SSブログ

李成市、宮嶋博史『朝鮮史 2』② 閔妃暗殺、露館播遷、大韓帝国 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 2: 近現代 (世界歴史大系) 閔妃暗殺(1895)
 日清戦争で清が破れ、朝鮮は宗主国から開放されます。日本は甲午改革で朝鮮の近代化を図りますが、三国干渉で出鼻をくじかれ、スキを狙ってロシアが勢力を拡大。高宗の后・閔妃暗殺事件(乙未事変)で、日本の朝鮮進出計画は頓挫します。閔妃暗殺は、ロシアに近づく閔妃を排除するため日本の三浦公使によって企てられたいうことになっていますが、大院君首謀説、閔妃一族の勢道政治に反対する政府内部説などいろいろ。
 閔妃は一族を権力の中枢に据えて賄賂、売官、悪貨鋳造で得た財力で贅沢三昧。「雌鶏が鳴くと家が滅びる」と、閔妃を亡き者にしようという敵にはこと欠かかなかったようです。
 イザベラ・バードや角田房子によると、閔妃は高宗が重臣を接見する屏風の後ろから高宗をコントロールする政治をしていたようで、

王は自ら建白書を読み・・・時々後ろの屏風の方をふり返りながら、儒生たちの処分を命じた。屏風の内には、王の発言を助け導く閔妃が控えている。これが”高宗親政”の実体であることを、閣僚たちはすでによく知っていた。(角田房子『閔妃暗殺

会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け船を出していた。・・・王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。・・・その意志薄弱な性格は致命的である(イザベラ・バード『朝鮮紀行』)

 甲斐性なしの夫を支えるしっかり者の妻・閔妃の姿が目に浮かびますが、夫婦揃って朝鮮の滅亡を早めたような気がします。という様な面白い話は、残念ながら本書にはありません。閔妃は、全124話のTVドラマ『明成皇后』となっているそうです。無能な王と勝ち気な嫁vs.舅の権力闘争ですから、これは面白いでしょうね。

露館播遷、大韓帝国成立(1896~97)
 閔妃暗殺が引き金となって高宗はロシア公使館に逃げ込み(露館播遷、俄館播遷)、1年にわたってロシア公使館から政治を執ります。当然親ロシア派が権力を握り、ロシアは森林利権を獲得し軍事教官を派遣して朝鮮軍を訓練するなど勢力を伸ばします。ロシアだけではなく、英米独仏も鉄道、鉱山、電気事業など多くの利権を獲得し、日本の影響力は小さくなり、朝鮮の改革は後退して甲午改革以前に戻ってしまいます。朝鮮は利権を切り売りして近代化を放棄したことになります。閔妃の一族が復活し、「光武」と改元し李氏朝鮮は国号を「大韓」に改め、高宗は皇帝に即位し「大韓帝国」が成立します(1897)。

 高宗の外国公使館逃亡癖は、壬午軍乱で日本公使館に亡命打診をしたのを皮切りに、事あるごとにアメリカ、イギリス、フランスと次々に打診し日露以外には断られています。国家や国民より我身の安全を優先したわけです(この辺りは、youtube「李承晩TV」の高宗が啓蒙君主?が面白い)。生涯で7度も国を捨てて逃亡を企てた国王も珍しいです。

 大韓帝国成立とともに、高宗と守旧派は皇帝の専制を強化して独立を保とうとします。陸海軍の統帥、立法、文武官の人事、条約の締結などを皇帝に集め「専制政治」を始めます。軍備拡張を進め、

1899年には全国要地に鎮衛隊・地方隊を増強した。1900年に清の義和団の活動が満洲にもおよんでくると、北辺防備の必要が意識されて、鎮衛隊(地方隊も鎮衛隊に改称)がさらに増設された。1902年の時点で、中央には侍衛連隊、親衛連隊各2個、約5000名、地方には5個鎮衛連隊を基幹にした17個大隊、約1万7000名の兵力が配備された。

 22,000名の兵が増強されたのか、朝鮮の全兵力が22,000名なのかよく分かりません。22,000名あれば、甲午農民戦争で清に援軍を頼まずとも自力で鎮圧できたはず。漢城(ソウル)に5000名の近衛兵がいたなら、高宗はロシア公使館に逃げ込む必要もなかったでしょう。何かといえば宗主国を頼る李朝の軍事力は如何ほどのものであったのか?。13世紀、40年にわたり6度のモンゴルと戦った高麗の伝統は、500年の李朝事大主義によって滅んだのでしょう。→【追記】参照。

 軍備拡張とともに大韓帝国は鉄道建設、中央銀行を設立し兌換紙幣の発行を計画しますが資金難で挫折。

 財政は窮乏しており、国家予算の支出が皇室・宮内府関係費、軍事費に偏重していたので、その他の事業を積
極的に展開することは困難であった。
 (財源確保のため)全国の三分の二の地域で量田(耕地の測量)が実施され、国家による土地把握が強化された。地稅も増徴されたが、新式貨幣発行章程に定められた補助貨幣である白銅貨の鋳造による発行者利得が重要な新財源となった。悪貨である白銅貨の鋳造も典図局長でもあった李容瑚によって推進された。白銅貨の濫発はインフレーションを招き、民衆の生活を圧迫した。

 財政再建が増税と貨幣の改鋳による差益確保というのですから、大韓帝国となっても閔妃の時代と代わり映えしません。この頃の李朝は、ほとんど国家としての態を成していません。元大統領・朴正熙は、李朝を「子孫に悪影響を及ぼした民族的史」「悪遺産」と言い、日韓併合をもたらし、独立後に韓国を崩壊の危機にまで陥れた最大の原因は、李朝五百年の歴史にその根源がある利己的な党派主義」だとまで言っています。独裁者で積弊の元凶といわれる朴正熙のこの認識は的を射ているように思います。

日本の経済進出、日露の対立
 露館播遷後、日本は政治的勢力は後退しますが、経済的支配は拡大します。日清戦争後の韓国(大韓帝国)の対外貿易は、輸出額の8~9割、輸入額の6~7割を日本が占めます。日本からの輸入品は紡糸、綿布輸出は米で、韓国の綿業は廃れ、米価は高騰し民衆の生活を圧迫します。日本の商人は内陸に進出し、農民への高利の融資によって日本人による土地取得も進んだといいます。

 日本は、日本銀貨を韓国の金融市場で流通させます。1902年に第一銀行は第一銀行券を発行して65万円の借款を成立させ、韓国は日本政府からの資金援助で漢城~仁川間、漢城~釜山間の鉄道を完成させます。日本の借款でインフラ整備はマァ理解できますが、日本通貨の流通は、金融を日本に渡すようなもので、このような経済進出(侵略)が日韓併合に繋がるわけです。朝鮮は、政治的にも経済的にも独立国とは程遠い存在だったわけです。

 当時、日本はロシアを仮想敵とし軍備を増強し、ロシアも1898年に旅順、大連を清から租借して太平洋艦隊を増強し、日露関係は緊迫します。
 1900年義和事件が起き、ロシアは満洲に出兵してこれを占領。日本はロシアと対立していたイギリスと日英同盟(1902)を結びます。ロシアは撤兵をおこなわず、鴨緑江河口近くの龍岩浦において土地買収をおこない、朝鮮北部に支配をおよぼそうとしたため日露の対立は深まります。日本は朝鮮の内政に関与する権利を主張し、ロシアは民政面に限定することを主張し、北緯39度以北を中立地帯とすることを求め日本はこれらを拒否。北のロシア南の日本に挟まれた「38度線」の存在は、今日の半島分断の予兆のようなものです。
 1904年日本政府は交渉打切りを決定し、対露開戦に突き進みます。

【追記】
 1905年の韓国軍が削減されます。

漢城には侍衛隊1個連隊と小規模の工兵隊、騎兵隊、砲兵隊などを合わせて約3000名、地方には鎮衛隊8個大隊約5000名の配置となり、兵力は四割弱の規模になった。(p58)

とありますから、1899年の韓国の全兵力は22,000名だったと思われます。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ: