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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 1』④ 外夷の侵攻 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)境界2.jpg3つの境界
 
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)
 豊臣秀吉の「誇大妄想」といわれる朝鮮侵攻です。目的は「唐入り」(明征服)ですから、朝鮮は単なる通り道に過ぎません。前段階として朝鮮の服属(征明嚮導)を求め対馬の宗氏に交渉させ、李朝は1590年に通信使を派遣しこれを拒絶、1952年に第一次侵攻が始まります。16万の秀吉軍は釜山に上陸、漢城(ソウル)→平壌→咸鏡道と半島を席捲。李朝は明に救援を求め、明軍は漢城まで日本軍を追い詰めるも破れ講和(1953)となります。講和は朝鮮軍と明軍で朝鮮は蚊帳の外。明は秀吉を日本国王に冊封(1596)、怒った秀吉は1597年に14万で第二次侵攻 →1598年秀吉が亡くなり戦いは終息します。秀吉軍は捕虜5万人を日本に連れ帰り、朝鮮の人口は1/10になったという説もあるそうです。いずれにしろ半島は荒廃し李朝はガタガタ。

 7年に及ぶ戦乱に次いで、今度は北から後金(女真族)が侵攻します(1627)。ホンタイジンは3万の兵で漢城に迫り国王・仁祖は江華島に逃亡。14代、16代と朝鮮国王は逃げ回るハメとなります。踏んだり蹴ったり、この辺りは半島国家の宿命です。

女真族の侵攻
 後金(女真族)の侵攻ですから「胡乱」です。日本に続いて、1627年(丁卯胡乱)、1636年(丙子の乱)と後金のホンタイジ(太宗)による侵攻をうけます。後金が明を倒して清を建てたことで、朝鮮の宗主国は明から夷狄である女真族へ変わります。

 丙子胡乱では、一説によれば数十万人ともいわれる多くの人びとが捕虜として連行され、朝鮮ではその返還交渉に苦慮することになる。
  しかしこうした人的・物的損害にもましてこの戦争が朝鮮にとって重要な意味をもつのは、この戦争により朝鮮が明との冊封関係を強制的に断ち切られ、新たに清を冊封宗主国としていただかねばならなくなったことである。朝鮮の為政者・知識人は、長らく女真人を夷狄として蔑視してきた。そのような女真人が建国した清に武力で屈服させられただけでなく、冊封宗主国として事大の礼をとらねばならないというのは、彼らにとってこのうえない屈辱であり、また大きな衝撃でもあた。(p382)

 このアンビバレンツを解消する手段が、明亡き後の「華夷秩序」の真ん中に座るのは朝鮮だという「小中華思想」です。明が滅んでから60年後の1704年に、李氏朝鮮が、明の皇帝を祀るために昌徳宮に大報壇を建て明の皇帝を祀っています。清から冊封を受ける李朝は精神的支柱は明であり本音は「崇明反清」。このオレたちこそ華夷秩序の頂点にいるという「小中華思想」と夷狄の清を宗主国として戴かなけれならないという屈辱が、朝鮮通信使の日本侮辱につながるわけです。
 司馬遼太郎が『壱岐・対馬の道』(街道をゆく)で、『海游録』の著者で朝鮮通信使・申維翰と対馬藩の朝鮮接待役・雨森芳洲の交友を「朝鮮と日本の関係は、時に個人レベルでの友情も成立させ難いほどに難しい」と記した背景もここにあります。

 地理的に中国大陸にぶら下がった朝鮮は、中国と切っても来れない関係です。好太王碑が中国の吉林省通化市にあるように、朝鮮北部(高句麗)は中国と朝鮮の入り混じった境界です。紀元前の三韓は後漢の四郡(楽浪郡など)の支配下にあり、三国時代の白村江の戦、高麗時代のモンゴルの侵攻、李朝の文禄・慶長の役、近代に入っての甲午農民戦争、と戦乱の度に中国に援軍を頼んでいます。内乱に外国の軍隊を引き入れることは、自ら属国であることを認めるようなものです。
 高句麗は中国史なのか朝鮮史なのかという「高句麗論争」、高句麗、百済、渤海を中国史の地方政権と考える「東北工程」などが生まれる背景です。東北アジアもまた、半島南部と九州北部、東シナ海と同様の境界(マージナル)と言えそうです。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

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李成市、宮嶋博史『朝鮮史 1』③ 北九州、朝鮮南部文化圏 倭寇 (2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)境界.jpg
 500頁の専門書を通読するのは大変なので、面白そうなところだけ拾ってみました。

旧石器時代・新石器時代における日朝関係(p27)
 対馬の遺跡では、朝鮮半島の有文土器がまとまって出土し、九州の貝塚から半島仕様の一枚貝で製作された貝輪が出土するなど、朝鮮半島南東部の集団が対馬や九州北部に渡り、一定期間居住したことが想定さるようです。釜山や朝鮮半島東南海岸からは、縄文土器、縄文特有の石器、九州の黒曜石が出土していることから、日本列島と朝鮮半島に交流があったことがうかがわれ、両地域で使用された釣り針(結合式多針)の形態に共通性があるため、魚を追って日本から半島沿岸へ、半島から九州へという日本も朝鮮も無い一種の漁労共同体があったのかも知れません。まさに司馬遼太郎が書く、

「おまえ、どこからきた」と、見知らぬ男にきく。
「カラからきたよ」と、その男は答える。
こういう問答が、九州あたりのいたるところ行われたであろう。

朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏・文化圏=境界(マージナル)だったというイメージです。言葉通じたんだろうか(共通語は倭語?)。

倭寇(p334)
 フンドシ姿で刀を抜いて半島や中国の沿岸を荒らし回った日本の海賊です。 高麗、明の滅亡(北虜南倭)を早めた一因ともいわれほどです。高麗末期から倭寇は14紀半ば以降急速に活発化し、朝鮮半島を襲撃し、甚大な被害をもたらしています。倭寇の略奪は、おもに米や「商品」としての人間だそうです。14世紀~15世紀にかけて朝鮮半島を襲った前期倭寇は、対馬、壱岐、松浦など西北九州の島や沿海地域の住民だけでなく、済州島や朝鮮半島南部沿海地域の住民も多数これに加わっていたとされます。朝鮮人の海賊が「倭服」を着「倭語」を話していたそうで、

当時の「倭」とは国家としての日本のことではなく、「倭服」や「倭語」は当時朝鮮と日本との境界領域で活動する人びとの共通の出立ち、共通の言語であったとして、倭寇の本質を国籍や民族を超えたレヴェルでの人間集団であるところに求める見解もある。(p335)

 倭寇は、5~6世紀の、朝鮮半島南部、対馬、壱岐、九州北部が一体の生活圏、文化圏にあったという歴史の延長線上にあったと言うこともできます。その広がりは、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、台湾島や海南島まで及んでいたのではないかといわれ、一大海洋共同体?みたいなものです。こういっては何ですが、島国根性とか言われる大和民族も、なかなかやるもんです。この辺りが、豊臣秀吉の朝鮮侵攻や後の日韓併合と合わせて、日本人は野蛮な民族だと韓国に言われるのでしょうw。反日の素のひとつです。

 朝鮮は、1)武力による撃退、2)室町幕府、西日本の有力者に締まりを要請する一方、3)投降した倭寇を朝鮮国内への定住を認め、土地、家財を支給し朝鮮人女性を妻として娶らせ、朝鮮の武官職を与え、4)貿易を認可するなどの懐柔策もとったようです。貿易や漁撈目的の来航者に対して朝鮮半島南部沿岸海域での自由な活動の許可が、後に日朝貿易の隆盛を見るに至ります。
 一方、倭寇の根拠地・対馬に対する大規模な遠征を実施しています。1419年、船200隻、兵員1万7千人を対馬に派遣しますが破れます(応永の外寇)。

 教科書では、室町幕府と明との「勘合貿易」を習いますが、倭寇対策のひとつとして朝鮮との貿易も盛んだったようです。日本からは、室町幕府、対馬藩を始め、畠山、細川、山名、京極氏などの大名、中小領主層や商人までも日朝貿易に参加したようです。
 輸出品は、日本産の硫黄、銅などの鉱物、扇子、刀剣、漆器などの工芸品の他、東南アジア産の染料、香料などがあり、輸入品は、綿麻織物、毛皮、薬用人参、松の実だそうです。

 古代の朝鮮南部、九州北部が国家、民族を超えた「境界」だったらろうと想像はしていたんですが、倭寇もまた境界だっとは新しい発見です。この辺りはすこし突っ込んでみたでいす。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

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李成市、宮嶋博史 『朝鮮史 1』② 古朝鮮と倭(2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系) 好太王碑.jpg
古朝鮮と倭
 5~6世紀に朝鮮南部に倭国があったのか?という疑問から本書を読み始めたのですが、明確な回答は得られませんでした。個人的には黒に近い灰色だと思うのですが。で、本書でから「倭」の記述を拾ってみました、6ヶ所のみです。

1)楽浪郡を通じて朝貢をおこなっていた韓やは、このあとは帯方郡の統轄となった。(p40)

 突然「倭」が登場します。金印「漢委奴国王印」の奴国の朝貢が1世紀で、帯方郡ができたのは3世紀初めですから、この「倭」は九州北部の倭なのか、半島南部の倭なのか、ヤマト王権なのか?。竹幕洞祭祀遺跡から想像すると、九州北部の国(例えば)だったかも知れません。朝貢は政治的側面と経済(貿易)的側面がありますが、朝貢するからには権力基盤のある集団だったと思います。
 奴国など九州の国がまず漢に朝貢し、後年ヤマト王権がこれらの国を併呑して北九州から半島南部に勢力を広げたと考えられます。

2)399年に、百済が誓いを破ってと通じたため、軍を率いて平壌に赴いて倭人の撃退策を練り、400年に新羅救援軍を派遣してと安羅の軍を破った。404年に、もとの帯方郡の地域に倭人が攻めてきたため、これを撃退した。(p60)

 有名な「好太王碑」です。この倭は、九州北部の倭なのか、半島南部にあった倭なのか、それとも倭=ヤマト王権なのか、詳しい記述はありません。日本書紀にある三韓征伐、倭の五王・讃の「安東大将軍倭王」もこの頃です。武は、宋のから「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」(宋書)に叙任されたといいます。三国史記(1145)には百済や新羅が倭に人質を送ったとも記されています。

3)奈良県の石上神宮に残る七支刀は、「泰和四年」(369年)につくられて百済から贈られたものである。百済が中国南朝、加耶諸国、と結んで高句麗と対抗するという形勢は、その後も継続した。(p74)

祭儀的な七支刀が大和にあるということは、百済とヤマト王権の深い繋がりを想像させます。

4)南方への拡大は、武寧王代にも継続され、『日本書紀』には512年にが百済に任那の四県を割譲した、とする記事がある。記事そのものは潤色であるとしても、この頃までに全羅道南部地域まで百済が領有化していたことを物語る。(p75)

倭が四県を百済に割譲したということは、それまで倭が県を領有していたとということか?。本書では、日本書紀の記述は信用できないが、百済の領有が全羅道南部まで及んでいたことを「物語る」という主張です。

5)金官国は、『魏志』韓伝に「弁辰の狗邪国」としてみられる。帯方郡から邪馬台国にいたる使者が狗邪国から海を渡っているように、海上交易が国の基盤となり、また鉄生産も盛んであった。四世紀頃には・・・加耶南部諸国の盟主的な地位にあった。四世紀前半には倭国との通交が始まり、四世紀後半には百済—加耶南部―という連携が成立した。
 このことが、高句麗軍の攻撃を招くこととなる。広開土王碑文によれば、倭国の侵攻を受けているという新羅からの援軍要請を受けた広開土王は、400年に5万の軍勢を派遣して新羅を救い、さらに逃げる兵を追って「任那加羅」(金官国)の従伐城にまでいたり帰服させたという。この戦闘に際して、安羅の軍勢もや金官とともに戦っている。この戦いののちも金官国自体は532年まで続くが、弱体化していった。(p97)

 倭国があったとされる、加羅、金官国です。日本の半島進出は鉄の入手だと思うのですが、鉄が触れられているのはこの箇所だけです。
 逃げる倭を「任那加羅」まで追っていったのですから、そこに倭の軍事拠点か兵站があったのかも知れません。任那・加羅は単なる地名として扱われ、「日本府」の記述はありません。半島人の「倭」か日本人の「倭」か分かりません。

(6)その頃金官国は、新羅の攻撃によって壊滅的な打撃を受け、ついに532年に金官国王の仇支は、妻子を引き連れて新羅に降服した。・・・これと前後して、新羅は金官国よりも西にある琢己吞と卓淳も攻略していた。こうした動きに危機感を覚えた安羅は、に救援を求めたものの、派遣されたの援軍は新羅に対抗することができなかった。そこで安羅は、多沙にまで進出していた百済に救援を求め、531年に百済軍が安羅に進駐することとなる。こうして、新羅と百済は、加耶南部で対峙することとなる。膠着状態に陥った両国であったが、541年に百済が新羅に和議を求めて同盟が成立した。
 百済の聖王は、541年と544年の二回にわたり、新羅に滅ぼされた金官・堺己呑・卓淳を復興するという名目で加耶諸国の首長を集めて会議を主催した(任那復興会議)。この会議には、安羅に駐留していたの使節団も参加している。(p98)

任那復興会議に倭が参加したのですから、倭は任那の利害関係国だったのでしょう。半島人の倭であれば日本書紀に記される筈はありません。
 好太王碑に刻まれている以上その存在は否定できませんが、本書では倭についてはボカされています。

白村江の戦い
 『日本書紀』『三国史記』や中国の史書にも記され、百済再興をかけて唐・新羅と百済・倭が戦った「白村江の戦い」はどうかというと、

(百済は)日本に人質として送られていた豊璋を迎えて王として即位させた。・・・六六三663年、日本の水軍と復興軍は、戦力を盛り返した唐・新羅連合軍と白江(白村江)の河口で戦って敗れて壊滅し、抵抗を続けていた諸城も降服した。(p108)

(新羅は)こうした唐との緊張関係とは対照的に、日本との関係は密接であった。高句麗滅亡後の30年間に、新羅からは25回、日本からは9回の使節がそれぞれ派遣されている。新羅のこうした積極的な対日外交は、唐との対立関係があるため後方の安全を確保するという性格が強かった。日本側でも、白村江の敗戦後も唐への警戒をおこなう必要があったことと、律令制を整備するなかで新羅の文物・制度を摂取する必要があったのである。(p119)

 白村江の闘いは、教科書で習ったので大事件だというと錯覚がありますが、本書は朝鮮史ですから記述はあっさりしています。中国との外交は紙数を割いていますが、朝鮮史の本ですから日本となるとあっけない限り。

 でどうかというと、ヤマト王権に由来する「倭」は朝鮮半島に存在した、ということにしておきます。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

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李成市、宮嶋博史 『朝鮮史 1』① 朝鮮の前方後円墳墓(2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)長鼓峰古墳.jpg
 韓国にも飽きてきたので朝鮮史です。
 『知っていますか、任那日本府』で、朝鮮半島の南端には倭という部族がいたといいます。教科書では、朝鮮半島南部に「任那の日本府」という半島経営の拠点があったと洗ったのですが、この倭がヤマト王権を指すのかイマイチよく分かりません。全羅南道海南に10数基の前方後円墳が存在することから、朝鮮南部に倭の支配が及んでいたのではないかといわれます。前方後円墳はやっぱりマズイだろうと、韓国では削ったり埋め戻したりで日本の痕跡を消しているようですw。で、どうなんだろうと本書を読んでみました。読んでみましたが、500頁を超える(1と2で1,000頁以上)専門書?で、素人には読み辛いです。で前方後円墳墓です。

栄山江流域の前方後円墳
 古墳は周囲に濠をめぐらした前方後円形をなすことが確かめられた。・・・段築と葺石の存在が確認された例もある。墳丘には、日本の普通円筒埴輪・朝顔形埴輪を相州とし、現地の土器製作技術で製作された円筒形土製品が樹立されていた場合が多い。・・・埋葬施設は、北部九州各地で築造された横穴式石室と類似したり、そこから変形したと思われる石室を用いた例が多い。さらに副葬品のなかには、須恵器をはじめとする日本列島起源の遺物が含まれている。こうした状況から、これらの古墳が、当時の日本列島との関係から出現・築造されたと広く考えられるようになった。(p83)

前方後円墳ではなく「前方後円形」の古墳というあたりが面白いです。

 ・建造時期は5世紀~6世紀前半
 ・周囲に堀をめぐらし、段築と葺石で築かれ、円筒形埴輪が並べられいた
 ・埋葬施設は、北他九州各地に見られる横穴式石室と類似している
 ・副葬品のなかに須恵器をはじめ日本列島起源の遺物が含まれる
 ・金銅製冠帽、外冠、飾靴など百済との関係を示す遺物もある
 ・頭部が銀で装飾した釘が出土し、百済系木棺が用いられた

このことから、栄山江流域の前方後円墳には、在地系の要素とともに百済系・倭系などの外来系の考古資料が混在して出土している、と。

 問題はこれらの古墳の被葬者が誰かということです。1)倭人説、2)在地首長説、3)百済に仕えた倭系百済官人説の3つ。百済人であれば百済風の墓を建てるだろうし、百済に仕えた倭人の墓が70mもの規模というのはちょっと無理があります。
 この地で倭の権力者が亡くなった場合を考えると、日本式の前方後円墳を造り細部において(木棺など)は在地の手法が取り入れられ、死者の遺品が副葬品として葬られるでしょう。百済王朝から贈られた金銅製冠帽があってもおかしくはありません。どう考えても倭の権力者の墓でしょうね。

被葬者をめぐる諸説は、さまざまな文化要素の一部だけに注目して解釈しようとした結果とみなすこともできる。そうではなく、考古資料にみる多様性を前提として、四~六世紀における東アジア世界の地域間交流において栄山江流域がはたした役割を評価していくなかで、この地域に前方後円墳が築造された意味を考えていく必要があるであろう。

と歯切れが悪いです。専門書ですから3説並立でしょうか。日本でも埋葬者が特定できる古墳はほとんどありませんから、被葬者論議の決着は着かないでしょう。沖ノ島祭祀遺跡と類似する「竹幕洞祭祀遺跡」(5世紀中頃~6世紀)についてもスルー、「任那日本府」の記述は皆無です。
 好太王碑の碑文や中国の史書『三国志』『宋書』、朝鮮の『三国史』には多くの「倭」が登場しますから、被葬者論議がどうあれ半島南部に「倭」が存在したことは疑いのない事実だと思います。疑問は、前方後円墳が倭の拠点があったと言われる任那、金海と離れた栄山江にあることです。竹幕洞祭祀遺跡と近いですから何か関係があるのかも知れません。
 忠清南道公州市(百済の古都)にある武寧王陵の棺が、日本固有種のコウヤマキ(高野槙)で造られているというのも面白いです。

追記 対馬の前方後円墳】
 対馬にも曽根古墳群出居古墳など数基の前方後円墳があるようです。ヤマト王権の約束手形?である前方後円墳が、九州北部 →対馬 →朝鮮半島へと拡散していったと考えたほうが理屈に合ってます。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

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映画 聖なる鹿殺し(2017英愛) [日記 (2021)]

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア [DVD]  医療ミスで手術中に患者を死なせてしまった心臓外科医のスティーブン(コリン・ファレル)の一家に起こる一種のホラー?です。
  医療ミスは問われなかったものの、罪の意識にとらわれるスティーブンは、死んだ患者の息子マーティン(バリー・コーガン)にプレゼントを贈ったり食事に誘ったりと気遣っています。マーティンは、礼儀正しい好青年ですがスティーブン家に招かれ家族と親しくなるとともにその本性を現します。マーティンはスティーブンを自宅に招き、父親の代わりになれとばかりに母親との仲を取り持ち、スティーブンの娘キム(ラフィー・キャシディ)に近づきます。マーティンは復讐するのでもなく金銭を要求するのでもないところが不気味。マーティンの目的はいったい何なのか?というサスペンスでもあります。

 スティーブン息子ボブが突然歩けなくなり食物を受け付けなくなります。精密検査するも異常は発見されません。やがて、マーティンはスティーブンに不気味な予言を告げます、

先生は僕の家族を一人殺した、だから(スティーブンは)家族を一人殺さねければならない
誰にするかはご自由に、もし殺さなければ皆死ぬ ボブもキムも奥さんも病気で死ぬ
手足の麻痺、→食事の拒否、→目から出血して →そして死ぬ。先生は助かる

ボブは、既に手足が麻痺し食事を拒否していますから、マーティンの予言通りなら、次に目から出血して死ぬということになります。ボブが死ぬ前にスティーブンが家族3人の誰かを殺さないと、3人とも死ぬというのです。家族3人のうち誰かを1人を殺せば2人は助かる、殺さなかったら3人とも死ぬ。つまり、マーティンの父親を殺した罪を、家族1人を殺すことによって贖えというわけです。マーティンは預言者であり裁定者です。

 ボブに続き、娘のキム(ラフィー・キャシディ)が下半身麻痺となり食事を取らなくなります。医師として築いた名声と富、美しい妻と2人の子供の幸せな家庭、人が羨むスティーブンの人生は崩壊の危機に立たされます。医療ミスによってマーティンの父を死なせた罰なのか?、マーティンの呪いなのか?。
 実は、スティーブンは酒を飲んで手術をし、マーティンの父を死なせていたです。子供2人が原因不明の病気にかかり死に瀕していることは、スティーブンの罪と罰ということになります。

 スティーブンの妻アナ(ニコール・キッドマン)がマーティンに問います、

夫の過失が原因が職務怠慢でであるかどうかは別にして、
なぜ私まで代償を負わなきゃならないの?、子供たちに何の責任が?
誰かに言われました、僕のパスタの食べ方が父とそっくりだと
当時思いました、父の食べ方を継ぐのは僕だけだって
当然あとで気づきました、パスタの食べ方はみんな同じだと
動揺しました、とてもね、死んだと聞いたときよりショックでした
フェアかどうかは分からない、でも正義が近づいていることは確かです

マーティンは「喪失」の問題を言っています。母親と自分が父を失ったように、スティーブンとアナも同じ喪失を負うべきだ、それは正義だというのです。マーティンは復讐も贖罪も求めていません。スティーブンとアナも平等であるべきだと言っているのです。

 スティーブンは究極の選択を迫られ、目から血を流しはじめた息子のボブを撃ち殺します。決行する前にどちらの子供が優秀か教師に聞きに行ってます。つまりどちらのコロスべきかです。妻のアナは子供はまた作ればいいと言い、キムはボブに(アンタが死んだら)音楽プレーヤーをくれと言います。ボブをコロスことは家族の了解事項のようです。
 アナは、スティーブンが自宅に監禁したマーティンの足にキスして逃し、キムは自分だけでも助けてくれと彼に頼み、家族は崩壊します。アナがマーティンの足にキスする行為は、ルカ伝(福音書)7章37-38節の「罪深い女」がイエスの足に接吻する行為をなぞったものです。

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、
後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

 アナは「罪使い女」であり、マーティンは何とイエス!。そうなると、マーティンの予言と正義は、イエス(あるいは神)の予言と正義ということになります。マーティンがイエスのメタファーだとすれば、スティーブンは命を司る現代の司祭、イエスが激しく批判した宗教的権威で民衆を支配するユダヤ教の司祭(律法学者)に相当します。アナは医療ミスの情報を得るため淫らな行為をし、キムはマーティンを誘惑しますから、二人は「罪使い女」でしょう。ではボブは?。
 ボブは、たぶん旧約『創世記』イサクの燔祭(はんさい)のイサクです。神はアブラハムに一人息子のイサクを生贄として捧げよと命じアブラハムの信仰を試します。アブラハムがイサクの上に刃物を振り上げた瞬間、神の使いが現れてその行為を止めますが、スティーブンはボブを撃ち殺します。ボブは生き残れなかったイサクです。現代の神はボブを助けなかったわけです。

 ラストで、スティーブン、アナ、キムが食事をしているレストランにマーティンが現れます。3人は食事をして店を出ていき、マーティンは3人を黙って見送ります。バックに流れるのはミサ曲?(このシーンは最後の晩餐?)。イサクを生贄として捧げた<アブラハム>と、イサクを救えなかった<神>の「接近遭遇」です。
 『聖なる鹿殺し』は、神無き現代の生贄の神話です。アナがマーティンの足にキスするシーンから紐解くとこうなります、個人的妄想です。キリスト教文化圏なら、もっといろんなメタファーを読み取れるんでしょうが、私には無理、この程度です。

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン、ラフィー・キャシディ

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朝鮮日報が面白い(3) 俄館播遷 [日記 (2021)]

 バイデン政権が誕生し、米中間でコウモリ外交を繰り返す文在寅政権が面白いので、韓国の新聞を読んでいます。週刊誌的面白さでは中央日報ですが、朝鮮日報の皮肉を効かせた政権批判はなかなかです。「【寄稿】高宗播遷の道を再びたどるのか」という記事です。文在寅大統領がどこかの大使館に逃げ込む話ではありません(あるとすれば越境?)w。
 記事の趣旨は、米中間の緊張と綱引き、アジア版NATOのクワッドという緊迫した情勢下で、米中二面外交でいいのか?。それはまるで李朝末期の高宗の外交と同じじゃないか、高宗のロシア偏重外交で日韓併合という亡国の憂き目にあったではないか、という文政権への警告です。外交長官は訪中し国家安全担当首長は訪米しているわけですから、朝鮮日報でなくともこれでいいのかと言いたくなります。どう報じたかというと、

危機を克服する国と失敗する国を見定める最も重要な尺度は、結局のところ指導者の資質だ。大国に振り回され、大勢も読み取れず、脅威の本質を忘却し、右往左往していた暗君高宗の俄館播遷の道をたどっているのではないだろうか?

 俄館播遷(1896)は「露館播遷」とも呼ばれ、高宗が女装して?女官用の籠で景福宮からロシア公使館に逃げ込んだ事件です。当時の朝鮮は、宗主国である中国、イギリス、日本、ロシアが政治に干渉するという状況です。甲午農民戦争、閔妃暗殺事件(乙未事変)と多難な時期です。高宗は、前半生は父親・興宣大院君と后・閔妃に頭を抑えられ、重しが取れると事大主義に走り、挙げ句の果てに日韓併合で廃位させられます。1895年に閔妃暗殺事件がありましたから、観の危険を感じていたのも分かりますが、国王が外国公使館に逃亡するのですから国と国民に対する裏切りです。李承晩TVによると、逃亡は1896年に始まった話ではなく前後6度あったようです。これを年表化すると、

1882:壬午軍乱、日本公使館に亡命打診 →一応OK
1884:甲申政変 →独立党(急進開化派)によるクーデター
1885:露朝密約事件
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1894:甲午農民戦争、日清戦争 →アメリカ、イギリス公使館に亡命打診 →断られる
1895:閔妃暗殺、春生門事件(親露派によるクーデター)
1896:露館播遷(1897まで)
1897:大韓帝国成立、アメリカ公使館に亡命打診 →断られる
1898:毒茶事件(高宗暗殺未遂)
1902:第一次日英同盟
1904:日露戦争、第一次日韓協約(外交権喪失)、アメリカ、イギリス公使館に亡命打診→断られる(仏にも打診したらしい)
1905:第二次日英同盟、第二次日韓協約(保護国化)、ポーツマス条約、アメリカ公使館に亡命打診 →断られる
1907:バーグ密使事件(裏にロシアの影)、高宗退位、第三次日韓協約(韓国軍解体)
1909:伊藤博文暗殺
1910:日韓併合

 外交の失敗というより、近代国家に脱皮できなかった朝鮮が帝国主義に飲み込まれたということで、高宗に責任を負わせるのは気の毒なような気がします。で高宗はどんな人だったかというと、イザベラ・バードは、高宗の印象をこう記しています。

国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、・・・落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居ずまいやものごしに威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け船を出していた。・・・王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。・・・その意志薄弱な性格は致命的である

なかなか辛辣です。

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石 平 朝鮮通信使の真実(2019ワック) [日記 (2021)]

朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点 (WAC BUNKO 313)  司馬遼太郎が『壱岐・対馬の道』(街道をゆく)で、『海游録』の著者で朝鮮通信使・申維翰と対馬藩の朝鮮接待役・雨森芳洲の交友を「朝鮮と日本の関係は、時に個人レベルでの友情も成立させ難いほどに難しい」と記したことを読んでから、朝鮮通信使は気になっていました。
 本書は、副題に「江戸から現代まで続く侮日・反日の原点」とありますから、バイアスのかかった本です。その辺りを勘定に入れればなかなか面白いです。

朝貢
 朝鮮通信使は室町時代からあったようで、江戸時代には1607~1811年の2百年間に12回来日しているそうです。教科書では朝鮮の友好使節だと習ったのですが、本書によると12回の朝鮮使節に対して幕府は一度も朝鮮に使節を送っていません。このことから、朝鮮通信使は「朝貢」使節だったいうのが本書の主張です。朝鮮と中国の冊封関係が朝鮮と日本にもあったとうのです。朝鮮通信使は、将軍の代替わりなど慶事を寿ぐ行事として実施されていますから、そう言ってもいいかも知れません。

 朝鮮通信使は、秀吉の朝鮮侵攻「慶長の役」の9年後の1607年に始まります。対朝鮮貿易を再開したい対馬藩と日本の脅威を取り除いておきたい朝鮮の思惑が一致したということらしいです。

 第5回通信の南龍翼はその著『扶桑録』で、朝鮮が日本に通信使を送る目的を、

朝鮮は『胡乱』(清の侵入)に遭いながらも、南辺の不安を憂慮したのであって、日本の武力を借りるつもりなど寸毫もなかった。・・・朝鮮が文化の恵みを施し、日本を教化すれば、いつかは日本も朝鮮を恭敬するであろう...

と書いています。つまり、南の日本は何時また攻めてくるかも分からないから、文化の恵みを施してこれを教導してやろう、というわけです。南辺の不安という本音が窺えます。通信使には、「製述官」という漢詩や朱子学に長じた文臣が参加しており、行く先々で日本人と詩文を交換し、朝鮮の文化的優位性を宣伝します。徳川幕府は通信使の来日を「朝貢」ととらえていたと思われますが、饗応ぶりは豪華でした。朝鮮は朝貢とは考えていませんが、通信使が将軍に拝謁する折に、主君に対する臣下の拝礼「四度半の礼」をしたそうですから、日本に臣従するという形をとっていたようです。

中華帝国を頂点とした当時の東アジアの「礼の秩序」においては、一刻の使節が外国君主に対して「四度半の礼」を行った場合、それは事実上、「朝貢の礼」となる。

大国である中国に比べて日本は小国であり、「小中華」を辞任する朝鮮にとって「四度半の礼」は屈辱以外のなにものでもありません。200年の通信使の歴史は屈辱の歴史だといいます。

侮日
 通信使に参加した文人は、申維翰『海游録』、金仁謙『日東壮遊歌』など多くの報告書=「東搓録」を著しています。通信使の要員は、科挙に合格した両班であり知識階級です。第三回通信使の姜弘重は『東搓録』で京大阪、江戸での見聞を「光彩が人を照らして心魂を眩乱」と称賛しています。一方で、

「通信使たちの多くは、日本の都市の雄麗さと市場の繁栄さや品々の豊富さに目を見張ったと同時に、お天道様はどうしてこんな蛮夷の国を優遇するのかと言って憤激の念を抑えきれない。日本に対する彼らの嫉妬がそこから生まれて、嫉妬はやがて攻撃性を生み、通信使たちの日本に対する攻撃に転じていくのである」(徐日東著『朝鮮通信使眼の日本イメージ』人民出版社)著者の孫引き

 コンプレックから日本の風俗、文化を蔑み貶め、景観まで貶します。蛮族の風俗だ、林羅山の文章は儒者としてなっていない、富士山も朝鮮の金剛山と比べると劣る、果ては「日本人は人柄が軽率で凶悪であり、女は生まれながら淫らである。その淫らな気風は禽獣と変わりがない。」「日本人は犲や貅の類ばかりである」云々。ちなみに貶める、貶すと、「貶」の文字は、本書にはれこそ100回は登場しますw。
 この延長線上に『海游録』の申維翰と対馬藩の雨森芳洲が登場したことになります。申維翰にとって雨森芳洲の人となりがどうのという以前に蔑むべき「日本人」だったわけです。これでは、儒者同士の交友など成り立つはずはありません。

 この「貶め」をもって、著者は朝鮮知識人の歪な精神構造を罵倒し、その侮日は400年経っても変わっていない、これからも変わらないだろうと言うのです。「江戸から現代まで続く侮日・反日の原点」というわけです。

 朝鮮通信使の日本侮蔑は、『海游録』などの公刊物(あるいは報告書)に記されたもので、読者として朝鮮の知識階級を意識した李朝の官僚としての意見です。おそらく、日本を賛美することはタブーだったのではないかと思われます。今日の「土着倭寇」みたいなものですw。

事大と小中華
 朝鮮については、「事大主義」がよく持ち出されます。これは

斉の宣王が「隣国と交わるためにはどうあるべきか」と孟子に聞いた。これに対して孟子は、「仁の心のある者 (仁者)だけが“大を以って小に事える(以大事小)ことができる。智ある者 (智者)だけが小を以って大に事える。(以小事大)ことができる」と答えた。

という『孟子』の思想から来ているそうです。つまり、事大主義は小国の大国に対する「阿り」ではなく小国の誇るべき「知恵」だというのです。知恵だというのは?ですが、半島という地政学上のハンディを克服する方便だったことは否めません。
 もう一つが「小中華主義」。中国を中心とする世界観では、中国から離れれば離れるほど文明から遠ざかり「夷狄」となります。朝鮮にとって、中国から離れた倭は蔑むべき夷狄です。おまけに、その中国には夷狄である女真族(清)が居座っていますから、朝鮮こそが残された中華世界の正統であるという誇りがあります。小中華の朝鮮は夷狄・日本に対しいては、常に上から目線となるわけです。その日本に朝貢しなくてならないわけですから通信使の侮日はよく分かります。

 韓国の侮日は根が深いようです。

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カズオ・イシグロ脚本 映画『上海の伯爵夫人』(2005英米独中) [日記 (2021)]

上海の伯爵夫人 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD] 原題はThe White Countess、白い伯爵夫人。後のノーベル賞作家、カズオ・イシグロの脚本です。『わたしたちが孤児だったころ』もこの映画も舞台は「上海事件」、イシグロは1930年代の上海に思い入れがあるようです。

 基本は、「第一次上海事件」前夜の魔都・上海、英米日からなる共同租界を舞台に、盲目の元外交官とロシア革命を逃れた伯爵夫人のラブストーリーです。イシグロとジェームズ・アイヴォリーが単なるラブストーリーを作るはずはないだろうと観てみました、実は2度目。アイヴォリーはイシグロの『日の名残り』を映画化した経緯があり、今度はアイヴォリーがイシグロに脚本を持ちかけたのか、イシグロがアイデアをアイヴォリーに持ちかけたのか、どうなんでしょう。

 この映画のポイントは、主人公のジャクソン(レイフ・ファインズ)が盲目の元外交官であること。ジャクソンに絡む謎の日本人マツダ(真田広之)もまた外交官です。ジャクソンは、ヴェルサイユ条約に関わったというキャリアを持ち、マツダは中国大陸侵略を担当する大日本帝国の外交官で、マツダが現れたあとには必ず日本軍が侵攻するため、恐れられ嫌われています。マツダが上海現れたということは日本軍の侵攻が近いということにとなります。
 ジャクソンが「理想のバー」を語り、マツダがそれに共感したことで二人は接近します。外交ではなく酒場の話です。盲目、外交、酒場という三題噺。

 ジャクソンには、一流のショーと女性を揃えた理想のバー(クラブ)を開きたいという夢があります。ジャクソンがソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)と出会ったことでこの理想が実現へと動き出します。ソフィアは、ロシア革命で夫を亡くし故国を捨て上海に来た伯爵夫人。元貴族の義母、小姑、叔父叔母は生活能力がなく、ソフィアはバーのホステスをして一家を養っています。ソフィアは、落ちぶれたロマノフ王朝の貴族という悲劇を背負ったソフィアは、ジャクソンの「理想のバー」のホステスの条件「官能性と悲劇性」を兼ね備えた女性だといえます。但し、盲目のジャクソンにソフィアは見えていないのですが。

 ジャクソンは盲目ですから、ソフィアの「官能性と悲劇性」も、一流の酒とバンド、そしてショーガール、ホステスを揃えた「理想のバー」も実際に見ることはできず、想像するしかないわけです。理想の女性、理想の王国が『上海の伯爵夫人』のテーゼ1。
 ベルサイユ条約の締結という舞台で活躍したジャクソン、満州国建国に関わり今また中国大陸進出の尖兵たるマツダ。マツダは、日本帝国を欧米と肩を並べる国する理想を抱いているとジャクソンに告げています。「公」の舞台で活躍した活躍する二人が、理想のバーという「私」の部分で共感し協力するところがテーゼ2。
 満州事変とリットン調査団、日本の国際連盟脱退という混迷する世界に、理想の女性と理想のバーが対峙します。
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 ジャクソンは有り金を競馬に賭けて大金を得、ソフィアをリクルートして理想のバー"The White Countess"を開き、バーは繁盛し成功します。ジャクソンは、店を訪れたマツダに、ソフィアは店の求心力である、魅惑、悲劇性、倦怠感と店に必要なすべてを兼ね備えている、ただひとつ足りないのが緊迫感、政治的緊迫感だと伝え、これにマツダが答えます。アメリカ人ジャクソンのバーですから、「白い伯爵夫人」を訪れるのは租界にたむろする英米仏の西欧人。マツダは政治力を使い、店に共産主義者、国民党、日本帝国の客を送り込み、魔都・上海の理想のバーが完成します。
 そしてジャクソンとマツダが作った理想のバーに「上海事変」が襲いかかります。上海事変の背後にマツダがいるなら、マツダは自らの作品「白い伯爵夫人」を葬ったことになります。

 …と観てくると、この映画はラブストーリーではなく、精神世界の王国を築きたいというジャクソンの理想と日本を西欧列強と対等な国にしたいというマツダの理想が、「白い伯爵夫人」を媒としてせめぎ合う映画だと言えます。上海事変の混乱の中でジャクソンはソフィアを選択し、マツダの選択した世界はWWⅡを経て崩壊するという結末をたどります。ラストの、香港を目指すジャンク船に響くトランペットは印象的です。歴史の勝者は誰なのか。

監督:ジェームズ・アイヴォリー
脚本:カズオ・イシグロ
出演:レイフ・ファインズ、ナターシャ・リチャードソン、真田広之

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李承晩TV 妓生 [日記 (2021)]

妓生(キーセン)―「もの言う花」の文化誌
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 「妓生」について興味があり、川村湊『妓生―「もの言う花」の文化誌』を読みました。マイナーな分野ですから資料が少ないなか、面白い動画を見つけました。李承晩TVの「日本軍慰安婦問題の真実」の「5. 朝鮮の妓生(キーセン)、別範疇の慰安婦」です。講師は『反日種族主義』の李栄薫先生。

 歴史的な妓生像は、李栄薫先生の講義も『もの言う花』と似たようなものです。李朝には「七般公賤」という身分制度があり、官は賤民階級を官妓・官卑、両班階級は奴婢として使い、酒席で歌舞をさせ性的奉仕をさせていたようです。『ものいう花』によると、

忠烈王五年、命じて州郡に妓・有色芸者を選び、教房に充つ
成宗五年、王は宗廟に至り桓祖の神主及章順王后の神主を永寧殿に付す。還宮の時昔老、儒生、妓生等歌謡を献じ、百戯を陳す。百官賀箋を進む。
燕山君十年、諸道を大小邑に分け、皆に妓楽を設け、運平と号す。運平三百人を選び、都城に入内させ、任士洪を以て採紅使と為す(朝鮮解語花史)

 「解語花」とは「もの言う花」=妓生こと、「運平」も妓生のことです。妓生の養成所を作り、地方の派遣軍にまで妓生を配していたのです。「従軍慰安婦」は李朝の時代から朝鮮半島にあったわけです。燕山君はことのほか妓生に執着が強かったようですが、日本にも、今様や朗詠を吟じて踊る男装の遊女・白拍子が存在します。平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の静御前、後鳥羽上皇の亀菊などがいそれで、朝鮮も日本も同じようなものです。

 李先生は、17世紀の『赴北日記』を元に、両班と妓生の生態を説きます『赴北日記』を記した両班の朴就文は、1664年に武班として咸鏡道・会寧の守令(地方官僚)として勤務します。『赴北日記』は、守令としての1年5ヶ月、遊んだ妓生や接した女性たちについての遊行録?です。永井荷風が読めば絶賛したかもしれないw。
 朴就文は郷里の蔚山から赴任地の会寧へと半島東海岸を北上します。蔚山を出て2日目、宿泊した地方官僚宅の16歳の女婢と共寝(と先生は表現)し、宿泊する各所で民間の私婢や官衛の妓生と遊びます。官軍身分の朴就文が宿泊すると家主は女婢を差し出すこともあり、こういった風習があったようです。朴に随行する将兵にも女婢が提供されます。義城県では酒家の妓生と「共寝」し、ゆく先々では妓生、女婢の提供を受けながら旅を続けるわけです。なんと、富寧では宿泊した家の娘の提供を受けています。

 李栄薫先生は、『世宗ははたして聖君か』とい妓生の歴史についての著作を著しているようで、妓生の通史としては初めての研究だと自賛しておられます。妓生の通史ですから読んでみたいものです。妓生を軍慰安婦としたのも世宗だそうで、李先生によると、李朝第4代の世宗は、

「北方の辺境で勤務する軍士達が家から遠く離れ、寒さと暑さに苦労が多い。また日用のザッtな仕事を一々解決することも難しい。そこで、妓生をおいて将校と兵士、士卒を接待させるのが理に適うことだと」としながら、軍士を接待する妓生を設置するよう命じました。以降、北方の辺境の地域は勿論、全国の各村に妓生が設置されました。
大きい監営や軍営には妓生が100人を超えることもあり、規模が小さい軍県でも20~30人の妓生を置くことが普通でした。全国ではほぼ1万人に達するのではないかと私は推測します。このようにして生まれた軍士慰安婦制が、ほかならぬ朝鮮の妓生です。
元々世宗は、辺境の軍士を慰安するために設置するよう命じましたが、いつの間にか、南方の各村にまで守令と賓客を慰安する制度として広く拡散されました。そうなった背景は、南北を問わず、民間で女婢を客の寝室に入れ、性接待をさせるのが風俗と慣行として定着・成立していたからであります。

 このような身分制と妓生制度は甲午改革(1984)で廃止される19世紀まで続き、20世紀に入ると身分的な制度は商業的売春に変わったといいます。中国大陸や東南アジアに渡った従軍慰安婦もこうした歴史的背景があったわけです、なるほど。
 李承晩TVは面白いです。

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