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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 1』④ 外夷の侵攻 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)境界2.jpg3つの境界
 
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)
 豊臣秀吉の「誇大妄想」といわれる朝鮮侵攻です。目的は「唐入り」(明征服)ですから、朝鮮は単なる通り道に過ぎません。前段階として朝鮮の服属(征明嚮導)を求め対馬の宗氏に交渉させ、李朝は1590年に通信使を派遣しこれを拒絶、1952年に第一次侵攻が始まります。16万の秀吉軍は釜山に上陸、漢城(ソウル)→平壌→咸鏡道と半島を席捲。李朝は明に救援を求め、明軍は漢城まで日本軍を追い詰めるも破れ講和(1953)となります。講和は朝鮮軍と明軍で朝鮮は蚊帳の外。明は秀吉を日本国王に冊封(1596)、怒った秀吉は1597年に14万で第二次侵攻 →1598年秀吉が亡くなり戦いは終息します。秀吉軍は捕虜5万人を日本に連れ帰り、朝鮮の人口は1/10になったという説もあるそうです。いずれにしろ半島は荒廃し李朝はガタガタ。

 7年に及ぶ戦乱に次いで、今度は北から後金(女真族)が侵攻します(1627)。ホンタイジンは3万の兵で漢城に迫り国王・仁祖は江華島に逃亡。14代、16代と朝鮮国王は逃げ回るハメとなります。踏んだり蹴ったり、この辺りは半島国家の宿命です。

女真族の侵攻
 後金(女真族)の侵攻ですから「胡乱」です。日本に続いて、1627年(丁卯胡乱)、1636年(丙子の乱)と後金のホンタイジ(太宗)による侵攻をうけます。後金が明を倒して清を建てたことで、朝鮮の宗主国は明から夷狄である女真族へ変わります。

 丙子胡乱では、一説によれば数十万人ともいわれる多くの人びとが捕虜として連行され、朝鮮ではその返還交渉に苦慮することになる。
  しかしこうした人的・物的損害にもましてこの戦争が朝鮮にとって重要な意味をもつのは、この戦争により朝鮮が明との冊封関係を強制的に断ち切られ、新たに清を冊封宗主国としていただかねばならなくなったことである。朝鮮の為政者・知識人は、長らく女真人を夷狄として蔑視してきた。そのような女真人が建国した清に武力で屈服させられただけでなく、冊封宗主国として事大の礼をとらねばならないというのは、彼らにとってこのうえない屈辱であり、また大きな衝撃でもあた。(p382)

 このアンビバレンツを解消する手段が、明亡き後の「華夷秩序」の真ん中に座るのは朝鮮だという「小中華思想」です。明が滅んでから60年後の1704年に、李氏朝鮮が、明の皇帝を祀るために昌徳宮に大報壇を建て明の皇帝を祀っています。清から冊封を受ける李朝は精神的支柱は明であり本音は「崇明反清」。このオレたちこそ華夷秩序の頂点にいるという「小中華思想」と夷狄の清を宗主国として戴かなけれならないという屈辱が、朝鮮通信使の日本侮辱につながるわけです。
 司馬遼太郎が『壱岐・対馬の道』(街道をゆく)で、『海游録』の著者で朝鮮通信使・申維翰と対馬藩の朝鮮接待役・雨森芳洲の交友を「朝鮮と日本の関係は、時に個人レベルでの友情も成立させ難いほどに難しい」と記した背景もここにあります。

 地理的に中国大陸にぶら下がった朝鮮は、中国と切っても来れない関係です。好太王碑が中国の吉林省通化市にあるように、朝鮮北部(高句麗)は中国と朝鮮の入り混じった境界です。紀元前の三韓は後漢の四郡(楽浪郡など)の支配下にあり、三国時代の白村江の戦、高麗時代のモンゴルの侵攻、李朝の文禄・慶長の役、近代に入っての甲午農民戦争、と戦乱の度に中国に援軍を頼んでいます。内乱に外国の軍隊を引き入れることは、自ら属国であることを認めるようなものです。
 高句麗は中国史なのか朝鮮史なのかという「高句麗論争」、高句麗、百済、渤海を中国史の地方政権と考える「東北工程」などが生まれる背景です。東北アジアもまた、半島南部と九州北部、東シナ海と同様の境界(マージナル)と言えそうです。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

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