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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 1』③ 北九州、朝鮮南部文化圏 倭寇 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)境界.jpg
 500頁の専門書を通読するのは大変なので、面白そうなところだけ拾ってみました。

旧石器時代・新石器時代における日朝関係(p27)
 対馬の遺跡では、朝鮮半島の有文土器がまとまって出土し、九州の貝塚から半島仕様の一枚貝で製作された貝輪が出土するなど、朝鮮半島南東部の集団が対馬や九州北部に渡り、一定期間居住したことが想定さるようです。釜山や朝鮮半島東南海岸からは、縄文土器、縄文特有の石器、九州の黒曜石が出土していることから、日本列島と朝鮮半島に交流があったことがうかがわれ、両地域で使用された釣り針(結合式多針)の形態に共通性があるため、魚を追って日本から半島沿岸へ、半島から九州へという日本も朝鮮も無い一種の漁労共同体があったのかも知れません。まさに司馬遼太郎が書く、

「おまえ、どこからきた」と、見知らぬ男にきく。
「カラからきたよ」と、その男は答える。
こういう問答が、九州あたりのいたるところ行われたであろう。

朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏・文化圏=境界(マージナル)だったというイメージです。言葉通じたんだろうか(共通語は倭語?)。

倭寇(p334)
 フンドシ姿で刀を抜いて半島や中国の沿岸を荒らし回った日本の海賊です。 高麗、明の滅亡(北虜南倭)を早めた一因ともいわれほどです。高麗末期から倭寇は14紀半ば以降急速に活発化し、朝鮮半島を襲撃し、甚大な被害をもたらしています。倭寇の略奪は、おもに米や「商品」としての人間だそうです。14世紀~15世紀にかけて朝鮮半島を襲った前期倭寇は、対馬、壱岐、松浦など西北九州の島や沿海地域の住民だけでなく、済州島や朝鮮半島南部沿海地域の住民も多数これに加わっていたとされます。朝鮮人の海賊が「倭服」を着「倭語」を話していたそうで、

当時の「倭」とは国家としての日本のことではなく、「倭服」や「倭語」は当時朝鮮と日本との境界領域で活動する人びとの共通の出立ち、共通の言語であったとして、倭寇の本質を国籍や民族を超えたレヴェルでの人間集団であるところに求める見解もある。(p335)

 倭寇は、5~6世紀の、朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏、文化圏にあったという歴史の延長線上にあったと言うこともできます。その広がりは、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、台湾島や海南島まで及んでいたのではないかといわれ、一大海洋共同体?みたいなものです。こういっては何ですが、島国根性とか言われる大和民族も、なかなかやるもんです。この辺りが、豊臣秀吉の朝鮮侵攻や後の日韓併合と合わせて、日本人は野蛮な民族だと韓国に言われるのでしょうw。反日の素のひとつです。

 朝鮮は、1)武力による撃退、2)室町幕府、西日本の有力者に締まりを要請する一方、3)投降した倭寇を朝鮮国内への定住を認め、土地、家財を支給し朝鮮人女性を妻として娶らせ、朝鮮の武官職を与え、4)貿易を認可するなどの懐柔策もとったようです。貿易や漁撈目的の来航者に対して朝鮮半島南部沿岸海域での自由な活動の許可が、後に日朝貿易の隆盛を見るに至ります。
 一方、倭寇の根拠地・対馬に対する大規模な遠征を実施しています。1419年、船200隻、兵員1万7千人を対馬に派遣しますが破れます(応永の外寇)。

 教科書では、室町幕府と明との「勘合貿易」を習いますが、倭寇対策のひとつとして朝鮮との貿易も盛んだったようです。日本からは、室町幕府、対馬藩を始め、畠山、細川、山名、京極氏などの大名、中小領主層や商人までも日朝貿易に参加したようです。
 輸出品は、日本産の硫黄、銅などの鉱物、扇子、刀剣、漆器などの工芸品の他、東南アジア産の染料、香料などがあり、輸入品は、綿麻織物、毛皮、薬用人参、松の実だそうです。

 古代の朝鮮南部、九州北部が国家、民族を超えた「境界」だったらろうと想像はしていたんですが、倭寇もまた境界だっとは新しい発見です。この辺りはすこし突っ込んでみたでいす。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

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