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金完燮 親日派のための弁明 2 ② 独立軍、植民地近代化論 (扶桑社2004) [日記 (2020)]

親日派のための弁明2  続きです。
独立軍の正体
 三一運動の後、独立運動は総督府の統治が十分に及ばない満州東部の間島の独立軍が担うことになります。満州の抗日パルチザンから出た金日成が北朝鮮を建国しますから、金日成の正体かと期待したのですが、「馬賊」の話でしたw。
 著者によると

「満州の独立軍」というものが存在したのか、疑問である。彼らは当時、治安不在だった満州地域で組織された朝鮮人馬賊団であり、同胞の財産を奪い、殺人や拉致、強姦、放火など、治安を乱し犯罪を行った、盗賊団のような存在にすぎなかったと思われる。その行為においては中国人馬賊団との差はなく、ただ一つ、独立運動を語ったということだけが違う。

とミモフタモもありません。彼らは、匪賊、兵匪、土匪、共匪(共産ゲリラ)、総督府の呼称では鮮匪など様々な名前で呼ばれたようです。「大韓民国臨時政府」配下の軍隊なら資料が残っていそうなものですが、相手が賊ですから資料が乏しいようで、著者が目を付けたのが1920~1940年の「朝鮮日報」のデータベース。独立団、馬賊、匪賊に関連した記事が395回登場します。例えば

〈検索:抗日〉
(1921年)
3/9 通化住民の現状。排日朝鮮人と馬賊らの跋扈により十里行くにも警官と同行
3/31 寛甸県で農民八名銃殺。朝鮮独立団員が来襲、農民を銃殺。五十名の独立団が朝鮮に侵入計画中
3/31 安岳邑に独立団突入。六穴砲を向けて百五十ファン強奪
5/5 旅行中の日本人を狙撃。おそらく排日朝鮮人かシナ馬賊のしわざ
5/6 独立団の軍資金募集と称してあちこちで強奪 ・・・後略
〈検索:馬賊〉
1920年12/17 十九道溝の昌興商会主人・崔鎮國、馬賊に銃殺される
1921年1/29 国境馬賊団の跳梁。民家七戸を焼却、女子四名を人質、良民八名を惨殺、金一万一千ウォン強奪して逃走
1922年5/8通化県に馬賊猖蹶。馬賊首領の柳青山とその部下が通化県七道溝付近に出没し人民の被害が激しい
1922年7/5 官兵装を着た馬賊団の横行。八道溝で富豪六名を襲撃して人質とする ・・・後略

といった記事がズラリと並びます。独立軍と名乗り(時には名乗らず)朝鮮人の武装集団が同族から軍資金、義援金と称して金品を強奪し、殺害、拉致を繰り返しています。記事に載らなかった犯行も含めると膨大な数になりそうです。こういう連中が独立後に帰国して「抗日戦士」、「独立軍」を名乗り、日本と戦って独立を勝ち取ったという歴史を望む政府は、匪賊、馬賊を「独立軍」と遇したのです。なかにはその名に値する独立軍もいたにしてもです。イザベラ・バードは『朝鮮紀行』で、沿海州の朝鮮人は両班の搾取を受けることなく裕福だった、と書いていますから、略奪する金品食料が豊富だったのかも知れません。
 「普天堡の戦い」という共産党を名乗る馬賊事件もあります。

朴金喆の率いる祖国光復会(朝鮮語版)の一隊(のちの甲山派)の2隊が約300戸ある普天堡村という朝鮮人が大多数を占める村の警察署の襲撃・放火後に無差別に金品を強奪し、役場や消防会館、郵便局、小学校などに略奪・放火を行った赤色テロ事件である。警察官だけでなく、幼児、料理店経営者を含む一般人が死傷したが、日本に朝鮮人共産主義者らが勝利したとして神話として美化されている。(wikipedia)

朴金喆は後に北朝鮮の党書記などの要職を務めていますから、共産党系の抗日パルチザンも馬賊、匪賊をやっていたわけです。金日成はよもやとは思いますが...。

韓国の学者は、一九一九年の万歳運動以後、満州と沿海州地域に西路軍 政署、北路軍政署、光復軍、韓国独立軍、大韓独立軍、正義府、参議府、新民府など数多くの独立運動機関ができて、抗日武装闘争を敢行したかのように主張している。しかし、その実情をみると、彼らの実態は独立運動に事寄せて同胞から略奪を行った、朝鮮人馬賊団だったのである。

これが、独立軍の正体だといいます。さらに、

 日帝時代、朝鮮の独立運動家は主に海外に滞留し、同胞たちから募金を集めたり「強奪」したりしながら組織を維持した。その中には、分離独立だけを朝鮮民族の至高の善と信じる献身的な人もいただろうが、大部分は独立運動を名分に無為徒食し、同胞の財産を集団略奪したルンペン集団である。海外の朝鮮人密集地域で、日本軍に追われているということを理由にいつでも武器をもち集団略奪ができたため、朝鮮人であっても馬賊集団と独立軍を区別するのは難しかった。事実、満州と沿海州、中国などの地に、本当の意味での独立軍といえる集団はほとんど存在しなかったと思われる。
 東北アジアをさすらっていたこのルンペン集団は、終戦後、集団帰国して政治に飛び込んだが、米国を背負った李承晩に押し出され、政権掌握に失敗した。李承晩もやはり朝鮮王朝に忠誠を誓い、長い間、独立運動をしていたため、日本と親日派に対する敵限心は誰にも負けなかった。このため、戦後の韓国では誰もが日帝時代に総督府に抵抗したとか、少なくとも協調はしなかったとか、主張せざるをえなかった。このようなムードが次第に強まり、反日は韓国の基本統治イデオロギーになったのである。

そこまで言うか、です。

穂積産業革命

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