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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 1』⑤朝鮮通信使、朝貢 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)通信使.jpg
  朝鮮通信使
 朝鮮通信使は、秀吉の朝鮮侵攻「慶長の役」の9年後の1607年に始まります。対朝鮮貿易を再開したい対馬藩と日本の脅威を取り除いておきたい朝鮮の思惑が一致したということらしいです。1607~1811年の200年余の間に12回、朝鮮の使節が日本を訪れています。
 正使、副使、従事官(以上を三使)、制述官、書記、通訳他からなり、従者を含めると400~500名という大部隊。製述官と書記には漢詩や朱子学に秀でた文臣が任じられ、江戸までの旅の各地で日本の儒者や武士等との間で漢詩文を贈答し、また朱子学に関する議論を交わします。

それは徳川将軍に対する敬意の表明であると同時に、他方では朝鮮の文化的優位性を日本側に誇示するという側面も有していた。(p395)

 清への通信使(朝貢使)に「制述官」は含まれていませんから、小中華国が夷国に「教えてやる」、という上から目線です。正使、副使、従事官の「三使」や制述官は、『東搓録』と総称される日本見聞録を官に提出しています。この『東搓録』には、日本の繁栄とともに侮蔑が記されているそうです。日本の上から目線で日本を見ればそうなり、日本を褒めれば袋叩きにあった筈で、官僚としての建前でしょう(今の反日と同じ)。その辺りは『朝鮮通信使の真実』が詳しいです。
 日本への使者の身分は、正使は「正三品」、副使は「従三品」、清への使者は、正使は「正二品」、副使は「正三品」と、当然ですが日本<清だそうです。

これに対し徳川幕府の側では通信使の来日を「入貢」ととらえ、自らの「公儀の威光」を当該使節と日本国内に示す絶好の機会と考えていた。徳川幕府は通信使を一種の朝貢使とみなしていたわけである。・・・少なくとも徳川幕府が自らを中心に据えた華夷的外交秩序を確認ないし誇示するために通信使を利用したことは否定できない。(p401)

 数百人がゾロゾロと東海道を行くわけですから、これを見た人々は将軍の威光を感じたことでしょう。12回の朝鮮からの通信使に対して日本から朝鮮への使者はゼロ(清→朝鮮の使者はあった)。漢城への道を知られたくないという朝鮮の軍事上の理由だそうですが、朝鮮通信使を「入貢」と考える徳川幕府は使者を立てるという発想は無かったでしょう。『朝鮮通信使の真実』によると、通信使が将軍に謁見する際には「朝貢の礼」である「四度半の礼」という礼を行ったそうです。もっとも、清に対しては最上級の「三跪九叩頭の礼」だったそうです。

清への朝貢
 朝鮮通信使に比べ清への通信使は明らかに「朝貢」です。1637~1894年の258年間に494回実施され、

朝鮮は清に対して毎年、莫大な歳幣を納付する義務を負わされた。金銀をはじめとする貴金属、紙、水牛角や皮革類、刀剣、苧布や綿紬などの織物など、当初その品目は多様で数量も膨大であった。(p397)

 あまりの搾取に「まけてくれ」という悲鳴もあがったそうです。専門書?ですから書いてませんが、貢物には「貢女」という人間も含まれたようです。高麗、李朝の身分制度には賎民という奴隷制があり、妓生・運平の歴史がありますから不思議はありません。
 清朝皇帝の前でとる臣下の礼は跪いて額を3回地面に打ち付ける礼を3回繰り返す(合計9回)「三跪九叩頭の礼」。李朝の王は、中国の皇帝の使者を迎えるための門「迎恩門」で「三跪九叩頭の礼」して使者を迎えたらしいです。宗主国がいかなるものか想像できます。
 明治新政府が李朝宛てた親書に「皇」の文字があったため、李朝は受け取りを拒否し、これが征韓論を支持する民意ともなっています。「皇」は唯一中国皇帝にのみ使われる文字であって夷狄の日本が天皇として使うべき文字ではないというわけです。姜昌一駐日大使が天皇を「日王」と呼んで物議となりましたが、華夷秩序は彼の国では未だ生きているようです、「三つ子の魂」です。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

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