民間の遊郭を指定する場合もあった。「慰安婦」とされた女性は女性差別のほか衛生管理や待遇の面で民族差別を受けるなど重層的な差別を受けた。

 さすがに官憲によって「拉致」されたという表現、「従軍」という形容はありませんが、「警察や軍隊と繋がった朝鮮人の徴集業者を介在して就業詐欺や人身売買などによって」とありますから、警察、軍隊が詐欺と人身売買に携わったということになります。

 本書と同じ出版社(山川出版)の中学教科書にも 「多くの朝鮮人や中国人が日本に徴用され、鉱山や工場などで過酷な条件の下での労働を強いられた」「戦地に設けられた『慰安施設』には、朝鮮・中国・フィリピンなどから女性が集められた(いわゆる従軍慰安婦)」とあるそうです。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

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